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AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
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一話②


『そしてここからは、高橋健介の知る、その後の物語』



 力の抜け掛けた手足をいくらかは重く感じていた。最近は寝起きなど大抵そんなふうにふらふらと歩く習慣が身についてしまっている。


 笑顔を浮かべてはつらつと駆け足するようなことは思い返しても随分と稀なようで、俺は今日この日も、朝の空気の気持ち良さなど特に感じることもなく、大して背筋も伸ばさずに、なんなら瞼も半分くらいしか開けずに歩いていた。


 まあ、朝など大概そんなものだ。極めてニュートラルに、気分が海抜零メートルを保っている。追い風が吹き荒れて波の猛るようなノリノリ気分の日も過去には一応あったろう。そういうイベントというのは俺が望んで起こるわけじゃないから、窮屈に今日もまた、海抜零メートルを保つことにはなる。何か良いことでもあると良いなと他人任せに考えていた。


「……」


 そうして俺はずっと俯き加減で歩いていたんだろう。見慣れた景色に一つ違和感があることに気づいたのは、目的地に随分と近づいてからだった。バイトしてる店の一面が、水色というのか灰色というのか、あまり綺麗とは言えない塗装のシャッターで閉められている。今日は店長が寝坊したんだなと、ため息を一つ吐いて、……まあ何か紙切れがシャッターに貼られてはいたものの、そこに書かれた文字を読むよりも先に、シャッターの溝を指でなぞって持ち上がらないかを試してみた。


 当然、鍵が掛かっているのか、あるいはそもそもそうやって開けるものじゃないのか、動きそうにはない。じゃあ、とりあえずここで待ちながら店長に電話してやろうと思って、何気なく顔を上げて、先程見つけた紙切れに視線を移す。


 店長が寝坊することも珍しいし、もしかすると何かしらの案内だったり、するのかも分からん。ポケットから携帯を取り出して、……目線は紙切れに向けたまま、そこにまず、俺の名前が記されているのを見つけた。『健ちゃん』と。


「ん……?」


 短く書かれた文章を、何度も読み返す意味などない。だが俺はその場で立ち尽くし呆然と文字を見つめていた。多分一分か、二分か、紙切れに書かれたかわいらしい丸文字から、目を離すことができなかった。


『ごめんね』と書かれている。『廃業します』と書かれている。


 そして俺と陽太の名前がその後に無理やり付け足したかのように小さく潰れて記されていた。


「…………」


 ああ、俺はなんなら、この瞬間まで、海抜零メートルの何事もない無気力な日常に不満さえ抱いていただろう。ただ……、ああ、そうなのか。俺はいくら気候が変動しようと、海が干上がることなんてないと、信じていた。


 時に面白いことがあって、時に悲しいことがあって、それらが揺れ動かないことにつまらなさを感じていたというだけで、何もそんな……、干上がることなんて想定していなかった。こうして不意を突かれると言葉もまともに出てこない。


「……てん。……な」


 俺はまだそれが何かの冗談か、あるいは店長の書き損じじゃないかと疑っている。……つもりではある。とはいえ、俺の腕は支えを求めてシャッターへ寄り掛かっていたし、脳裏には数々の、こうなっても仕方ない理由が駆け巡っている。


 左手は携帯を握りしめているんだから、なんなら店長に直接電話をしてどういう意図なのかを問い質したって良い。でもまずは、落ち着いて、状況をできるだけ、整理しなくてはならない。一歩、二歩と、足を動かして、窓から店内を覗き込んでみる。


 窓から……。もしかして、これは単なるイタズラのドッキリで、店長と陽太が、店の中で笑っているんじゃないかと思った。でも、誰もいなかった。シャッターが閉まっていればそれは当たり前なのかも知れないが、誰もいなくて薄暗くて、それはともかく、ご丁寧なことに、あるはずのテーブルも椅子も全て消えてなくなっていた。


