九話⑮
「まあ、その本に載ってるのは全部フランス風だからハジメが食べたいの選びなさいな」
「本ねえ……、良いなあ。あたしも料理できたらなあ……」
ハジメが独り言のように呟いて一口を含んだところでおっさんが「ううん」と小さく唸った。
「ハジメがここ来る前作ってくれたのも、……なあ、まあ、オリジナリティがあってよかったぞ。アンミが初めて料理した時みたいな一生懸命さが込められてたなあ。久々に食った、ああいうのは」
「…………。あのさあ、余計なこと言わないで、馬鹿にされるから」
「へえ、ハジメも料理するのか?」
「しない。察したら?一生懸命さしか触れるとこなさそうだったでしょ。察して黙って」
ハジメはあまり結果に自信を持ってはいないようだったが、それと対照的におっさんは懐かしむように頬を緩めていた。
「いやあ、……んん、美味しいかって話じゃなくて。まあ、美味しくはないんだけどな。でもなあ、ほら、アンミが初めて料理作りたがった時、そんな無理して背伸びすんなって……、俺はそん時は思ったけど、なんていうのか自分ができる以上のこと頑張って頑張って無理してやって、背伸びした分の優しさみたいなのが、それがああいう不器用な料理になったんだなあって感動してな。ハジメもすげえ頑張った感が出てたから……。嬉しいよなあ、腹とか舌じゃなくて、心が膨れるんだ、料理してくれてるってのは。セラじいにも食わしてやりたかったな。ハジメの作ったあれ。セラじいは俺と違って文句言わないだろうしな。まあ、ハジメもな、背伸びしてると背伸びるぞ。アンミみたいな前例があると頑張り甲斐もあるだろ。またハジメもチャレンジしてみたら良い」
「ハジメお姉ちゃんがこの前作ってくれたの、ナナがねー、ナナが今まで食べた中で一番面白かった」
「…………。何笑ってんのよ。面白さは勝ってんだけど、アンミに!」
「笑って、なかっただろう……。俺か?微笑ましいなと思っただけで……。いや、笑わせるな、面白さが勝ったとか主張しなければ笑いそうにもならない。おっさんの、ほら、言う通りだ。一生懸命やったことを恥じることなんてない。……嬉しいんだろうな、心が膨れるってのは。誉められてるんだぞ?まあ怒るな」
どうやら、誉められて再チャレンジを促されたことを額面通り素直には受け入れられないようだった。だが俺にはなんとなく、頑張りたくなる気持ちも、頑張られて嬉しい気持ちも、少しだけ分かるような気がした。
ハジメもその内もしかして、アンミから料理を教わったりするんだろうか。そしたらきっと料理の腕もすくすく育って、誰もその努力を笑わなくなることだろう。最初の内は少しばかり茶化されることもあるかも分からんが。
昼飯を食い終えた俺はまた自室に戻りベッドへ腰掛け首をうなだれた。内臓が本調子じゃないというのもあって、美味しく食べても腹の重さが気になる。
「…………。満腹感というのは、ヤバイな。…………。ヤバイサイクルに入ってる。食った後眠くなって、眠って起きたら飯で、そしてまた眠い。……俺はもう、ご飯を食べて寝る機械になってしまう」
「機械をそんな設計する人いないニャから……、疲れてるなら一旦休んでちゃんと体調整えると良いニャ」
「……、ちょっと、面白くないか?自分で言って、自分で面白いな、……ご飯食べて寝る機械というのは。そういえば、ミナコが良いことを言ってた。聞いてくれるか?」
「何でも聞いてあげるニャ」
「…………。高速、ごみくず製造機の話だ。ガチャン、ガチャン、ガチャン、と動いて……、するとごみくずが出てくる。別にごみくずを作りたいわけじゃないんだが、要するに精度が悪くて不良品が大量に出てくる、そういう機械、でな?……なんとか頑張って生産性を上げようと二倍に高速化すると……、ガチャガチャガチャガチャン。とんでもないことにごみくずが二倍出てくる。超高速ごみくず製造機になる。原料は無駄になり時間はロスし続け、ごみくずの処理にまで手を回さなくちゃならなくなる。下手な考えは休むより事態を悪化させる。良品を作り出すにはむしろゆっくり丁寧に手順を確立し、機械を整備しなくてはならない。…………。ということで、俺は休むことにする。おやすみミーコ」
俺はスピーディーな身振り手振りで高速にごみくずが製造される様子をミーコに伝えようとしたが、わざわざベッドの下から出てきて俺の謎演技を鑑賞するつもりはないらしかった。
