九話⑩
「神経細胞の可逆的遡治性配置仮説という、神経科学と哲学のお話があってね。『神経細胞は全て、その個体の過去の記憶とその個体の元々の条件付けによって、固有の可変的な組み合わせルールを作り出しているとする。新しい体験はそのルールに則って記銘されるわけだから、現在のルールと条件付けさえ明らかなら、今の記憶は一秒間の体験と一秒前の記憶と一秒前のルールとに分解することができるんじゃないか』、と、そういう仮説が随分昔からあった。もちろん、体験の方を完全に取り出すことは無理でしょうけど、組み換えられる素材数が決まっていて組み合わせのルールが明らかなら、一つずつ取り除いて差し込んで過去の状態を再現することができる。極端な体験をすると記憶が変容したり過去を思い出せなくなったり、新しく覚えられなくなったりすることがある。器質的な問題でない限りは、記憶の一部の部品が抜き取られて誤った使われ方をしているせいで、ルールが壊れたと、表現することはできるのかも知れない。では、逆算して再構築すれば治療できるのではないか?と、哲学者が言い出して、理屈はともかく、アンミちゃんの協力で、その仮説の一部が臨床的にも証明されることになった。それもどうやら、体内か体外かそれすら定かじゃないけど、記憶というのは本人の認識に関わらず正確な時間周期と同期するための情報まで持つ可能性がある」
「ああ……」
「皮肉というのか、科学者よりも作家の方が早いことが多いでしょうし、医学者よりも哲学者や宗教家の方が早かったという例は数多くある。実際の実験は時間が掛かることが多いから」
「ああ。そうなのか」
「詳しく聞きたいということだから、健介君のためにできるだけ詳しく話すわ」と、俺の自業自得だという枕詞を取り付けて、そこからようやく、詳しい話が始まるらしかった。
時たま相槌を要求してくるところから察するに、一応俺が理解することを前提にした易しい解説を心掛けてはいるようだ。
「間違って訓練を覚えてしまったワンちゃんや、記憶障害やトラウマ体験を持つワンちゃん。認知機能の検査で用意された迷路を何度も走らなくてはならないワンちゃん。アンミちゃんが立ち会った時は、まあもちろんラットでも同様のことはしていたけど、実際の治験という意味ではワンちゃんを相手にすることが多かった。獣医学というわけではなくてあくまで脳の高次機能、特に記憶に関する医学ということで何匹か同じ種類のワンちゃんを集めて、いくつもの実験記録が残されている。大抵の場合、同じ個体は、同じ環境では同じ体験を繰り返し、また同じ記憶を刻んで同じ状況に至る。特定の記憶ルールを持つ動物は同じ環境では同じ神経形成がなされるようだった。逆説的にいえば、そのルールによって、パズルを解くように記憶の組み合わせを分解して遡ることができる。だから器質に依らないワンちゃんの精神病のほとんどは精神病質的な傾向を持つ記憶ルールが形成される前に異なる環境を与えることで劇的に改善させることができた。ルールに抵触して、ルールを壊してしまう原因を高い精度で捉えられたし、そうでなくともおよそ段階的なルールの変化を観察するだけで、どの時点で異常な反応をするようになるか再現することができた。つまり、一週間ではまだダメでも、一カ月であれば、一年であれば、あるいはもっと幼児期であれば、……そうして遡ると、記憶のルールが、破綻する場面というのを特定できる。多分、人間でも同じ効果はあるでしょうし、副作用といえるような報告もなかった。まああくまで身体的には、ということで、人の場合は記憶を消されたことを自覚した時に混乱したり不安になったり、あるいは記憶自体を失うことで社会的な意味で問題が起こったりはするでしょうけれど。ついでに言っておくとこれが五つ目の伝えなかった理由よ。健介君も本当なら、全く気づかないまま普通の生活をしていられたら良いなと思った。でもそれはさすがに無理でしょうから、気づいたとしても動揺が少ないように努めるしかなかった。ちなみにこのトラウマ治療の実験で、飼い主の呼び掛けに答えなくなったワンちゃんがいた。アンミちゃんはそれを不憫に思って『記憶を戻してあげられるか』と、実験の担当者に何度も聞いた」
