九話⑳
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『こうした方が、あなたの心がよく見えます』
『ねえ、健介。あなたはまず、正しく理解しなくてはならないことがある』
『あなたはまだ同じ景色を見つめ続けている』
『目に見えたものだけで、秤を傾けている』
『何をどう載せるべきなのか、あなたがどうか落ち着いて決められるように、私はあなたに夢を見せる』
『あなたとまるで関わりのない、どこか懐かしむべき、誰かの記憶をあなたに見せる』
◆
『トロイマンの引き連れる、佐藤泰はどのようにして、彼女と行動を共にするようになったのか』
…………。この時になってようやく、わざわざ室長が私なんかを呼び止めて強引に引き抜いた経緯を理解できた気がする。私という雑草の根の張り具合の浅さが、完全に見抜かれてたってことなんだろう。
それで、まあ誰でも良かったんだろうけど、ちょうど面倒事を押しつける人材が欲しかったに違いない、くそう……。『私が抜けたらここにどえらいあなぼこができちゃいますよ』と自信満々に言えたら良かったのに、よく考えると確かに私、微妙な雑用をへらへらしながらやってるだけだった。
わざわざ保護者のように面談についてくれた市倉マネージャーにも恥をかかせちゃったのかも……。
すみませんでした……、せめて私の発明したお茶葉の配合比率表をお疲れを癒すために役立ててください。それだけで、今はもう本望です。私、他は何にもお役に立ててませんでした。
「私の、髪の毛も簡単に抜けそう……。ハゲるかも」
トロイマンは、私を市倉マネージャーの元から引き抜いただけに飽き足らず、きっと私の毛髪まで引き毟ろうとしているんだろう。じゃなきゃこんな仕事回すはずがない。
たった数枚ページを捲っただけで、なんというか……、ほぼ確信を伴って、室長が一人で書いたプログラムコードなんだろうな、と思った。さっと目を通せばやりたいことだけはなんとなく察することができるし、何が問題でどう改善すべきかも分かる。
単に設置してあるセンサーの数値をデータベース化して、過去の類型データから環境条件を調節する自動機構と連動させて、その後の再現率と差分を抽出する、割とよくある処理、なんだろう。
けど、ただ、この規模を局所性の欠片もないデータ構造で並列化もせず総当たりしてたら……、これは普通ならまず動くはずがない。
まるでハンディを感じさせないあり得ないメインマシンのパワーも刻一刻と蓄積する膨大なデータ量によって少しずつ陰りが生まれ始める。
プログラムの改修とはいっても、タイムリミットがある、責任の重い仕事だ。こんな、室長のあり得ない記憶力任せの力業コードは、あり得ないマシンパワーが何とか支えられている内に書き直さなくちゃならない。
コンマ何秒かの遅れが出てまた室長が怒ってマシンをぶち壊さない内に……。
「…………」
でもまずそのセンサーの数が尋常じゃないし、ヒントを探そうにも当然のように仕様書は存在しないし、コードの中にまともなコメントが一つも見つからない。
これはもはや、私がセンサーやコードの意味を一つずつ探して理解するより、全てを把握している室長に『プログラムの正しい作り方』を教えてあげた方が遥かに早そうな気がしてきてしまった。
……何故かというとこれ、まあもちろん実態にそぐわない本来動くはずのないクソプログラムなんだけど、多分プログラミング入門者が入門書を一冊読み終えた時に書く、言わば教科書通りのベイビーコードが連続しているようだったから。
多分……、たまたま一冊本を読んで悪いことにそれが動いちゃったものだから、『色々悪戦苦闘して試行錯誤して経験を積んだ上の最適化』というのを室長は知らないわけで、動いちゃったそれが今更になって鈍化する理由が分からなかっただけなんだろう。
つまりいうなら、トロイマン室長という天才は、最初の本選びを間違えただけなんだ、きっと。
そうして私は、室長がプログラミングを勉強した方がすごく早いですという、かなり合理的な方法を本人に打ち明けることを決意した。
