三話①
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悪夢にうなされて寝覚めが悪いと、まるでその日一日まで全部台無しになりそうな気がする。夢と現実が何か具体的に重なったりなどしないにせよ、憂鬱に目覚めた日などはやはり憂鬱な一日が続くことが多かったわけで、夢など目が覚めてしまえばすぐに朧げになっていたりするが、なんとなく、ぼんやりと悪いことが起こりそうな予感だけが俺の中に残っている。
気分を引きずる性質なんだろう。やはり、憂鬱に始まった日に逆転ホームランを打ち放つことなどなかったように思う。
だから今日一日というのも、やはり良い一日にはならないんじゃないかと朝目が覚めて布団を押し上げて思った。眠りが浅いのか生活サイクルが合わないのか、とにかくここ何日かは寝起きが悪い。まず時計を見た。
「ああ……」
……ダメだ。七時をとっくに回っている。ミーシーの予言通り確かに俺は、目覚まし時計をセットし忘れて寝坊することになった。何でだろうな。早く寝たはずなのに。
それはもう取り返しがつかないから仕方ないとして……、俺の頭の中にはまだ他にも解決すべき引っ掛かりが残されているような気がした。ただ、何をとか、どうやってとか、そうした肝心な部分というのが思い出せない。何か事態がややこしくこんがらがっているような焦りのような感情だけが残っている。過去に経験した悪夢と一つだけ大きく違って、断片的とはいえ、昨日見た夢を今、こうして、目が覚めてからもどうやら思い出せそうだ。
「例えば……、今日は雨だろう。そして、それは正解だ。予知夢だ」
ザアザアと音が聞こえているし、それはおそらく夜の内に降り出したんだろう。そこまでしっかり記憶していたわけではないにしろ、ニュースで天気予報もやっていたように思う。
本物の予知能力者がこの家にいるとなると、それは夢見がちな俺の妄想である可能性も否めない。仮に俺が昨日の夜、寝る前の段階で今日の天気を知っていたところで、大した実用性もないだろう。
天気予報で降水確率をしっかり確認してる人と能力的に大差がない。当てずっぽうに予報しても何割かは正解できるだろう。加えて俺は別に、明日の天気が知りたいと強く願いながら布団に入ったわけでもなければ、強く確信を持って天気を言い当てたわけでもない。
その天気の話はともかくとして、俺は天気の話と同じくらいどうでもよく、天気の話と同じくらい確信のない予報を告げられている。
割と鮮明に思い出すことのできる夢が、もしも予知夢だったとすれば、ミーシーは靴下を履いていないだろう。風呂場の窓には鍵が掛けられているだろう。それらもまた、せいぜい何割かが正解できるような確率論の話でしかないのかも知れない。こうして夢の内容を並べてみると、寝起きの悪さを伴っているとはいえ、それのどこが悪夢だったのかは分からない。
悪夢だというよりは、単なる変な夢、ではあった。気味の悪さが常に伴っていたというだけで……。
「眠いし、……寒いな」
まあ、悪夢でなかったことさえ分かれば憂鬱な気分というのもいくらかは払拭できるかも分からん。洗面所へ行って、顔洗って歯を磨いて、時間がありそうならシャワーでも浴びることにしよう。朝飯は俺の分を残してくれていたら食う。
「おはよう、健介」
階段を下りると、アンミが洗濯カゴを運んでいるところと出くわした。
「おはよう。朝寒いな。早起き組はちゃんと暖房活用してるか?」
「うん、多分」
「なんならどてらとかあったはずだ、物置とかに。洗濯必須だとは思うが必要なら探すの手伝おう」
「……どてら?……どてら」
アンミは心細げにどてらという言葉を繰り返して、小さく首を傾げた。
どてら、……は、もしかするとダサイ言い方だったのかも知れない。多分他の名称があるにはあるんだろう。俺なんかはファッション用語に詳しかったりはしない。
「……もしかして方言だったか?ジャンパーみたいな。ビニール製じゃなくて、布でできてて綿が入ってるそういう服だ。布団……、的な、内側に……、ああ、説明が下手だな。寒い時に羽織るもんだ。防寒着だ」
「うん。寒いならいるのかな。健介はそれないと寒い?」
「俺は全然使ってない。どこにあるかも今は分かってない。アンミが寒いなら探せばあるぞという話だ」
「そっか、ありがと。今は多分いらないと思う。ミーシーもそんな寒そうにしてないし」
「じゃあ良いか」
