九話㉖
「…………。健介?どこか行くのかニャ?」
ふっと引き戻されるように不安が軽くなった。夢の女も俺に問い詰められるのが嫌なのか気配を消してしまったようだ。この夢の女についてもミーコに説明しておきたいところだが……、どう特徴を伝えたら良いものなのか。
魔法の一種だろうから聞けば誰かしら知ってる可能性はあるが、夢の女本人は俺以外に関与を明かしたくないんだろう。
ミーシー、アンミ、ハジメもおっさんも気配に気づいてない。せめてもう少し夢の女の情報があれば遠回りな質問で外堀を埋められるかも知れないが、それまでは一旦保留か。
「風呂に入っとこうかな。で、みんなが風呂に入り終わって暇なタイミング見てトランプ大会を開催してナナの日記を見せて貰って。いや、風呂入って、でその後みんなが風呂から出るまでの間に一回電話しよう」
ミーコに隠す必要がなくなったわけだから、市倉絵里へ連絡するのにも障害はない。疚しさも目減りする。
「じゃあ、風呂に入ってくる。まずはすっきりして落ち着いてくる」
「…………。そうかニャ。分かったニャ」
俺の行動の不審さからかミーコの返事がワンテンポ遅れていた。それともミーシーとおっさんの会話を聞いてる最中かも知れん。あるいは、考え事か。まあ、さっと風呂だけ入って戻ったら聞いてみよう。
階段を下りて、アンミとハジメとナナの姿を確認して、風呂場へ入った。
「そういえば風呂掃除ハジメがしてくれたんだったな。多分そんな変わらんと思うが」
思った通り、特に何かが変わっているわけでもなさそうだった。逆にいえばハジメは十分に仕事を全うしていたことになる。シャワーを浴びて頭を洗って時間を潰した。体を温めつつ首を回す。
夢の女は今何をしてるんだろうか。おっさんのことも心配といえば心配だ。ハジメのお父さんの件も上手く解決されることを願うことしかできない。あとミーシーの幸福度も下がってるしなあ……。
まあ小手先で探ったりご機嫌取りしたところで効果は期待できないだろう。あちこち視線を移さずアンミの問題から手探りを始めるべきだ。アンミの問題が解決すれば、他も連鎖的に良くなるようにも思う。
おっさんもハジメの家族のことに専念できたら少しは楽になるだろう。目指すべき到達点は分かっている。俺にもやるべきことはある。手探りでも構わない。
湯冷めしない程度に体を温めて浴槽から出て、歯を磨いて二階へ戻った。ミーコが味方というのは心強いな。幾分か前向きに、電話できそうな気がする。
「さあ、ミーコ。今から市倉絵里に電話しようと思う。お前からありがたいアドバイスを貰った。お前が側にいてくれるだけで心強い。まあ、まずは、そうだな。俺が信じるに足る根拠を探そう。だが、俺はほら、騙されやすい方だろう?はぐらかされても気づけない可能性がある。悪いがその部分はお前が頑張って見張っていてくれ」
「う、……ん、分かったニャ。ええと、分かったニャ。じゃあ電話すると良いニャ」
「どうした?お前は緊張しないでくれ。大丈夫だ、急に核心には触れないようにする。じっくりと、極力は雑談するような感じの流れに持っていこうと思う。ただし、会話の主導権は常に向こうにある。それに、……今までそういう雑談しようという空気を無視してきた背景もある。向こうがそれに対して怒ってたら……、お終いだが。……どうしよう?」
「大丈夫じゃなかったのかニャ。別に私は緊張してるわけじゃないニャから、健介がまず落ち着くニャ」
長く息を吐いて、携帯電話を取り出す。まあいつでも電話して大丈夫だと言われてるわけだし、急に手のひらを返したりはしないだろう。もうこの時点で友達のような心触れ合う会話の心掛けは先行き不透明と言わざるを得ない。
信用できるような人格かを、見極められるものだろうか。
ただ、……市倉絵里という人物に、興味がなかったわけじゃない。気難しい取引先に対する接待サービスというわけでもない。もしも、『ごっこ』であったとしても、何気ない、それとない会話を毛嫌いする理由はないように思われた。
俺は別に無神経なことを聞いて嫌われても構わないわけだし、今となっては時間制限もない。損することもないだろう。
「さあ、掛ける……。フォローを頼む」
「ぎこちなくて心配ニャ……。変に意識しなくて良いニャ」