 店長のかわいらしい丸文字の廃業宣言よりもそれはいくらも現実感を伴っていて、俺はこの段に至って、ようやく、終わってしまったんだなと、諦めの感情が芽生えた。


 俺の足は地面を失ったようにふらついて、なんとか体を回すも壁に背をついてなお、立っていることすらままならず、ずるずると、滑り落ちてその場へしゃがみ込んだ。一体、何が悪かったんだろう。携帯電話をひとしきり眺めた後、力を失った首を傾けて空を見上げた。


「何が……、そりゃまあ、色々悪かったが」


 突然、ともいえないのかも知れない。いつか、いずれは、こんなふうに別れが訪れることに気づいていたのかも知れない。どうして、見て見ぬふりをしてしまったのか。どうして別れが訪れることを知っていながら、その時まで深くを語り合わなかったのか。


「……店長」


 携帯電話に目線を戻して、電話帳を開いて、店長の携帯へ発信してみる。でも耳にも当てなかったということは、多分俺はそれが繋がらないことをちゃんと頭では分かっていた。


 予想通り、電話は繋がらなかった。もしも繋がったら、もしも声が聞けたら、俺は店長になんて声を掛けるつもりだったんだろう。『ありがとう』とか、『さようなら』とか、できるなら、『また会いたい』と言ったんだろうが、その望みも叶いそうにない。


「…………。不味かったからな。料理をできる人間が、一人もいなかったからな。客など、数えるほどしか見てない。そりゃあ、……無理だったろう」


 ささやかな、日常の幸せというのは、失ってから胸に刺さる。割合に平凡ではあったろうが、……そうだな。結構な幸せ者だったんだろう、俺は。


 だから別に、強がらなくても良い。堂々と泣いても良い。お気に入りの場所だった。温かくて居心地の良い場所だった。


 多少ほつれて綿が出ていたにせよ、俺はそれを大事に大事に羽織っていた。いつの間にやら、裂け目も広がり綿は出尽くして、色も剥げ袖ももげ、もう取り返しのつかない状態になっていたようだ。


 大事に大事に羽織っていながら、繕うこともできずに、こうして今に至る。まるで全てを失ったかのように、空虚だった。


「無理だったろう」


 あれが悪かったこれが悪かったと言い出せばきりがないし、言ったところでもはや何が変わるわけでもない。ただ、悔いるべきところは、見つけておくべきだとも思った。


 何故かというと、まあ、……これは陽太にも連絡をしなくちゃならない。陽太にも知らせてやらなければならない。あいつもきっと俺と同じように、何が悪かったのか気づいてしまうだろうから、せめてそこに軽くフォローを添えてやらなくては……。


「掃除もしっかりしてたし、食中毒だって多分出してない。だから、……逆にいえばな、ほら、誰も傷つけたりしてないんだ」


 今月に入ってから誰か客は来たんだろうか。どうにも思い出せない。客がいる日などの方がよほど稀で、もし知らない人間がいればなんなら部外者が入り込んだのかと錯覚するほどだった。


 俺と陽太と店長の三人だけの小さな集まりで運営されていて、致命的なことにその三人とも、料理はできそうになかった。そもそもそこが根源的な問題であるのは間違いなくて、料理のできない料理屋に、客など普通迷い込まない。客がいなければ当然料理の注文もなく、仮に俺が足し算引き算ができないほどの阿呆であったとしても、いずれ店が潰れるであろうことは、想像できたはずだ。


 でもな……、と、一言添えたい。


 店長は良い人だった。俺は料理はできないながら、テーブルも窓も曇り一つないほどに熱心に磨いていた。店内はきっと髪の毛一本すら見つからないくらいに綺麗だったろうと思う。陽太は……、まあ空回りしていたとはいえ、それでも店を少しでも良くしようとアイデアを出した。高齢者層を取り入れるために俳句を並べようとしてみたり、お子さま連れを厚遇しようと卵の殻でオモチャを作ろうとしてみたり……、覚えている限りは成功といえるような例は一つもないが、それでも陽太なりに、あいつも料理はできないながら、それ以外のことをどうにかしようと必死だったんだろう。