どてら、は確かに漢字の書き方もわからん謎の代物だな。どことなく田舎臭いイメージもある。とりあえず、今は必要とされていないようだった。
階段からすぐ右折し、アンミと別れ洗面所で顔を洗う。昨晩俺が閉めたはずの窓が今は開いていて、それを確認できた辺りで、俺が予知夢を見たという可能性は薄らいだ。それは元より大した期待をしていたわけでもないから置いておくとして、代わりにどうでもいい疑問が俺の中に生まれる。
……開けること自体には文句もないが、何で毎度ここが開いているのかは少しばかり不思議だった。脱衣所の窓は車庫に繋がっていて、強く風が吹きつけてきたり人目があったりするわけじゃない、にしてもだ、風水的なこだわりでもなければわざわざ閉まっているものを開けたりはしないはずだろう。何かしら理由があるのなら、俺も閉めない方が良かったりするのかも知れん。
「……車庫から覗けてしまうがその辺りは気にしないのか?その場合は犯人は俺くらいしかいないわけだが」
独り言とほぼ同時に、ガチャと裏口のドアが開けられる音が窓の外から聞こえてきて、アンミがせっせと洗濯物を掛け始めた。ふと一瞬だけ目があって、「朝御飯、置いてあるよ?」と微笑み掛けられる。
「ああ、……見えてるのが分かってるなら、良いんだ。ありがとう」
窓もとりあえず開けたままその場を離れ、俺は台所のテーブルについた。アンミの言葉通り、ラップに包まれた俺用の朝御飯が用意されていて、起床時間の予測にミーシーが使われたのか、わざわざ温め直す必要もなさそうだった。米だけが、不自然に多く盛りつけられているが、それも直前によそおわれたもののようだ。
炊飯ジャーは、おそらく俺が来る直前に洗われていて、もう昼用のタイマーがセットされている。アンミは、朝起きて、料理して、ミーシーと二人で食事を済ませ、昨日の衣服を洗濯機に投げ込んで、食器を洗い、俺の起床に合わせておかずを温め直し、ご飯をよそった。ジャーを洗って米を研ぎといった準備まで進められている。今、洗濯物を干している。
「……王様のようだな。お茶くらいしかセルフサービスがない。ん、おはよう、ミーシー」
「おはよう。早起きしてこないと罰ゲームみたいに盛られる時があるわ。残飯処理をさせてるみたいで気が咎めるでしょう」
居間から現れたミーシーは、俺の席を素通りし、背中を向けたまま挨拶を返した。
「ゆっくり食う。どこら辺が残飯なのか言ってみろ、バチが当たるぞ」
「そこの辺りよ。どう見ても残ってたの全部よそったでしょう」
体を横に向けてこちらも見ずに人差し指を俺の茶碗へ向け、ぴょこぴょこと小さく動かす。目線は炊飯器に向けられていて、何度か電子音が聞こえた後、またすぐに居間の方へと戻ろうとした。
「俺の推理を聞いてくれ。炊飯ジャーはついさっき洗われた。それまで残っていた分がこの茶碗によそおわれている」
無言でこちらを向く。ほぼ無表情で、俺と目が合ったはずのタイミングにすら顔の筋肉はピクリとも動かなかった。
「良かったわね。推理力勝負しましょう。タイヤキというのは鯛の形をしてるのよ。参ったでしょう。私と勝負するにはまだ早かったわね。犬と戦ってなさい」
「……まだ、推理終わってない。続きを聞いてくれ。俺が起きてくる時間なんかアンミには分からないだろう。ありがとうな、冷めてない」
「早起きしなさい。文句言わなくて済むように。私のやつあたりとか気分の問題であなたのご飯が冷や飯になるわ」
「……まあ、そうだな。迷惑になってるだろうしな。明日からは目覚ましも早めにしておこう。夜も引き続き早めに寝ることにはする」
会話の一段落でミーシーはくるりと向きを変え、また居間へと歩いていった。ソファにとすんと座り込む。『機嫌は悪くないよ』と、アンミは言うんだろうが、表情を観察してみても良いサンプルが得られそうにはない。
ただ、寝坊した俺のために予知を活用してくれるなど行動面では優しさをかいま見ることもできなくはなかった。なんなら昨日の夜の時点で俺の寝坊など見通していたんだろうから、アンミに明日の朝御飯は二人分で良いと助言していたっておかしくはないだろう。
残飯などと称されてしまったが、朝飯に米など久しく食べていない俺にとって、用意された食事というのは、物珍しいとか楽できるとか、そういう簡単な説明で済むものじゃない。ありがたいとか嬉しいとかとも少し違う。
的確に言い表すことは難しいが、例えば遠くの山がくっくり見えたとか、葉っぱが程よく紅く統一されていたとか、あるいは、日向ぼっこして微睡むような、ふわふわの毛皮に埋もれるというような、そういう調和の取れた癒しの感覚に近い。