おそらくベッドの振動によってどれくらい高速にごみくずが生産されたかは伝わったことだろう。
「いちいち、言い訳みたいなこと言わなくていいニャから……」
『まあ、そうなんだけどな』と、言うのも諦めて俺はベッドに倒れ込み、掛け布団を手繰り寄せて天井をぼんやり眺める。重力が揺らいで、俺の体重がどこかへ消えていく。ぐるぐるとうねりに飲まれていく。
◆
『大体、どんな夢でも希望通りのものを見せてあげると、言われた気がした』
だが、俺はそもそもこれ自体が夢であることを分かっているし、別にこれといって見たいと願うような夢も思いつかない。仕方がないから俺が大金持ちになって宇宙旅行にでも出掛ける夢にしてくれと願った。
『そういうものではないですと、少し困ったように言われた気がした』
…………。一体誰が困るというのか、一体誰が困ったようにそんなことを言うのか、俺はもちろん、思い当たる答えがない。
暗がりに薄い光でぼんやり照らされた影のようだった。でも美人だ。嫌味のない、トゲのない、控えめで柔らかで清楚な美人であることはもう輪郭だけで分かる。
その美人は要するにあの時の幽霊だろうし、俺の夢の中によく登場する通称『夢の女』に違いない。……そういうものじゃないのかと、俺は割と素直に納得してもう一度考えてみることにした。
「ちょっと前に飲み物をな、買う時に迷った。俺はそういうのをすんなり決められるようになりたいな。そういう、夢を見て良いか?」
しばらくして俺はそんなささやかな夢を願うことにした。別にそれが現実で叶うわけでもないだろうし、俺がスマートにジュースを選択できたからといって享受できる幸福も相当侘しいものだろう。
一応これくらいなら夢の女もなんとかできそうな、……困らせずに済む許容範囲だろうと思った。一呼吸だけ考える間を置いて、夢の女は、ようやくそこで、俺の目を見た。
俺の目を、見ている。俺の視界は吸い込まれるように全て夢の女の瞳の中の色で塗りつぶされ、そこで光が混ざり合うようにして風景が作り出されていく。俺がよく知っている、何気ない光景が辺りに広がっていく。
どうやら夢の女は俺の想定していないかなり的外れな用意をしてくれたようだ。ミナコがいて、陽太がいて、そして俺がその光景を眺めている。
これは明らかに俺が過去に体験していた出来事の一部で、夢の女は今の俺にまたその時を、再演させようとしているらしい。
「紙パックが絶滅危惧種なので、紙パックでストローのついている飲み物を優先して買うべきだと思います」
だが、俺はこの意見が全く参考にならんことを知っている。少なくともナナの飲み物を選ぶ時にそんな選び方はしない。
「何故なら、何故ならですが。これを、買います。一個買いました。続けてこれも、買います。二個目です。そしてぇ、三個目も買います。更に、四個目も、四個目も買います。四個で終わりです。四個が無理のない範囲だと思います」
大学構内で紙パックの自販機を見つけたミナコが、次々にボタンを押してジュースを買いだめする。家では小さい紙パック飲料で水分を補給している、とのことだった。
ココアとコーヒー牛乳とオレンジとフルーツミックスを取り出して机に置き、少し偉そうに、「どうするでしょう?」と俺たちに聞いた。
陽太が「分けてくれるのか?」と聞いて、……ミナコは渋々といった様子で、俺たちに飲み物を配ることになる。この先そうなる。
「本意じゃなかったんだな、ミナコ。……どうするんだ、それ」
今になってみれば、俺も『ミナコがやりそうなこと』をいくつか挙げられる。あの時もしかしてこうだったんじゃないかを、やり直すことができる。
だがなあ……、夢の女は一体これで何がしたいんだか。
「よくぞ聞いてくれました。健介は紙パックなんて炭酸飲料がないし、種類が少ないと言いました。それが今からひっくり返ります」
「言い当てても良いか?……なあ、これで、俺はお前のことを知ってるなんていえた話じゃないが、お前がやろうとしてたことに、俺は気づいたかも知れない。紙パックの飲み物を種類バラバラで四つ買ったお前の行動理念を、俺は察してやれたかも知れない」
「……?」
「ズルいことをしてるな。俺は多分、後になってお前のことを一つずつ知るんだろう。…………。合ってんのかな」
俺は、紙パックからまずストローだけ外し、風車のような形に四つを並べた。ストローを一本ずつ伸ばしては刺して、その作業が終わった後、ミナコの表情を見た。