 だから、方向性は悪かったにせよ、何も解決する兆しがなかったにせよ、もしちゃんと神様がそういう努力とか気持ちみたいなものを評価してくれていたら、結果はもう少し、ほんの少しだけは違ったのかも知れない。


「ただまあ……、ごみだったな。俳句もダメだったし、卵のオモチャもダメだったな」


 立ち上がることも億劫だった。とはいえここでずっと待っていることが、とても惨めに思える。ため息一つ、数歩歩いてまたシャッターの貼り紙を見つめた。これがもしもコピー用紙にワープロ文字を印刷したものだったのなら、俺はこの寒空の中何時間かここに立って誰かが来るのを待って、そうして一秒ずつ、一秒ずつ諦めることもできたんだろう。


 このかわいらしい丸文字は、紛れもなく店長が書いたものであろうから、……店長がイタズラでわざわざこんな貼り紙をするはずなどもないであろうから、俺は馬鹿みたいにここに突っ立って待ちぼうけすることさえ許されない。終わったんだと、告げている。このぺらぺらの貼り紙が、この店にもう誰も来ないのだと教えている。まあ、どんなことでさえ、終わる時はそんなものなのかも知れない。いつもこうしてあっさりと決まりきったことだけを知らせて、懇願する余地もなく俺を追い詰めるのかも知れない。


「卵の殻で、一生懸命ロボットを作ったところで……。何も変わらないと、言うべきだった」


 半ば無意識に、貼り紙を捲り取って丸めポケットに入れた。こんな形で知らされるのは、酷だ。俺が陽太に、連絡をしてやるべきだろう。やんわりと婉曲に、突き付けるのではなくそっと目に入るように言葉を置こう。


「…………」


 いやいっそ、事務的に淡々と、ありのままの事実だけを告げるのが良いだろうか。俺は当然この件を悲しく思っている。そして多分だが陽太は、俺以上に、心を痛めるんじゃないだろうか。果たして、どちらにせよ良い言葉などすぐには浮かびそうになかった。


 家に帰ってひとしきり感傷に浸った後、冷静になってから取り組むべきことだろう。店長が夜逃げしたというのを、一体どうやってオブラートに包んだら良いものか。陽太が嘆くのなら、それに合わせて相槌も必要だろう。陽太だって馬鹿じゃない。理由を説明するまでもないはずだ。ちょっと、俺がまず、……落ち着かなくちゃならないな。俺はこれから……、どうだろう。また暇を持て余すかも知れん。料理を、勉強してみようか。毎朝ここへ嘆きを呟きに来ようか。もしも美味しい料理を作れるようになったら、ここに供えて手を合わそうか。


「ダメだ……、分からん……」


 俺の心はジェンガのように、また一つ大きな土台を奪われた。どんな顔して、陽太に会おうか。二人してしょげかえっているところに合流して、ミナコは一体どう思うんだろうか。


 まあ、……そんな俺と陽太に囲まれたら、ミナコはつまんないなと思うだろう。的外れな慰めの言葉を探すのに終始して、そんなつまんない日に疲れたら、一体次に会う約束は、いつになるんだろうか。また一カ月先になるか、あるいは次はもっと、二カ月先か。そうしてまた一つ、俺は土台を失うのかも知れない。


 そんなことは考えても仕方ないと自分に言い聞かせながらも、でもここにいつまでもいると、負の螺旋に飲み込まれて暗闇から出られなくなりそうな気がした。とぼとぼと、その場を離れて、何度も名残惜しく振り返りながら帰路につく。耐えがたいほどに、胸が重く感じられた。それでももう帰る他ないんだから、俯き加減で歩き続けた。


「…………?」


 途中どうしても一度、顔を上げなくてはならない場所が存在する。とても億劫だったが、首を上げて信号を確認した。ああ、歩行者信号は赤だった。ふらふらとそのまま突っ込んでいたら死んでたかも知れない。通勤時間帯は交通量も多い。まあちょっと、危なかった。


