九話⑬
「ただし健介君。……そうね、深刻に悩む必要はないわ。深刻に捉えてどうにもできないことをどうにかしようとしなくてもいい。どうにもできないことを悩んだところで、がむしゃらに動いたところで、誰もがヒーローになれるわけじゃないわ。それに、『私が答えようと思うことについては』健介君はいくら質問してくれて良い。答えてあげるし、私は健介君と、嘘はつかない約束をしている。けれどね、それを前提とした中でも、あなたには大切な役割がある。じっと静観して事を荒立てないふうでいて、澄んだ水の中にどんな流れがあるのかは感じていなくてはならない。私から受け取った材料で何を組み上げるべきかあなたが考えて想像して、あなたが決断し実行しなくてはならない。あなたは私から欲しい色を引き出すことはできるけれど、何をどう描くべきかは私に聞くべきじゃないの。健介君は私の感想も併せて聞きたいと言ったけれど、私はあえて、考えれば分かるように材料をバラしてあなたに渡すこともするし、極力は、私の推測や願望や妄想ではなく、客観的な事実に基づいて話をする。あなたはむしろ、私が思い込みで物事を語ったり是非善悪の論評をしてしまった時、『それはあくまで個人的な感想だ』と言ってくれた方が良い。私が嘘をつかないにしたって、何が正しいかまで知っているわけじゃないの」
「お前は……?策があると言ってたはずだ。何をどうすべきかはお前が一番分かってる。無論、お前が言う策とやらが実現不可能だったり、納得のいかないものだった場合は俺が決断しなくちゃならない」
「ええ、もちろん。私は健介君が納得できる答えを用意するつもりだし、実現可能な方法を考えているつもり。その、最後の話ではなくて、最後までのお話のこと。私から何か聞き出すにしても、よく観察をしていた方が、あなたにとっても、私にとっても良い質問になる。今はまだ手元の材料が少なくて、組み上げられる形も限られているでしょうけれど、いずれ私が知らせることも、健介君が感じることも、色々な繋げ方ができるようになる。私が最後に良い方法を伝えた後に、健介君が納得できるかどうかさえもそれまでにあなたがしてきた質問によるのかも知れない。あなたの決断に私が『どうして?』と聞いた時、あなたは『こう考えた』と返してくれた方が良い。『こう聞いたから』とか、『こう言っていたから』とか、公理をつなげただけの結論ではなく、あなたが見出したあなたから生み出された、あなたを感じられる答えが欲しい。例えば、ねえ、私がこんなことを言う理由は分かる?」
そんなことを言う理由はいまいち分からないにしろ、そんなことを言うからこそ一つ辻褄が合うのかも知れない。『市倉絵里が、アンミを助ける方法を頑なに隠す』のは……、『いくらでも質問を受けて事実を話すと約束する』のは……、俺が答えに辿り着くのを待っているから、なんじゃないだろうか。
俺が市倉絵里から受け取った情報を元に取れる策を導き出し、最後に答え合わせをするつもりなんじゃないだろうか。市倉絵里がわざわざそんな遠回りを選ぶ理由が、単なる意地悪のようには思えなかった。
受け取る材料を俺が決めて、その材料をどう組み立てるかは俺が考えて、市倉絵里は最後まで答えを聞かせない。
市倉絵里が善意の協力者である場合、問題解決の方法を真剣に考えてみろと、言っているようにも受け取れる。俺はもちろん必要な材料を揃えられないのかも知れないし、組み立て方を間違えるのかも知れない。
ただしおそらく、ある程度の材料を手に入れて真剣に組み立てていたのなら、模範解答を示された時にそれが正しいのかどうかは見当がつく。
そうした意味で、市倉絵里はその最終的な解決策に、自信を持っているようには思えた。
逆に俺を騙そうとしている場合など、こんな形式は不便だろう。俺が真剣に考えないことを想定しているのか、結局最後は言われたまま鵜呑みにすると考えているのか、それとも継続して材料に不自然さや破綻がないように気を配って、誤情報から偽の方策を導かせることができると、思っているのかも知れない。
「理由?」
「私が、健介君に考えて欲しいと、言う理由」
「…………お前の意図は知らない。俺が真剣に考えるべきだからだろう。俺が助けてやりたいと思っている気持ちを、単に言われたからやったとすり替えてしまわないためにだ。確かに考えてはみるべきだ。聞けば答えが返ってくると頭空っぽで待ってるべきじゃない」