ミーコの声は一応聞こえているが、数回のコールと自分の心拍に意識が奪われている。確かに、自然な会話を心掛けようとして逆に強張っている感はある。
「はい。もしもし?どういったお電話?」
「なんだろう……。いや。その、どういった電話と聞かれると困るんだが当面の電話できない理由がなくなった。特に用事がなくても電話をして良いと、そういう話だったから、もし気が変わってなければ悪いが少し付き合って欲しい」
「あら?ねえ健介君はもしかして。……あんまりこんなこと聞くべきじゃないかも知れないけど、普段ずっとアンミちゃんとか、ミーシーちゃんと一緒に過ごしてたりしたの?」
「……ん?いやそういうわけじゃない。そういう理由で今まで電話できなかったわけじゃない。アンミはアンミの部屋にいて、ミーシーはミーシーの部屋にいる。俺は俺の部屋から電話してる」
「そう?……?だとしたら今までもいくらでも電話はできたのではない?責めるわけではないけど」
まあ確かにそうだが、ミーコを味方に引き入れて今まさにアドバイスに従って電話してるこの状況はできるなら伏せておいた方が良いだろう。
「……まあ、こういうのもなんだが、聞きたいことがある時を除いて、あんまり気が乗らなかった。だがそれももう俺の中では解消された。身勝手だと思うだろうが、お前が言ったように、何気ない会話を、友達のようにすべきなんだと思った」
「それも少し意外な感じがするけど。まあ、なら良かったのかしら。私も本心からそう言った。得体の知れない相手とは、それこそ電話する気もしないでしょう。友達のような、ね。私がどういう人間かというのは判断材料があった方が良いでしょうし」
「正直なところ今はそれが大部分だろう。だが、それに関して俺が今まで反発してきたのは、お前の出自を含めた怪しさを警戒したからに他ならない。お前にコントロールされまいとお前の提案を無下にしてきたというだけのことだ。逆にいえばな、お前に興味がないわけじゃない。お前を知るためにも、それに加えて気分的なことをいっても、嫌々ながら友達らしい振る舞いをしたいわけでもして欲しいわけでもない。事務的で形式張った友達の型で会話したいという要望じゃない」
「……うふふ。私も、健介君に、興味がある。健介君がどう思うかは分からないけど、私は今までも、そうね、楽しくお話できたと思ってるわ。健介君は素直だから、どんな話をしていても気持ちの動きが分かる」
「結構なことだ。俺の心の内など丸裸だろう。だが、俺がお前を知る手掛かりはなかった。どんな人間なのかを知ろうとしてこなかった。普通、知ってると言えるまでに長い時間が掛かるだろうが、状況的な後押しもあって俺は必要に迫られて、できるだけ早く、お前を知っておかなくてはならない。そんな友達ごっこに、付き合ってくれるつもりは、まだあるか?」
「ええ。こちらこそ。そういうお願いをしているの。別にごっこで始めても良いの。でもなんなら、最後はお友達になりましょう?気が早いかしら」
「…………。なれると良いな。すまん、多分。普通は、喜んでそうしようと言う。俺なんかで良ければ喜んで、と、反射的に言える。なあ、信じて欲しいのは、俺がもし、何の事情も関係なく会ってたら、まず間違いなくお前と友達になりたがった。友達にしてくれるのを涙を流して喜んだだろう。もし俺に、頭が良くて、美人で優しくて、他人を助けてやりたいと願う心の綺麗な人物と、知り合う機会があったなら」
「こそばゆい。そんなにご大層に言われたら自然に振る舞うこともできないわ。変に理想化されてもがっかりされるのが関の山でしょう? 健介君こそ、ハンサムで骨格が綺麗で、情愛に溢れた熱血で、社交性があって誰からも愛されるような人物じゃない。釣り合いの話をしているなら、私が惨めになってしまうわ」
「……骨格?ああ。骨格は知らんが他は一個も当てはまってないな。それはさておいて、……何の話をしようか。俺は名前と見た目と、今まで話した印象でしか市倉絵里という人間を知らない」
「そうかもね」
「もっとなんだろうな。生い立ちとか、そういうのを聞いても良いか?友達ってそういうの聞くかな?聞かない気もするが、多分お前と友達になった場合は聞くだろうな俺は。興味がある。あと、趣味とか。人物像がはっきりしてないんだ。研究所で働いてると言われても俺にはまず仕事の内容もイメージできない」