長い長い説明のついでに、もう許したと言ったことに対する言い訳がまた出てきた。俺はあくまでハジメに言われて気づいたわけだが、『普通は気づく』という話し方に少しばかり不名誉さも感じる。
というより後悔したといった方が正しいかも知れない。確かに不自然に感じる場面があったのに俺はそれをことごとく、気にしていない。二人が魔法を使えることを隠していたら『あなたは記憶を失っている』と突き付けられても『そんな馬鹿な』と全く信じなかった可能性さえある。
ある意味ではまあ、それはそれで平和なのかも知れないな。動揺も混乱も、不安もないのかも知れない。
「体験する前の状態に逆算して戻すことはできる。でも、戻ったところから失った記憶を得るなんてこと、出来事とそれを疑似体験させる仕組みのセットか、記憶のバックアップとそれを読み込ませる仕組みのセットか、いずれかがない限りさすがに無理だと思うわ」
「俺は……、まあ、そういうところが聞きたかった。例えばアンミは要するに記憶を操ることができるわけだろう?医学的に記憶を取り戻すことがほとんど無理で、俺の頭の回路自体が元に戻ってしまっているということみたいだが、アンミがこう、超科学的な魔法で元に戻す能力を身につけた可能性はないのか?お前が知ってるアンミは小さい頃のことだし、それにアンミもアンミで戻せないのに記憶を消すなんて、よほどのことじゃなければやらないはずだ」
「小さい頃から……、というか、私も実例はアンミちゃんぐらいしか知らないからなんともいえないわ。でもそういうものは生まれた時から決まっているみたい。生まれた時から決まっていて、そして小さい頃に誰に教えられるわけでもなく、ただできるという感覚でその能力が発現する。アンミちゃんの能力は『生き物の記憶を巻き戻す能力』と『生き物に対して特質を発現させる能力』、この二つしか確認できていない。これは病院にいた時もそうだったし、セラ村へ行った後も変わってないでしょう。あと、まあ……、魔法使い的な特性というのはあるけど、健介君個人には影響はないでしょうし、話が逸れるから今はやめときましょうか」
「……?じゃあ、その生き物に対して特質を発現させる能力を自分に使うことはできたりするのか?俺が知ってるアンミの能力がその二つに含まれてない気がする」
「?だとしたら、多分私本当に知らないわ。生き物にといっても自分に使えるかどうかは知らないし、元から特質症の人間に対して効果があるかも分からない。他の例から考えればできるのでしょうけど、ただアンミちゃん本人が、……研究所の協力をなしにという意味でね、アンミちゃん一人だけで発現させられるの能力というのは、限定的というか、例えばミーシーちゃんの能力をコピーできるというようなものではないのよ。だから、アンミちゃんが出会った人の真似をしたくて新しく魔法を身につけるということはない。アンミちゃんが仮に、自分自身に特質を発現させるとしたら、その内容を所員はある程度は推測もできるはずだから、報告にないというのは不自然な気もする。アンミちゃんが隠そうとしていたなら、単に私たちが知らないというだけのことにはなるでしょうけど」
ミーコの方は『生き物に対して特質を発現させる能力』で納得できるかも知れない。となると……ミーコは魔法使いに含まれるのか?この辺りもよく分からんが、市倉絵里も、植物がにょきにょき伸びる事例は知っていたはずだ。今更隠そうとしているわけじゃないだろう。植物が……、魔法使いになってるんだったか?