「…………。へえ、素晴らしい。そうね、確かに」
「違うのか?自分で考えて答えを導き出せという話なんだろう?」
「いいえ。きっと違わない。そうなのよ、健介君。最初から、そう言えば良かった。言われてから気づいたのだけど、『健介君が』、そうよ。アンミちゃんを助けてあげたいのよね?私、少し勘違いしてたわ」
「何を?」
「ええ……。ああ、そうなの。私はね、健介君が見て聞いて、真剣に考えた答えを聞きたいと思っている。どうしてそう考えるのかというのも。ただ、……余計なことを言ったわね。もしかして健介君、アンミちゃんが助けて欲しそうにしているとか、そんなことを言わなくて、助けてあげたいと思っていた?助けてあげる方法があると言わなくても、私が何も用意していなくても、健介君は一人で考えてくれた?」
「…………。言われなければそういう事情にすら気づけなかったかも知れない。今お前が重要な情報源であるのは間違いない。一人で全部を解決する答えが出せる自信があるわけじゃない。だが仮に、お前が俺を騙そうとしていたとしてもだ、巧みに……、俺を誘導していたとして、怪しいところを、見つけ出したら……」
「そうなの、やっぱり、そうすると余計なことを言ってしまった。こうしなかったら……、健介君は簡単に、アンミちゃんを諦めてしまうだろうと思っていたの。勿体ないことをした。……どうして、……どうやって?」
「気づけなかっただろうと言っただけだ、お前が言わなきゃ諦めてたなんてことにはならない」
「…………。ええ……。いずれ聞くの。健介君に。それが楽しみで仕方なくなった。まだ言わないで、健介君。私はまだ、最初の失敗以外は、何一つあなたの決断に加担していない。そしてあなたはまだ重大な決断をするにはきっと知らないことが多いでしょう。白いまま。聞いてね、私へ質問をするなら」
市倉絵里の口調が、事務的に黒ずんでいくような気がした。そこにどんな意図があるにせよ、俺がどんな目的で電話をしているにせよ、丸太の上で細い糸一本の両端をお互い握っているようなそんな利害の綱引きに嫌気が差す。
もしかして、と、思っている。どうしてそんなに疑わしい、冷たい声を出すんだと咎めたい。
普通に出会って、事情がなければ、どれほど心穏やかでいられたろう。俺とこの女の声が、本当なら、もっと温度のあるものに変わっていたのかも知れない。この女は、嫌にならないものなんだろうか。
「…………。お前が俺に、何を聞きたがっているのかまだよく分からない。……なあ。俺はお前に好きな音楽や好きな本の話とか、休日の過ごし方とか、そんなことを聞いても良いのか?親しい友人の話とか思い出の場所とか、まあ仕事の愚痴とかでも良いが、そんな話をできたりすると思うか?アンミたちのことと関係なく、俺はお前と、普通に話ができたりするか?」
思えばそれすらも、人間的に信用できるのかの物差しとして用いられることになるだろう。
「さあ?健介君次第ではないの?けれど私は、そうできたら良いと望んではいる」
「じゃあ……、悪かったな、仕事中に」
「またね、健介君」
とはいえまあ、どうやって、俺は市倉絵里への質問をして必要なヒントを受け取り最後の答えに行き着くんだろうか。
まるで指針もなく漂って途切れ途切れの的外れな質問を繰り返して何も見つけられないまま終わったりしないだろうか。答えは確かに、あるらしい。気づくために、まだ足りていないというだけで。
「…………」
材料探しにすら、方針がない。市倉絵里の思惑は、現状俺が想定できるようなものではないだろう。おっさんやミーシーをアンミと共に手元に置くべきとする以上、対立図式の均衡に頭数が必要ということにはなるかも知れない。
だが選挙や戦争じゃあるまいし、少なくともそれが直接的に事態を解決してくれるようにも思えない。案外単に、一カ所にまとめておくことで不確定に動く要素を減らしたいという市倉絵里だけの都合だったりする可能性だってある。
もちろんミーシーやおっさんの予知能力を前提に捉えなければならない局面があるだろうし、バラけて行動する利点などもない。そもそも、今、俺たちにとっての現実的な問題解決とは何かを、考えてみようか。