普通、それを聞くのにどれくらい掛かるもんなんだろうか。俺は正直に、市倉絵里と友達になっていたら気にしたであろう部分を挙げたが、……他人に趣味を聞いたことなどおそらく過去に一度もない。
自己紹介で発表することなどはあったかも知れんが、どうだろう。誰かが発表したのを覚えてもいないし、俺が何て発表したのかも記憶にない。小中学生の頃などゲームが趣味ですと言う奴が大半だったせいかも知れないが。
「今のお仕事は色々。好きでやっているかと言われるとそう断言できるようなものではないし、私自身もあんまり仕事の話はしたくはないの。退屈そうに聞かれるのが分かってるから。そうすると、生い立ちと、趣味?私、農家の家の子なの。だから、そうね。家庭菜園がやりたい。趣味と呼べるようなまだ何もしていないけど。どう?意外に思う?」
俺が今まで専門的な話を敬遠してたのを察して仕事の話を端折ろうとした可能性はある。したくないと言う割に、今までそうした話は長々としていただろう。今回に限っては俺も悠長にそれを聞いていて問題ないと思っていた。
具体的にどんな研究をしていて、それにどんな発見があって、どんな人の救いになるのか、俺がぼんやりと想像する医学研究者はそんな感じなんだが、そういう自慢話なら多分、理解できなくとも雰囲気は分かった。
逆に苦労話や愚痴を語られても良い。ためになるアドバイスなんか俺から出るはずもないが、そういう話で一つ二つ、市倉絵里の内面が浮かび上がることにはなる。
まあもちろん、それは理屈の説明や結果の解説を切り取って話されては意味もないものだろうが。
なんにせよ、仕事の話は退屈そうに聞かれるだろうというのは少し残念な物言いだった。
「意外、に?ああ……、確かに。意外と普通な趣味なんだなとは思った。はあ、家庭菜園か。仕事とは多分関係ないから、意外といえば意外なのかも分からん。だが、親の影響でと言われたらそれ以上なんでもなにもないな。驚くような奇怪な趣味だったりも普通の人がやらん趣味だったりもしない。ちょっと疑問なのは、農家は……、家庭菜園っていうのか?出荷しない自分の分のことを言ってるのか?」
「あら……。意外に思われないのが意外。そうね?自分用のをそう、家庭菜園って。……それに嫌味の一つでも返ってくるかと思ってたわ」
そして、ある程度想定していたとはいえ、いざ雑談でもしてみようかとすると、キャッチボールの高さが揃わない場合だってある。家庭菜園が意外に思われないのが意外、というのが俺にとっては意外なんだが、特殊な家庭菜園の話だったりするんだろうか。
それとも最近新たに家庭菜園が自然環境や生態系を破壊するというような学説でも発表されたんだろうか。家庭菜園が趣味、というのがジョークのつもりだったとすれば、俺はそれに対して気の利いた皮肉でも返すべきだったのかも知れん。
会話を続けてればある程度は歩幅を合わせてくれるとは思うが……。あるいは俺側が慣れて先読みできるようになるんだろうか。
まあ当初ミナコとの会話を思い返すとそれもやはりずっと意味不明なやり取りになってたし、この辺りは妥協と期待を重ねるしかない。まずもって俺たちは、お互いの構えるミットの位置を知らない。
「どんな?嫌味だ?家庭菜園というのはミニトマト植えたりするあれだろう。家庭菜園の趣味に対して、俺がわざわざ全国の農家や家庭菜園が趣味の人を敵に回すような嫌味を探す理由もないと思うんだが。俺はなんか、勘違いしてたりするか?農家で、家庭菜園だろう、だとしたら家で食べる野菜を作る、それくらいしか思い浮かばない。至って普通の趣味な上、別に誰にも迷惑は掛からない」
「…………。私、アンミちゃんが畑仕事を手伝っていたのを馬鹿にしたでしょう?『お前だってどうせできもしないだろう』とか、そういうことを言われるかも知れないと思っただけよ。健介君は思っていて言わないのかも知れないけど、でも、私の気持ちも分かって欲しいの。私のやりたいことを誰かが下手くそにやっていたら、私の方が上手くできるわと言いたくなるじゃない。世界で一番は無理でも少なくとも昔のアンミちゃんよりはできるって。家庭菜園がやりたいの。私も下手くそでしょうけど、でもアンミちゃんより上手くできると思うの」