アンミが食事を用意してくれて、何だかんだミーシーは俺が温かい飯を食えるように手配してくれた。『寝坊すると朝飯はない』だとか『やつあたりで冷や飯を食わせることもできる』なんて言い方はちょっと強い忠告ではあるが、一応今日はぎりぎり恩情で飯を食わせて貰えることになった。
「いただきます」
手を合わせ、食事を始めた。朝食がこうも揃えられているのは王様のようだ。少なくともそこそこ良い旅館で生活を送ってるようなものだ。片付けくらいは自分でやらんとバチが当たるかも分からん。良い具合に体も温まってきた。
しっかり腹を膨らませ、立ち上がり、自分の食器をスポンジで擦る。その間にアンミは洗濯物干しを終えて戻ってきて、すぐ後ろで俺が食器を洗うのを観察するようだった。『ごちそうさま』にも、気の抜けた返事を返しただけで、じっと俺の背中を眺め続けている。
「…………。今日は、雨降ってるな」
「雨降ってたね」
「アンミは、よく車庫の方の物干し竿気づいたな。玄関から入ってたらあんなとこ気づかないだろう」
「多分?ミーシーが教えてくれた」
「そういえば、風呂場の、脱衣所の窓が開いてるのはなんかのおまじないなのか?開けといた方が良いなら俺も開けるようにするぞ」
「……?お風呂は、出たら開けない?出たらなんとなくすぐ開けてる」
お風呂を出た時に、開ける習慣……、なのか。風呂上がりにさっぱりした後は解放感とかが必要だったりするとして、それは服を着た後か前か、……聞くべきなんだろうか。
服を着る前に窓を開けるのは変だぞと注意しておくべきだとは思うが、変えるつもりのないポリシーだったりするかも分からん。湯上がり全裸で窓全開が気持ち良いと開き直られたら、それが悪いことだとは咎めづらいし、車庫に繋がっている窓などはそこまで人目を気にする場所ではない。
ただ一つ、俺が覗きの犯人に仕立て上げられるという懸念を除いて、別に普段そうならそうしててくれても良い。いっそご近所から見えかねない位置であれば、ご近所さんを槍玉にあげるという手もあったが、俺がこの場で服を着るのが先か、窓を開けるのが先かを問うのは、下調べをしている奴にしか思われないだろうから、どう言葉を繋いで良いのかは悩ましかった。
仮に俺が裏口から車庫側に出るという選択肢を放棄したところで、覗きができてしまうという、状況は変わらない。
「でもほら、……なんだろう、若い、ほら、悪意のある第三者が」
「あっ、もしかして泥棒の心配してる?少ししたら閉めるようにした方が良い?」
「泥棒の心配はしてない。少ししてから閉めても意味がない。その、……その場で閉めてないと」
「そう?でも湯気出るし」
「あっ、そういうことか。そういうことを気にしてるのか。じゃあ良いんだ。全然問題ない。お風呂から出て、服を着て、……洗面所から出る前に開けてるということだよな」
「うん?じゃないとお風呂乾かない、かなと思ってた」
とすると単なるカビ予防か。変な誤解をしていた。なら何も心配することはないし、むしろアンミの方が正しい。俺など浴室の湿気などまるで気にしたことはなかったが、確かに言われてみれば、乾かした方が良い気がする。むしろその為に窓がついているようにさえ思えてくる。
「なるほど。じゃあ、アンミは……、最後にお風呂に入ったら、出た時に窓を開けておくということになるよな」
「うん。そうだと思う」
そう証言を受け取るとちょっと気になることがある。俺は昨日の夜の段階で、見ていないはずの風呂の順番を言い当てることができたことになるわけだ。まあそれはせいぜい五十パーセントの確率を正解しているに過ぎないわけだが、俺はどうしてか、アンミとミーシーの入浴中、窓に鍵が掛かっていたように思えてならなかった。
もしこれが正解だとすれば、かなりの確度で、俺が予知夢を見たことになるんじゃないだろうか。当然俺は覗き魔でもなければ、二重人格者でもない。アンミとミーシーが入浴中に鍵を掛けてるかどうかなんて知れるはずがない。なのにどうしてか、俺がそれを知っているとすれば、それはとても不思議な出来事だとはいえる。
オカルトめいた思考だが、ミーシーの予知能力というのが伝播して、俺にまで予知能力というのが芽生えつつあるのかも知れない。
だとすればすごいことだ。
俺は皿を洗い終えて居間の方へ歩いていき、アンミも、ミーシーに用事があるのかその後に続いた。ミーシーはソファに座っている。