 俺が?……危なかったのか?突っ込みそうだと思われたんだろうか。


 ちょうど俺のすぐ右側で、横断歩道に少しはみ出て、車が一台、動きを止めた。そして次々とその車の後ろに車が連なってあっと言う間に渋滞ができる。俺のせいじゃないよなと思って足元を見た。まあ、別に道路にはみ出てもいないし、飛び出すような格好をしてたりもしない。続けて信号も確認したが、歩行者信号は赤のままだし、上方にある、その車が見るべき信号は緑色に点灯している。黄色ですらない。


 どういうことだろうと思って再び車を眺めると、運転手も俺に気づいたようでしきりに、人差し指でつんつんと、……多分、自分の車の下を指さしていた。


「……?どういうことだ。俺が死にたそうな顔をしていたということか?」


 俺は首を傾げながら手のひらで車の進行方向を示して、いや結構です、どうぞとジェスチャーした。その運転手も一度首を傾げた後フロントガラス越しに車の前方を覗き込むようにしてから、困ったように表情を歪ませて、またつんつんと、指さす。


 …………。死に神?なんだろうか。死に神がスーツを着て軽自動車に乗っている。さっさと死んでくれないと困ると、いうことか。いやだが、……。そんなふうにされて自ら進んで道路に寝そべるような潔い奴なんていないだろう。俺はどうすれば良いのか分からない。ただ、着々と、渋滞は悪化していき、その様子というのは俺に少しばかりプレッシャーを与えていた。


「いや猫がさあ。ごめんね、ちょっとそこの猫どけてくれない?」


 パワーウィンドウを開けて、運転手は大きな声でそう言った。とても困っているという様子を色々とジェスチャーで付け加えて、大仰におよその障害物の位置を両腕で指さしていた。言われてはっと気づいて道路を確認すると、一匹の猫が、俺の少し前方で固まっているかのように動きを止めていた。そういうことだったか。我ながら注意力も散漫だったし、どうやら頭も働いていない。さっと捕まえてやれば渋滞も解決するわけだ。とりあえずは安全そうな場所まで移動させてやろうと思った。


「まったく……。動くなよ……」


 ……がだ、対向車線を、割と目一杯アクセルを踏みながら走ってくる車が見えた。信号が黄色になるのが見えた。猫がそちらへ逃げると大変なことになる予感がして……、その上で、タイミング悪く、後ろの方の車からクラクションが鳴った。猫が、そちらへ逃げると、マズイことになるんだ、そうはならないでくれ。


 そう願いながら、そういう悪い予感というのだけはどうしてか引き寄せられるように的中してしまう。対向車は多分、信号しか見ていないだろう。赤信号になる前にここを抜けようとするだろう。対して猫は、猫と思えないほどに鈍かった。クラクションに驚いてびくりと体を震わせた後、そわそわと悠長にこちらを振り返りながら、道路の中央線を踏んだ。


「それは、仕方ないことだ」

仕方ないことか。


 諦めるに足る十分な理屈が頭の中にあるはずなのに、俺はどうしてか、どうしても、手を伸ばしたくて、間抜けなことに、俺は実際、手を伸ばした。


 それでだ、……こんなことにならなければ知ることもなかったんだろうが、どうやら危機に瀕した際、全てのものがスローモーションに見えるというあの話は、実はまんざら嘘というのでもなかったらしい。向かってくる車をゆっくりと捉えている。かなり無理して体を傾けて走り抜けようとした。当然猫を抱え上げて。


 まあヒーローなら、猫を拾い上げながら颯爽と空に飛び立つシーンで格好もついたんだろうが、ほんの一秒、迷ったのか、俺の体はまあ、わざと死にたくて飛び出したのかと思えるほどに、そう思われるであろうくらいに、見事に車と衝突するタイミングを保っていた。でも、急ブレーキの音が聞こえた。