「例えば……、木の根っこを操ってるのは?あれは知ってた、よな?あれも生き物の特質とかそういう話になるのか?」
「ああ、いいえ。もちろん使い方にだってよるところはある。ええっと、……少し長い説明になるけど、アンミちゃんのそちらの能力についても聞いておきたい?」
アンミの能力によって記憶を消された俺としては、できればアンミどころか全員の全能力を把握しておきたいところだ。
とはいえ、俺の理解度も置き去りに長い話を平然と続ける市倉絵里がわざわざ『長くなる』と前置きをするくらいの説明を聞いていては終わりがないかも知れない。これはもしかすると俺に聞く気を失わせる策略だろうか。
生き物の特質を発現させるというのは、……ちょっと不安なところがある。ミーコがどうやって人語を学習したのか、どうやって人格を修得したのか、この辺りの、根源的な部分を、破壊するような話題が、出てこないだろうか。
市倉絵里が植物と猫をジャンル分けしない。……さすがに、ないとは思っているが、……ミーコが操られていて、こうして不穏な動きをする俺の、スパイをしていたりしないかと、……ちょっとだけ不安になった。
アンミが、……ミーコを操って、情報操作を、しているというのは、さすがに疑心暗鬼が過ぎる。どうだ?ミーコもおっさんと一緒で手札自体としては隠しておきたいところだが……、一抹の不安を取り払うために聞いておくのが良いかも分からん。
ミーコにまでそわそわしていたくない。
「いや、簡単に説明してくれたら良い。別に詳しい仕組みとか医学的科学的な解説とかはそう多くいらない」
「そう?…………。アンミちゃんが、生き物に対して特質を発現させる、というのは、その発現させる能力の中に二つあって……、限定呼応と空間記銘と、うん……、電位チャネル共振性限定呼応症候群と非器質性空間記銘症候群という、まあ、そういう名前が付いているんだけど、要するにアンミちゃんが木の根っこを操っているわけじゃなくて、……何ていったら良いのかしら、植物が、アンミちゃんが助けて欲しがってるのを察して動いている、というのが正確な表現だと思うわ。植物に至っては特に、自由に動くために色々作り変わる部分があるわけだけど……、それはあくまで、アンミちゃんが魔法使いを作った後の動きとして別で考える。詳しく説明しない、というのはどの程度説明したら良いの?簡単に説明をしてしまうと、アンミちゃんは植物であれ動物であれ、特定の魔法能力を与えることができる」
「俺の頭の水準を察してできるだけ短い文章で簡単な言葉を使って説明してくれたら良い。その簡単な説明というのは、大体分かった。何となくは分かったような気はしてる。詳しい話に入れば理解するのが無理だろうなという感じはした。だから植物の件は説明してくれなくても良い。ありがとう。気になったことは俺から質問をしよう」
「……?どういたしまして」
「ああ、それから……、それからだな。まだ聞きたいことがある。例えば、俺がその、特質を発現させられたら、なんかそういうので副作用みたいなのはあるのか?寿命が縮まるとか、そんなことはないよな?命に関わることは……」
「…………。そういう質問になると、植物と動物で、少し説明を変えなくてはならないのかも知れない。とはいえ、植物にしろ動物にせよ、特質を発現させたせいで寿命が縮むということは、ないでしょうね。とは思っている。アンミちゃんの能力は特定の遺伝子を特質として機能させるわけじゃなくて、それぞれの個体の適合条件によって特質を発現させる。簡単にいうなら、使っていない部分を組み合わせて特質を造り出すの。だから、本来であれば元々の身体的な働きを変化させることはない、……というのが一応の当初のね、見解になるかしら。これは人で実験するようなものではないから、植物とラットでしかデータがないわ。ラットの実験でいうなら、逆に、伸びることはあった。今の時点でも寿命が縮むことには理屈はつけづらいけど、伸びる可能性はある。新しく造られたタンパク質は特質に関係するところだけでなく、例えば臓器の修復に使われることもある」
「そうか……。いや……、待てよ?寿命が伸びるのか?じゃあ例えば、トロイマン研究所で、……アンミを協力させると、不老不死みたいな、そんな研究ができたりするのか?」
特質を発現させても命に関わる重篤な副作用はないらしい。ミーコの心配をしていたわけだが、思いがけず『寿命が伸びる』という説明が引っ掛かった。