市倉絵里は解決法があると言った。俺たち全員がハッピーなエンディングを迎えられる良い方法があると言った。つまりそれは、『研究所と、俺たちと利害対立の調整を図る方法がどこかにある』、あるいは『全面的にトロイマンが研究を諦めるに至る方策がある』ということにはなる。
そこへ辿り着くまでに、一体何が足りないのか。俺は、体調の悪い中鈍った頭でほんの少し考えてみただけで、割と確信を伴って揃えるべきピースの存在を見つけ出すことができた。
俺の中で、大きな違和感が蠢いているのを感じる。今の今まで素通りしていた思考の渦が、これ見よがしに目の前をうろついている。
まるで今まで俺自身が、それに触れることを不都合だと信じてわざわざ押さえ込んでいたかのように、見て見ぬふりをしてやり過ごしてきたかのように、よく考えればずっと前から一つの疑問はそこにあった。
研究所の目的は、アンミを保護して研究に協力させる、ということだった。そこを間違って認識している当事者はいない。おっさんやミーシー、もしかするとアンミすらもその事情については理解していると考えて良い。
ただし、『どうして、ミーシーは、アンミを連れて村を出ようとしたのか』という部分については詳細に説明できる理屈がない。
ここがそもそも、その先に真逆の分岐を含んだ一連の出来事の原点だといえる。アンミはその時、親切な人を探してくれとミーシーにねだった。そして俺が受け入れ、二人はここで過ごすことになった。
『どうしてミーシーは、アンミが研究所の追手に捕えられることを、こうも深刻に受け取ることになったのか』、『捕まれば離ればなれになることが決まっているかのように、村から出て身を隠さなければならなかったのか』
本来ならこの出来事はそこまで極端に動くべきものじゃなかったんじゃないだろうか。多分だが、順当に最初考えるべき妥協案がある。
『アンミを研究に協力させるにしろ、アンミの自由や身の安全を保証するように』とトロイマン側に提案することが最も妥当な第一歩になる。もしそれが受け入れられるという話なら、まずもって……、こういった現状は出来上がらなかった。
トロイマンだって、なにも人員を割いて敵対状態の魔法使いを捜索するリスクもコストも負いたくはなかったはずだろう。
もし、例えば……、アンミが週に一度や二度病院に出掛けて実験に立ち会う程度のことであれば、ミーシーは、もちろんそれが気に食わないにしろ……、わざわざ、アンミを連れ出して身を隠そうとしなかったんじゃないだろうか。
そんな場合でも提案してきた人間を怒鳴ってケガをさせて追い返すくらいのことはするかも知れないが、最終的な事態の終息を考えていれば少なくとも、逃げ隠れることが最善手には、ならなくないか。
トロイマン側はトロイマン側で明らかに常軌を逸した規模で包囲作戦に打って出ているわけだが……、おっさんやミーシーについての前情報があるなら、それが反発を招く引き金になることなんて考えるまでもなく目に見えている。
簡単に手出しができないことも分かっていて最終的には危険を覚悟で強行手段に備えなくてはならない。どうやってアンミを手に入れるつもりなんだ。
要するに……、どちらが先だったにしろ、『そうした話し合いは、一度もなかった』のか、『ミーシーが予知の中で到底納得できない説明をされた』のか、あるいは、『ミーシーやおっさんが予知できない状況で研究所が強引に事を進めようとした』結果、こんなことが起こっている。
「手に入れる手段が……、ある?ない?ミーシーは解決する見通しを立てて逃げた?」
とにかく、『トロイマン研究所は、ミーシーを納得させる説明ができない。説明して納得させることを諦めて行動している』、ように思える。長期に渡るアンミの拘束、なのかも知れないし、あるいはアンミの苦痛を伴う実験への協力なのかも知れない。
そして逆に、トロイマン側も研究を取りやめるようなことはしなかった。説得に応じられないことが分かった上で、アンミを探し続けている。
「実験を取りやめさせる方策……」
俺はとにかく拾い上げた疑問を頭の中に留めたまま、洗面所へと向かった。とりあえず冷水で顔を洗って頭にこもった熱を逃がそう。
蛇口を捻ってジャバジャバ顔面に水を塗りたくりタオルを手に取る。
ふと窓に目を向けると、ミーコが窓枠の隅で静かに佇んでいることに気がついた。かなりの至近距離にも拘らず、俺はその瞬間までミーコの存在に全く気づかなかった。