「…………」


 実際そのブレーキというのが、どの程度の効果を発揮したのかはちょっと分からなかった。ただ俺はまず間違いなく車と、ぶつかってはいただろう。屈んだ姿勢から起き上がり様、まだ走り抜けようと足を踏ん張った直後に、ふわりと体が軽くなった。


 ドンと、ぶつかる音はしただろうか。ちょっとよく分からない。ヒーローなら、空に飛び立ったろう。俺はまあ修行が足らなかったせいで、せいぜい数秒もなく、地面に落ちたんだな。


 アスファルトのザリザリとした感覚が衣服越しにも伝わってきた。頭だけはいつまでも浮かんでいるように感じる。手のひらに地面の冷たさが浸透して俺はようやく、寝そべっているんだなと自覚できた。


 一応、生きてはいるようだ。だが、分からんな。死ぬかも知れん。どこかに触れたのか、左手は血と砂粒に塗れていた。どこが痛いのか、どこから出血しているのか、あんまり考える気にはなれなかった。猫はどうだろう。生きてるんだろうか。それともダメだったろうか。我ながら、……馬鹿なことをしたなあ。……でも。


「…………。なあ、ミーコ」


目を閉じようとした時に、どこかから、ニャーと、鳴き声が聞こえた。


「ああ、無事か?俺はちょっと……。どうだ、これは。痛いな、痛くなってきた」


 視界の端に猫の姿が見えた。わざとそうしてるわけじゃないが、おおよそ猫の目線というのに合わさっている。義理堅い猫なのか、あるいはただ単に呑気なのか、ここから逃げようとはせず、まだ遠巻きに俺の方を、まっすぐと見つめていた。


 身軽な猫は運良く俺をクッションにしてケガもなく歩けているようだ。俺はどうやら、とりあえず頬か顎の辺りから血が出てるみたいだし、背中から落ちたのか気づけば息も苦しい。このまま呼吸が止まるんじゃないかと思って必死に呼吸を繰り返している。


 これほど気持ち悪くてもまだ死なないということは、死ぬ時は更に数段苦しいんだろうか。それとも死ぬかな。死ぬ感じなのかなこれは。さして壮大でもなく華やかでもなく、まあただし、不自然過ぎるほどに平板でもなかった俺の畢生は、少しばかり悲劇的に、こうして終わりを迎える。


 別に世界中の誰もが涙を流すほど切ないものでもなく、交通事故の一件として空しく数字として刻まれるだけの終局だった。あれだな。天晴れ哀れな、最期の善行、冥途の土産には物足りないが、散り際こそは、ちょっぴり勇敢だった。誰かが泣いてくれるだろうか。


 多分きっと、何人かは……。


「俺は……、死んだ。もう少し、なんというか、劇的な、あれは欲しかったな」


 そんな物語で、終わるはずだった。走馬灯のように駆け巡ることを期待した俺の思い出は、せいぜいつい半年前まで大した出来事というのが意外となくて、しかも視界に重なるようにしてぼんやりしている。


 なんだろう。半年とかそういう程度であれば、別にこう、普段から思い出せないこともないし、なんなら携帯に保存された写真とかの方が、鮮明にその時の情景を知らせてくれるだろう。その時の情緒を思い起こさせてくれるだろう。


 じゃあせめて、ナレーションとかを、自分で頑張って考えようか。そうすればちょっとは見栄えも良くなりそうなものだ。そんなふうに俺は静かに目を閉じたのに、周りは少しずつ少しずつ騒がしくなってきた。


「き、きっ救急車を、呼んだ方が良いのか!大丈夫かおい、君っ!」


 野太い男の声だけでなく、あれやこれやと、みんなが俺を取り囲んでワイワイ話しているようだった。内容についてはその野太い声しか聞き取れなくて、どうやら救急車を呼ぶか呼ばないかを、迷っているようだった。


 俺は少し目を開けてぼやけた視界のまま、『これはどう考えても呼ぶべきじゃないですか』とツッコミを入れようとした。だがまだ声を正確に出せるほどに呼吸が整っていない。口をパクパクと開けただけで、下手をすると、『呼ばなくていいです』と言ったように見えたかも知れない。


