二話⑮
こういう経緯で言質を取られるのは、少し不本意ではあった。後手に回って無条件で契約を結ばされた上に、大した信用がないことも浮き彫りになった。こうした口約束なんかで安心してくれるだろうか。
アンミの表情は一瞬綻んだようにも見えたが、すぐに考え事でも始めてしまったようだった。作り笑顔だったのか、それとも一瞬だけでも俺の言葉を嬉しく思ってくれたのか、その後を観察してみてもよく分からない。
「なんなら逆に、アンミがな、気に入ってくれると良いな、気ままに、過ごしてくれると良い。それも時間を掛けなきゃ慣れないもんだろうけどな、ゆっくり休んで、話したいことができたら話してくれたら良い。悩んでることがあるなら気が向いたら相談してくれたら良い。落ち込んでたりするか?考え事もほどほどにして、……な、別に今じゃなくても良い。しばらくはリラックスして、気分が落ち込んでるなら回復に専念して、余裕ができるまで待つのが良い」
「うん。ごめんね、そうする。健介はお風呂入ってきて?」
内面の判断など難しいところではあるが、これも結局、『俺が迷惑に思っているかどうか』という話でしかない。アンミはここに至っても、深く思い悩んでいるという素振りを見せなかった。俺の言葉を咀嚼して飲み込むのに時間が掛かっただけなのか、目線もまたこちらへ向いてそれがちゃんと一定に留まって、声にも程よく張りが戻った。
「ああ、じゃあ」
とりあえずは一安心ということにしておいて、風呂に入ることにした。こうして話した後でなら、俺に黙って出て行くということも、多分ないだろう。さすがに一言くらいは添えないと不義理だと感じてくれるはずだ。
脱衣所で服を脱いだところで、冷たい空気が入り込んでくることに気づいた。洗面台の横の窓が完全に開放されていて、なんなら俺が入る前、脱衣所の戸も半開きのままだった。ちょっと肌寒いし、開いてる意味もないだろうから閉めようかと思ったが、……ここは昨日も開いていた。そして俺は昨日も閉めた。
ということは誰かが何かのためにわざわざ開けたわけで、……なんだろう。荷物の受け渡しでもしたんだろうか。する予定なのかも分からん。まあ、じゃあどうせ風呂に入れば温まるわけだし、良いか開けとけば。
「ふぅ……」
シャワーを浴びて頭を洗って、風呂に浸かってぐぅと伸びをした。心も休まるな。迷惑じゃないとは言ったものの、慣れないのはやはりお互い様だったろう。俺も少し体が凝り固まっていた気がする。コキリコキリと首が鳴った。ただ、事故の後遺症というのは起こりそうにはないし、ぐっすり眠れば疲れも残らないだろう。
一通り体を伸ばして風呂を出た。体が冷えない内に服を着て歯を磨いて、……そうだな。いっそ今日は早寝をしてみようか。朝寝坊した日などは夜遅くまで寝つけなかったりするし、九時くらいに、布団入ろうか。そうまですればきっと早起きできる。
風呂が空いたぞと知らせようと思ったが、アンミの姿は既に居間から消えていた。ミーシーの機嫌でも窺いにいったんだろうか。それともゆっくり休んでくれてるだろうか。
別にテレビ見て時間を潰すこともできるが、見たい番組があるわけでもないし陽太へ連絡だけしておくことにした。受話器を取って電話番号を叩く。
「もしもし?」
「ああもしもし、健介か。ちゃんと峰岸に謝ったか?」
「謝った、簡単にだけどな。ありがたいことに、また今週の土曜日にな、約束し直してくれた」
「峰岸からも一応聞いたのだ。ちゃんと謝ったなら良いのだが……。まあ、あれだな、健介。今度はちゃんと忘れないようにしておくのだぞ?さすがに二度続けてだと嫌がらせだと疑われてしまうからな」
「そうだな……。大丈夫なつもりでいるが、お前ももしな?俺がまたやらかしたなと思ったらミナコを引き連れて家に来てくれ。大丈夫なつもりではいるが、ちょっと自信を失ってるんだ」
「もしまたやらかしたらな?けどな、俺を頼るよりもちゃんとな、反省することが大切だぞ」
半笑いみたいな声で諭されてしまった。当然気をつけるつもりではある。さすがに今度ばかりは勘違いするような要素がない。大丈夫なはずだ。
「ああ。じゃあ、そういうことで。おかしいと思ったら公園に行ってやってくれ。念のためだ」
「ん、まあ、仕方ないな。健介は。おかしいと思ったらな?じゃあ、土曜だぞ?明々後日な?」
「ああ」
随分と、馬鹿にされてはいる。自業自得ではあるが。ホワイトボードから『陽太へ未連絡』を消して、一つ深呼吸をした。そうしてから自室に戻った。ミーコはもう寝てるだろうか。
「…………」
「起きてるニャ」
「起きてたか。どうしようかな。しりとりの練習をさせてくれたりしないか?」
「ちょっと私用事があるニャから、……というか、はっきり言っておくとトイレに行ってきますニャ。ドア開けてくれるかニャ?」
「ん、ああ……。まあ、そうか。ええっと、人間用のか?」
「お外ニャ。だから洗面所も開いてると助かるニャけど」
「ああすまん、そこは多分閉めたな」
「じゃあ多分またその内開くと思うニャし、その時トイレ行くから、そこだけドア開けといて欲しいニャ。ちょっとだけ隙間で良いニャ」
「急ぎなら俺が開けるぞ?それにまあ、散歩なら俺が付き合って出てやることもできる。外行くか?」