怒られるかも知れないとびくびくしながらドアを開けて、『多分最初に読んだ本が初心者向けのことしか書いてなかったのが悪かっただけです』というフォローを心の中で何度も繰り返し反芻して口にするタイミングを慎重に計りながら、「け、ケチをつけるわけじゃなくて、そそ、その」と口癖のように何度も前置きをしておどおどしながらプログラムの全面的な改修を提案した。
室長はマシン自体も含めて不具合の可能性を挙げていたから、『マシンは全く正常ですが、あなたが書いたであろうクソプログラムが事の原因です』なんて受け取られ方をしないよう十分婉曲に『プログラムを書き直すと良くなる可能性も少しばかりあるかも知れません』と説明をした。
事前に夜、自室でリハーサルをしていた努力が報われたのか、どうやら室長も目くじらを立てて怒るわけでもなく、私が悲しそうにそう報告するのに合わせてか静かに相槌を打って話を聞いてくれていた。
「ああ……。んぅむ、そうなのですか。前も一度同じようなことがありました。その時は機械の方をどうにかしようとして壊してしまったことがありましたので、今度はまず佐藤に相談しなくてはならないと思っていました」
「…………え?ええ。はい、そうですか。相談?私なんかに?」
室長はもう、なんというのか色々な噂が立つ人だったから、やはり私も相当な先入観に支配されていた。もし先入観による私のイメージ通りのお方だったのなら、口調はもっと鋭く尖っていて、『相談』ではなく『命令』という言葉を使うはずだった。
おろおろと、困った様子で自信なさ気で、それを何とか隠そうと取り繕うように落ち着きがない。まるでその姿は私自身を映している鏡のようにすら見えた。
私は別に室長を責めているわけではないし、そもそも立場から考えても『つべこべ言わずにさっさと直せ』と詰っていておかしくないはずなのに、……こちらの視線が移るのを待ってから私の顔を見て唇をつまむようにして手のひらで表情を覆い、言葉を選ぶように会話の合間に幾度も沈黙を挟んで、まるで私なんかの、機嫌を窺っているようにも思える。
もしもヘビがカエルを睨んでいるのなら、きっとそのヘビが会話を一方的に主導してくれただろうけど、この時私たちは、お互い黙って相手が話し出すのを待っていた。
とはいってもこの場合、私のさっきの発言は私の独り言みたいにスルーされてしまったようだから、だから、……なんとかその前の室長の台詞から会話を繋ぎ直さなくてはならない。
沈黙が膝の震えを加速させようとするのを感じて私は真っ白な頭からなんとか『じゃあ何でもないです』とこの場を去る言い訳をひねり出そうと頑張った。
「ぜ、前回、機械は、そ、それでなんとかなったわけならそういった方法でも…………。あっ……」
『機械を直そうとしてそれでこれまでなんとかなっていたわけだから、結果的に機械が頑張り過ぎて壊れたにしたってなんにしたってそれで十分です。私がプログラムにケチをつけたことはどうかお願いです。忘れてください』的なことを言おうとした途中で、『前回』というのがつまり、四年前の『高総医科研予算六百パーセント機材ぶち壊し騒動』を指していることに思い至った。
機械は一時的にすら無事でなく壊れて、新しく機械を買ったせいで予算が六百パーセントで、今また同じような事態の渦中にいることに気がついた。
私のかくかくはその失言によって上半身まで浸蝕を進めて、これはさすがに怒られる覚悟を決めた。もうどうせ何を怒鳴られても聞こえない気がする。クビかも。
……クビかなあ。
それとももしかして後に『高総医科研佐藤ぶち壊し騒動』として語られるような事態になるのかも。……せめて私は、その騒動が少し大げさに尾ひれがついて人々を驚かせる話題であることを願う。そしたらちょっと報われる。
「……前回は壊してしまいました。今回またやってもおそらく上手くいかない上に今度はもう買って貰えないかも知れないのです」
私が完全に沈黙したことで、室長がその時のことをぽつぽつと語り始めた。
そう……。私はもう頭が真っ白で多分だけど、……話を聞いている内に。元から……?