「いやあ、救急車より俺が車で運ぶよっ、の方がはええだろ!よし、じゃあ誰か積むの手伝ってくれい!」


 舌足らずなのか、巻き舌なのか、ヤンキーチックな声も響いた。なんか、しかし、格好良いな。優しいな。血で汚れるだろうに、仕事もあるんだろうに、見ず知らずの他人のために病院へ車を走らせるのか。そして多分、その声を音頭に俺の手足が何者かに掴まれた。


「うう……、いや、立てるかも。あの、足をちょっと」


「いいえ、必要ないわ。車汚れるでしょう。……呆れるわ。また車にはねられる遊びをしたのね。危ないからやめなさいと何度も言ったでしょう」


「…………?」

「え……」


 痛いという感覚から、少しずつ痺れだけが抜けていく。四肢は脱力しきっていたが、手のひらを見つめて指がちゃんと動くことは確認できた。だからなんとか、力一杯に立ち上がろうと意気込めば、一人で立つことも無理なわけじゃなさそうだ。するりとまず右腕が解放された。そのままその右腕で地面を支えて体をよじって、足が離されるのを待った。


「轢かれるのが趣味なのよ。放っておいてあげなさい。ケガとかもしてないわ。こういうのは慣れてるのよ」


「え、いや、……けどね、血は、出てるし、一応交通事故だから。仮にだよ?元気に見えてもちゃんと病院で精密な、……検査を、し、しないと」


 右足も左足もほぼ同時に解放された。俺はそこでようやく立ち上がろうと決意したわけだが、……聞こえてくる女の子の声は、俺の幻聴だろうか。病院搬送への、反対意見が出ているような、話に聞こえる。


 体を引きずって手をついて、首を持ち上げて、なんとか立ち上がることはできた。声の主を探したが、俺の目の前に何人かがいて、その向こう側から声がする。すぐには姿が確認できなかった。


「救急車もいらないし、病院まで運ぶのも必要ないわ」


 今、はっきりと聞こえた。どういうことだ。どういうつもりなんだ。俺が断るというのならまだ分かるが、何故赤の他人が救急車を拒絶するのか意味が分からん。もしかして事故の当事者のドライバー、いや、ではないだろう。さすがに声が若過ぎる。


「あっ、だいじょ……、大丈夫かい?大丈夫じゃないよね?病院に行った方が良いよね?」


 気弱そうな声が後ろから聞こえてきて、俺はそれにどう答えるべきなのかを悩んだ。とりあえずはまず、反対意見を出してる奴の顔を見ないと、話が進まないような気がした。


 というのも、「だが」とか「あの」とか、そんなふうに弱腰に、幾人もが俺を放って、女の子の説得を始めてしまったからだ。それはいらないだろう、だって、別にその女の子の許可を得てからじゃなきゃダメなわけじゃないし、第一それを許可するしないなど聞き覚えのないそんな声に決められるのはおかしい。


 体をずらして、男性の横に割り込んで、その声の主の正体を確認した。

 ……絶句する。


「…………誰だ、お前は」


 正体不明というのすら生ぬるい。小さな、女の子であるのは分かるが、頭にずっぽりと鞄を被っていた。完全に、不審者か異常者だろう。偶然通り掛かった不審者が、俺に絡んできた、と、いうことなのか?俺はなんて運が悪いんだ。猫はどこ行った?俺はどこをケガしてる?でもとりあえずこの子をどうにかしないとならんのか?いやそんなことしなくてもさっさと誰かにお願いすれば良いはずだ。