「結構ニャ。ちょっとここでゆっくりしてタイミング見て行ってくるニャ。健介も疲れてるならごろごろしたいんじゃないのかニャ?気にせずごろごろしててくれたらどうかニャ?」
「…………。そう、だな。まあ、そうさせて貰おうか」
急を要する場合には喋れるわけだからな。そう世話を焼いてやらなくても大丈夫だろう。ベッドにゴロンと背を載せて、若干肌寒さもあるから、毛布も引き寄せた。さすがにまだ寝るには早いがミーコがトイレ待ちしてる間はおしゃべりしてても良いし、二人が風呂に行くタイミングをミーコにお知らせしてやるか、まあ我慢できなくなったら外に出してやる役割を担わなくては……。
一緒に散歩に出て糞害だと文句の言われない場所を探してやるのも良いかも知れん。戻ってきて、おしゃべりをして、そうすればより一層眠りも近づくような気がした。
「…………」
ミーコと会話を終えたその瞬間に、ふわりと霧が立つように視界が白く染まった。
雪が降り積もるよりも静かにしんと、空気が息を潜めている。
おかしいな、さっきまでは、いや、つい先程までだって別にザワザワと空気が蠢いていたわけじゃないのに、この静寂はなんだろう。耳を澄ませば今だって、風の音が聞こえないわけじゃない。でもそれは俺がわざわざ、気に掛けなければもう存在すらしないかのように、静かだ。
代わりといってはなんだが、俺は同時に少し息苦しさも感じていた。完全に密閉して防音壁で囲んで、俺を閉じ込めている透明な壁がある。周りに目を向けて、俺はその異様な感覚というのに戸惑った。ミーコがトイレに行くからと、ドアを少し開けている。本来ならばそこから空気が流れ込んで、あるいは流れ出て、空気中の微粒子なんかはくるくると舞うはずだ。当然そんなものは元から目に見えたりはしないながら、俺の部屋はまるで世界から断絶されてしまったかのように、途切れている。
「……んぅ」
腕がとても静かに動く。声を出しても、いつまでも口元で留まっている。結論を述べるに、俺はどうやら、ぼんやりとしているようだった。とても眠い時に頭が働かなくて人の話が聞き取れないのと同じような、状態にある。
ただし俺は決して、眠かったりはしない。それに加えて、俺は多分だが、ベッドに倒れ込んだ瞬間に、この静けさに気づいた。急激な切り替わりというのに違和感しかない。倒れ込んだ拍子に骨でも外れて神経の伝達が遮断されたのかと心配になって首に指を這わせてみた。
痛みもないし、……多分頸椎もちゃんと並んでいる。不思議だ。大丈夫なんだろうか、これは。いやしかし、むしろ気分的なことをいうならば、とてもリラックスできているような気がしなくもない。どこも痛くなくて、静かな空気に包まれている。
「なあミーコ。まだいるか?」
「ここにいるニャ」
俺にはもう、ここというのが、どこなのか分からない。俺の部屋にはいるんだろう。おそらく足元にいるんだろう。だが声がどこで響いてどこを漂って届いたのか、辿ることはできない。ピンと弦を一つ弾くようにだけ聞こえた。
本でも読もうかと思った。立ち上がるまではすんなりとできたのに、本の背に指を置くと、するりと腕の力が抜けてしまった。本を読む気分に全然ならない。いっそ座禅でも組んで瞑想していた方が有意義で、俺がこれまでどんな人生を歩んできたのか懐かしみながら、これから一体どうしたいのかを考える方が、重要なことのように思えた。
開いたのかも分からん、悟りが、こうも突然に。まあ、じゃあ、瞑想してても良いが。
「なあミーコ。トイレはまだ行かないのか?」
「まだ行かないニャ。もうしばらくここにいるニャ」
「そうか」
ドアの向こうで足音が聞こえた。とても穏やかに時間が流れていて、じっくりとその音に聞き入ることができた。多分、ミーシーだろうな。そして足音は一人分しかない。風呂に入るんだろうと思う。時間も気にならない。時計を見ることもなく、俺はまたベッドに一度腰掛けた。
「健介寝るなら電気消したらどうかニャ?」
「ああ。……そうだな。寝ても良いかもな。早寝する予定ではあったし。ちょっと仮眠かな、これは」
「眠いかニャ?」
「まあ?寝ようと思えば寝れるだろうが、なんともいえんな。まだ寝るには早いとは思ってるから、話し掛けてくれても良いぞ」
「じゃあ、電気消すと良いニャ」
「ああ」と返事をして素直にそれに従った。毛布に潜り込んでもまだやはり眠気というのは感じていなくて、ただただ俺は、ぼんやりとしていた。暗くなるとなお一層に体は空気に溶け込んで肌の感覚も鈍くなった。
星空に見入るように、黒く闇に塗られた天井を見つめている。何の感想もない。とても満ち足りているようでいて、とても晴れやかなようでいて、ただいくらでも脆く崩れてしまいそうな危うさを孕んでいる。
青空に浮かぶしゃぼん玉が、ほんのそよ風で爆ぜるように、俺もまた静けさに包まれながらも、ふわふわと漂いながらも、心は薄く張りつめている。普段であれば俺はそんなことを自覚したりしなかったろう。どうしてかこの瞬間ばかりは俺はゆっくりと自分を見つめて、そしてまあ割合に客観的に、内面を評価できる気がした。
そうして何分が過ぎたのか分からない。結局ミーコが俺に声を掛けることはなかったんだろう。声を掛けるつもりもなかったんだろう。俺はただただぼんやりとしていて、いつの間にか目を瞑っていて、気づかぬ内に眠っている。




