二話⑯
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眠りに落ちた後なのに、微かな灯を瞼の裏に感じている。
実際の時間がどれくらいに過ぎるのかは分からないながら、俺は夢の中でさえ、一秒を、十秒を、一分を、正確に数えられる。何もなく、ほの暗い場所にぽつんと佇んで、ザラザラとした地面を手のひらで撫でる。
俺は何かをそこに運び込まなくてはならない。真っ白で、何もない広い場所に、何かを運び込まなくてはならない。何を置こうか。大切な物をそこに。ここに置いておけばきっと永遠に、誰にも傷つけられることもなく、誰にも盗まれることがない。
だから大切なものをここに。ザラザラと地面を撫でて、そこに一つ。ここに一つ。……ああ、俺は、そうした気持ちに、囲まれていたかったんだろう。
思いやりを並べてみる。
優しさを広げてみる。
愛を飾ってみる。
それはとても心地よくて、世界がとても清らかに組み上がっていくようにさえ感じた。
思い出を貼り付けてみる。
ため息をしまい込んでみる。
不思議を敷いてみる。
寂しさを積み上げて、少し離れて、そっと座り込んで眺めてみる。
時計代わりの鼓動が一つ、また一つ、一拍打つごとに世界は揺らめいていた。俺の置いたいくつもはこの広さに不似合いにとてもこじんまりしていて、まだまだ、俺は自分の陣地を広げようと思えば、いくらでも、広げることができそうだった。
種を撒いてみる。
水を掛けてみる。
光をかざしてみる。
いくつもいくつも芽生えたものを、俺は一つ一つ愛でていく。
笑い掛けてみる。
言葉を贈ってみる。
手を差し伸べてみる。
俺は楽しくて仕方なかった。ありきたりな小さな箱庭だろうに、こじんまりとはしているものの、とても均整の取れた美しいもののように思える。
『ええ、美しく思う』
嘆きも恥じらいも、きらびやかなベールに包まれていく。危うさも恐れも色鮮やかに塗られていく。けれどな、ああ、そうだな。俺はそれすらも、ここに運ぶべきなんだろう。
これだけ広いのなら、ここにどれだけでも、いくらでも、並べられる。折り畳む必要すらもなく、囲いを用意するまでもなく、一つずつをつまみ上げて、ここに置こう。俺のために用意された場所なんだから。
◆
俺はそうして安らかに眠っていた。でも、ふとした拍子に、小さな亀裂を見つけることができる。漏れだす闇の色や、ポタリポタリと滴り伝う水滴があった。
それがどこに続いていくのか、どれほど深いものなのか、覗き込んでみた。窓際から外を眺めるように確かな隔たりがあって、であるから俺はそこにさして関心を払うでもなく、ただ何気なく眺めている。
雨が降っているようだった。少女が二人、雨音を聞いている。視線を交わすでもなく二人は別々に、外を眺めて、雨の音を聞いている。視界の端に青くさらりと髪が流れた。風景を遮るように赤い髪があった。
雨の振る外を眺めて、俺と同じように、何かを懐かしんでいるんだろう。寄り添って語らえば良いのにと思った。そうすれば暗い外など眺めずに、二人の表情をしっかりと、確認できただろうから。二人向き合って、柔らかく微笑むと良いのに。お互いがそうしたいと思っているんだから。
ただ俺がこうして見つめている間には、どうやらそうはなりそうにない。二つがぼやけて重なり合って、でもお互いに別々のものを眺めているから、それはなんとも救い難く、何一つ表していない。せめて一つずつを見てみたくなった。
片目を瞑るようにしてアンミを、片目を瞑るようにしてミーシーを、交互に、交互に、パラパラ、パラパラと。ほんの一日や二日では、窺い知れることなんてない。踏み込めるような距離にない。
ここで一つ明らかになるのは……、もしかすると俺は少しばかり察してはいたのかも知れないが、アンミは満足げで、ミーシーは不満げなようだった。ただし、何を、どうして、満足げだったり、不満げだったりするのか、実のところ俺にはそれを受け取る術がない。そうした気持ちを抱く理由というのが、俺の手の届く場所にはない。
堅く閉ざされた箱の中にあって、加えていくらか複雑な形を含んでいる。満足げなアンミはひとまず置いておくとして、ミーシーの不満げな、指の動きを目で追った。脱衣所の窓を指二本で右へ押し払って閉め切り、そして親指で弾いて鍵を掛ける。
そしてまた人差し指を鍵に置いたまま、しばらくの時間が過ぎた。何かを考え込んでいるようにも思えるし、単に疲れきって動きが止まっただけなのかも知れない。ただし俺が予想した通り、頭を下ろして、一つため息を吐いた。
次にアンミの方へ視点をずらしてみた。俺はここで、今見えているアンミとミーシーの映像というのが、同時進行でないことに気づいた。振り返ったアンミが風呂上がりのミーシーを眺めたからだ。
そこでようやく二人は向き合って、おそらく少しばかりの会話をしたんだろう。声はよく聞こえない。ただし、何の意味もない会話であることだけは分かった。アンミは一度ミーシーの顔を見てから、どうしてかすぐに目線を下げて、ミーシーの足元ばかりに視線を集中させた。
ミーシーの足元を、そわそわと気にしているようであったから、まあ靴下を履けとかそういう言外の注意とも受け取ることはできるだろう。当然のことのように、ミーシーはそれをまるで気にしてはいないし、アンミもそれを特に言葉にして咎めることはないようだった。
ただ意味のない会話をしている。
ミーシーの機嫌というのはいくらか良くなったんだろうか。居間を立ち去った時と比べて、少しは気分が落ち着いただろうか。俺はもちろんそれを気にしていたのに、……不思議と、アンミは積極的には、ミーシーの顔を見ようとはしなかった。
おそらくミーシーは、まっすぐにアンミのことを、アンミの顔を、見つめているのに、逆にアンミの目線はあちらこちらへと動いて、ミーシーの顔を正面から捉えてはいない。ほんの一瞬に視線が移動する度にちらりと映る程度で、揺れる赤い前髪も邪魔して、そして加えていうならアンミがそもそもミーシーの表情を気にしていないこともあって、結局この時、ミーシーがどんな表情をしていたのか、どういった気持ちを抱いていたのか、知ることはできない。
「…………」
「…………」
「…………」
目と目をまっすぐ向き合わせることもせず、意味のない会話を続けている。互いの琴線にまるで触れない会話を続けている。もっと語るべきことがあるだろうに、どうしてかそれを、わざと避けているようでもあった。
とはいえ、これはそう、単なる夢なんだから、俺が見ていた景色が混ざり合って、そう感じるだけなのかも知れない。その割にはとても明瞭な光景で、確かな情動がそこにあった。特に劇的な場面ではない。けれど一言では言い表すのが難しそうな、感情の混ざり具合が空気に満ちている。
言葉に組み立てることが難しいからなのか、アンミもミーシーも胸に抱えているはずの答えをお互い口にはできないようだ。そして多分、言葉にしてしまえば、途端に意味を失うこともある。だから、言葉には、しないんだろう。
でもな、俺にはそれがどうにももどかしい。どうかいつか、伝えられたら良い。
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第二話『星のない空を見つめて』
She looked up at the starless sky and pondered.