「さっさと帰りましょう、お兄ちゃん。当たり屋なんてしてもお金貰えることの方が珍しいでしょう」


「はあ……?誰だお前は。俺は当たり屋じゃないし、お前のことなんて一つも知らない。何故鞄を被っているんだ?」


「日焼けしないようによ。知らないといっても顔も見てないのにどうしてそんなことが分かるのよ」


「…………?なんだ、話にならない。どういうつもりだ」


 そんな子を、相手にすべきじゃなかった。女の子は右手で頭に被った鞄を少しずらして、ぎらりと光る瞳を見せた。そして左手で俺の肩口を掴んでぐいと引いた。


 どこにそんな力があるのか、あるいは俺の体の力がまるで抜けていたからなのか、俺はよたよたと引かれるまま足をついて、女の子は俺や周囲の善良な人々もまるで無視するように歩き始めた。


「あた、当たり屋、なのかい?」


「いや、猫が……、飛び出してね。彼が、いや彼も、ぶつかったように……、見えたんだけどね」


「いや、どうなんでしょう。歩けるのは歩けるみたいだけど……」


 引かれて、引かれて、俺の体は集団から一歩二歩と遠ざかってしまった。転ばないように足をつくと、ぐい、ぐいと、そこから何歩も遠ざかってしまう。おかしい、俺は抵抗しているはずなのに、まるで女の子に支えられて操られながら歩いているように、事故の現場から離れてしまっている。


 後ろから、「ああ、いや、平気そうだよ」と声が聞こえた。そんな馬鹿な。


 俺はどこに連れていかれるんだ。声が出ない。あれ、でも言われてみれば、足は動くな。ちょっと回復したのか。俺がそうやって道路の端まで誘導されてしまった時に、まだ後ろから一人追い掛けてきてくれた。


「いややっぱり病院には行かないと……」


「わざとやってるのよ。飛び出し方も不自然だったでしょう」


「そん…………。そんなことは、ない、んじゃない、かな。だっ……、て猫がいて」


「猫がいようが、不自然に飛び出したでしょう?」


「で、……でも、猫はすばしっこい、から……、それを、追ってだから」


「でも実はこの男の方がすばしっこいかも知れないでしょう?」


「…………。え、そうかも、知れないけど、ど、そういう話なの今って?いっ、大丈夫、なの、んだね?これは」


「ええお気遣いなく、大丈夫よ」


 頭がまだはっきりと、事態に追いついていない。俺は幾度も口を挟もうと思ったが、何をどう説明すれば良いのか言葉にはならなかった。多分、俺が仮に猫よりすばしっこくても、病院には連れていって貰うべきだと、主張すれば良かったんだろう。


 ただ、追い掛けてきた相手は事故を起こした運転手だったのか気が動転しているのは間違いなくて、言葉も詰まりがちで呼吸が荒かった。女の子の主張というのはそもそも議論としてまるで成立する要素がない。会話にすらなっていない。それでまあ、その人も諦めてしまったのか、言葉も飲み込んで立ち止まっている。


 俺はまた一歩ぐいと引かれて、ぐいと引かれて、離れていく。折角追い掛けてくれた人はただただ立ち尽くして、こちらをじっと眺めているだけで、今度はもう俺に近づくこともしないようだった。


 多分、俺が自分で、歩いていると、思われている。実に巧妙に精巧に、歩かされているだけなのに。


 ああ、大変だ。気持ち悪いぞ。血の気が引いていく。魂が抜け掛けている。……引っ張るな、引っ張るな。


 タンと、足をついた。けれど、空を踏んだかのように、足から伝わるはずの振動がない。喉元で一つだけ心臓が跳ねたような気がした。妖怪カバン娘は、なおも俺の肩口を引いているんだろうが、それももはや棒切れで押されているようにしか感じない。程よく俺の体重の半分くらいは、その棒切れに支えられている。だがもう、俺の体のほとんどは、塵か何かのように霧散していた。


 せめて最後に、倒れ込む前に、この正体不明の鞄を被った女の子の素性くらいは知りたいとも思ったが、伸ばそうとした腕は目線を向けて確認するまでもなくだらりと下がったままであったろうし、そもそも、仮に目線を向けたところで、何も見える気がしない。魂だけがそこに浮かんでいるみたいに、俺の視界は暗転していた。


「…………」


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