ミナコは俺の手元をずっときょとんとした様子で見つめ続けていて、不思議そうに首を少しだけ傾ける。
「これは、一般的だった?僕が発明したのだと思っていた。もっと積極的に発信しなくてはならない責務を感じていました」
「……分からん。一般的ではないが、世の中にはそうしてる奴が既にいたかも知れない」
「そうでしたか、そうです。こうしてですねっ、ストローをまとめて吸う。普通に吸うと同量でブレンドすることができます。そして組み合わせを自由に変えられます。舌を上手く使うと流量調整ができます。そうなるとこれはもう、ふふ……、バリエーションはペットボトル飲料や缶飲料を超えている。ペットボトルや缶でももちろんブレンドは可能ですが、新たな容器が必要になります。注ぎ替えも必要になります。お手軽さが全然違うわけです。更に、机さえあれば紙パックは両手が空く。傾斜をさせて飲む必要がない。そういった理由で紙パックの方が優れている」
両手を挙げて机の高さに頭を下げて顎を出し、束にしたストローをちゅーちゅー吸って見せるミナコの阿呆っぽい様子は、俺と陽太を大いにどん引きさせるものだったろうが、……でも、気づいたんだと言えてたら、俺は少しは胸を張れたのかも知れない。
「そして、空気を送り込んでぶくぶくすると炭酸飲料と同じである。ストローがない場合は難しいけれども、これもストローがついているお蔭でどうにか基準をクリアしている」
「でも、上品な飲み方ではないから人前ではやめような」
「そうでしたか?ではそうする。普通に一つずつ飲めば良い。大体普通に一つずつ飲んだ方が美味しいようにはできています。健介が種類が少ないと言うから、種類を増やす方法があることを示しただけです。全く健介がわがままを言うから……。僕は普段から上品さを心掛けている。例えばっ、例えば、負圧によって空気が逆流して音が出るのを防ぐために吸入した後一々ストローを噛んで引き抜いたり、あるいはあらかじめボールペンなどで容器に穴を開けたりします。どうでしょう?食事のマナーを守れている」
「良い習慣なんだろう、ところでミナコ、…………」
『ごめんなさい、健介。起きて……?ナナが遊びにきますから』
有無を言わさぬような突然の終幕だった。映写機のフィルムが途切れて照明が次々と点灯して、まるで余韻を楽しむ間もなく俺を現実に引き戻そうとする。
おい、……なんだ?そもそも俺にこの遊びをさせたのはお前だろう。無理だ、急には起き上がれんもう少し。……寝ていたいんだ。
『健介、ごめんなさい、ナナが来ています。起きて?』
そうかも分からんが、タイミングというのがあるだろう。俺は寝てるときに起こされたくはないし、眠いときは眠い。
『謝ります。ごめんなさい……。夢は後でいくらでも見られますから』
「だからナナ……、後にしよう。後なら大丈夫だ」
バタンとドアの閉まる音がした時、俺の視線は既に天井に向いていて見える景色も当たり前のように天井だけだった。俺の体は真下に重力で引っ張られて布団に縛りつけられている。
「健介お兄ちゃんは、起きてる?ナナはもしかして健介お兄ちゃんが暇かも知れないと思って遊びに呼びにきた」
俺の最初の『後にしよう』という言葉はナナには聞こえていなかったんだろう。すいすいと俺の方へ近づきながら、ナナはご機嫌な様子で俺を遊びに誘いにきた。と、思ったら突然ベッドの前でしゃがみ込んで視界から消えた。
「ミーちゃん寝てる?」
「寝てないニャけど……、健介もちょっと……、疲れてるみたいニャから、ナナもお昼寝してきたらどうかニャ?」
「そうだ、ナナ……。お昼寝は良いぞ。よく眠っておくとぐんぐん育つから、な。俺ももうちょっと育ちたいから少しだけ寝ておこうと思う」
「……?ナナはでも、眠くないのにさっきも寝てた。健介お兄ちゃんはもしかして疲れてたり大変?」
「いやあ……。どうだろうな。時には休むのも悪くはないと思っている」
「うん。ナナはね、健介お兄ちゃんがトランプしたいかと思ってトランプ持ってきた。健介お兄ちゃんはトランプをした方が良いと思ってる」
小さい子らしいそのおねだりを、俺は一体どうやって回避すれば良いのか考えてみた。昨日から立て続けにあれだけトランプをやってもナナはまだ飽きたりしない。
代わりになんか一人で遊べるものを与えるか、ハジメとか、アンミとか、ミーシーの身柄をとりあえず渡すか、それくらいしか取れる手段はない。