私が思っていたようなトロイマンなどいなかったんじゃないだろうか。
その話を聞く分には……、噂が一人歩きして、尾ひれがついて、誰も検証したり訂正したり、そういうことをしなかっただけなんじゃないだろうか。
まるで室長が悪意や激昂の結果マシンをぶち壊したという噂に、誰も弁明を求めなかっただけなんじゃないだろうか。
簡単に、……そう簡単にまとめると、室長の言い分はこうだった。
機械の処理が追いつかなくなった四年前、室長は誰にも相談できないままやむなく、『メインマシンの電圧を無理やり押し上げて冷却用の循環液を入れ換えようとした』……、がその時、チップが焦げつき基盤がショートし煙を吹き出して火災報知機が鳴り、制御を失ったセンサー類がポジティブフィードバックを繰り返し関連するシステムが全てエラー画面に染まった、らしい。
そういう事件が不運にも、……まあ別に不運によってではないけれど、室長のせいで起こってしまった、と、そういうこと、らしい。
決して壊そうとして壊したわけじゃない、なんとかしようとしたら最悪を引き起こしてしまったという、誰にでもある失敗のスケールを巨大化しただけの不幸な出来事、というのがあの噂の騒動の全容らしかった。
「私は大抵のことは善かれと思ってやっています。その行いが何故か悪い事態を引き起こすことがある。例えば……、例えばのたとえ話ですが、所内の酸素濃度が低いと思っていた、人がいるとします。これは佐藤は知らないと思いますが、もし私が善かれと思ってやったとしてもこうなる可能性があるというそういうたとえ話です。実際の事件ではない」
私はやっぱり硬直して沈黙したままだったけれど、室長の声を聞いている内に少しずつ、震えが収まっていくのを感じた。
室長が『実際の事件ではない』と注釈して話した内容も、やはり私はどこか似たような騒動を知っている。それがトロイマンの陰謀だと噂されていることを知っている。
室長は、『酸素が薄いと息苦しいだろうから、少しでも息苦しさを解消してあげようとしてタンクに薬剤を入れた』わけですよね。そうすれば『自然に酸素が増える』し、『タンクは洗浄されて空気はより綺麗になる』し、『発生した熱が暖房代わりになって快適になる』と思ったわけでしょう?
……『作動音が気に入らなくて入れ換えを提案したものの、工事業者の見積もりや上層部の決裁が遅いから実力行使で一帯の空調を破壊した』なんて……、そんな噂になってましたけど、それ……、そうすると、トンデモないデマじゃないですか。
『そこら中の空調から謎の白煙が上がり凝固した白い礫が射出されはじめてバイオテロと勘違いされた』結果は変わらないにしても、……なんで誰一人、なんで『みんなのためを思ってやったけど失敗しました』ってその一言を、室長から聞かなかったんだろう。
そのエピソードは、私が協力的でないとまた大変なことが起こるかも知れないという、室長なりの脅しだったのかも知れない。
けれど当の私の心の大半は、あまりに報われない室長の善意の行いに対する周りの反応への憤りのようなもので満たされてしまっていた。
誰が悪いわけじゃないんだろうけど……、私も私でそれをついさっきまで噂を聞かされた通り鵜呑みにしてしまっていたけど、でも、……室長、そうするとそこまでは悪くないじゃないですか。
力任せだけれど、やりたいことは分かる、何かを解決したかったあのベイビーコードみたいな、トロイマンという一人の人間の行動を、たまたまその時失敗したからってあまりに酷い言い様じゃないですか。
室長が関与したとされる他の色々な噂も、私には思いつかないだけで……、何か室長なりの、理由があるんじゃないのかな。思いつかないけど。
「私……、あのプログラムは、失敗だと、思ってます。でも。私センサーとかどういう役割とか全然分からなくて……。やりたいことは分かるんです。どうしたかったかは、私分かるつもりで。ぜ、全部どういうものか聞いてというのは時間が掛かりそうで難しくて……」
「ええ、ええ。確かに……。全部把握している人はいませんので。分かりました……。ではまあ、仕方ないので諦めることにします。現状まだ一秒以上遅れることもなく動いている。佐藤はご苦労さまでした」
「…………あ」
私はまだ、色々考えた内の言いたいことを全然伝えられていないのに、言葉の間を開け過ぎたせいでそれが会話の終わりのように幕が下ろされてしまった。『ご苦労さま』なんてまさか聞くと思っていなくて、室長がそんな簡単に諦めてしまうとは思っていなくて、私は苦労に思われることなんてまだ何もしていない。




