九話⑧
色々と買ったのが幸いしたのか、ナナは並べられたジュースに興奮気味だった。一番最後に靴を脱いだハジメを急かしてジュースを指さして、それからみんなにもこの朗報を知らせたがっている。
俺が「じゃあ、頼む」と言うと、ナナはぐるりと居間を旋回して仏間と階段をきょろきょろしてから、二階へと上がっていった。おっさんは多分風呂から上がってるだろうから、多分仏間だとは思うが、とりあえずアンミとミーシーを先に呼びにいくようだ。
あんまり急いで階段を上ると危ないなとは思ったが、舞い上がったテンションに水を差すのも悪いし、一応俺が階段下で待機してクッション役をしておけば大丈夫だろう。
割と急な階段だが、ナナは一段ずつタッタと跳ねるように上って「アンミおねえちゃーん、ミーシーおねえちゃーん。ジュース、ジュースがあるー。健介お兄ちゃんがねー。ジュース買ってるのー」と、元気な声で二人を呼び出した。
一通り説明だけ済ませてか、ナナがまず階段を下り始め、続けてアンミ、ミーシーがその後ろへついた。俺のことに気づいてアンミはクエスチョンな感じで首を傾げていた。
アンミの分を買ってきた、というところまで言わないと、何故呼ばれるのか分からないものかも知れない。俺がジュースを買う姿が珍しくてナナが報告しただけだったり、ジュースを買ったことを俺が自慢したがっていると受け取る可能性もある。
下りてきたアンミに「何が好きか分からんかったが、飲み物があるから選んでくれ」と大体の状況を伝えた。
アンミが両手を合わせて合点し「ホントに?ありがとう」と、言ってる間にナナは仏間を開けておっさんの布団をゆさゆさと揺すってこれまた重大事のように「健介お兄ちゃんがジュース買ったっ。ねえスイラ先生起きて」と元気な声で言う。
……まあ、一応回復アイテムだけでも先に渡しておくために、どのみち一回は声を掛けるつもりだった。単に飲み物だけならさすがに起こさないが、少しでも体調良くなる可能性があるなら早めに渡しておいた方が良い。
「おぉん。おぉ、ナナか……。あー、あれかと思った。地震の、具現化したなんかかと思った。やったなー、ナナー、溶けるかと思ったぞ、こらあ」
「溶ける?スイラ先生が溶けれる?ナナはともかくジュースがねー、スイラ先生の分がある」
「そうかそうか。よし任せろ」
「寝てるとこなんだが、カフェオレで良かったのか?あと、二日酔い用のドリンクも買ってきた。良かったら飲んでくれ」
「…………。まったく健介というやつは。ありがとう。俺をホモにするつもりか。そんなお前、こんな弱っているところに……、ありがとう。仕方ねえなあ、……何かして欲しいことはあるか?」
「余計なこと言わないでくれると助かるな」
「まあ、見えないところでなら何してても良いけど、結婚するのはやめてちょうだい。どっちがお父さんでどっちがお母さんか日によって変わると厄介でしょう?」
「お前の分もあるんだが、お前にも同じお願いをして良いか?」
「…………。私は男じゃないでしょう。失礼ね。そういうのはホモとは言わないわ」
「余計なことを言わないでくれるとすごく助かるな。俺があんまり期待せずお願いしていることは分かるか?」
「ええっと、私には何かある?健介何かして欲しいとか」
「アンミ、……この流れでか?いつも通りしててくれ。アンミはそのままが一番だからそれで良い」
ミーシーは居間へ座り込み、どうやらここで飲むつもりらしかった。おっさんが重そうに立ち上がってナナを引き連れてこちらへ来て、で、ずぅんと沈むように座る。
ナナもちょこんと隣に座って、こうなるとどうやらお茶会のような趣で全員揃ってジュースを飲むことになる。少し遅れてハジメもおっさんの対面あたりで座り、俺とアンミが入れば大体円形に収まる。
アンミはわざわざ台所へ行き、人数分のカップを持って歩いてきた。本来不要だとは思うが、そういう習慣なのかも分からん。とりあえず飲み物を大体円の中央辺りに並べ直した。
ナナが「アンミお姉ちゃん半分こしよう」と言ったため、アンミが用意したカップは結果として役には立った。カップに注ぐと紙パックのカフェオレもまた上品なものに見えるし、まあ、ブレンドして楽しむということもできるようだ。
そして、円形のまま「そういえばトランプをする約束だった」ということで、全員で優雅にジュースを楽しみながらトランプを始めることになる。ナナから好きなトランプ競技を聞かれたが、特に何ということも思い当たらず、とりあえず「神経衰弱が大好きだから神経衰弱で良い」と答えた。
昨日より幾らか静かに飲み物をすすりながら、ナナとハジメの様子を窺う。おっさんとハジメが静かだとそれに連鎖するミーシーを除いて他は割と元から物静かなもので、ぎゃあぎゃあと騒ぐような切迫した白熱感はない。
おっさんは一応元気そうに振る舞いつつも鈍い動作でカードを捲り、そして覚え間違えにショックを受けてか、指をピンと立てた両手のひらで恥ずかしそうに顔を覆った。
ハジメも集中できていないのか割と序盤から長考の構えを見せ、唇をとんがらせて眉間に薄い肉のシワを作っていた。そして間違える度に「その辺だってとこまでは覚えてた」と敵に塩を送る。
そして俺はというと、……なんか思い出せそうな気はするのに、それ以上考え込もうとすると左のこめかみ周辺がズキリと痛む。トランプをやっているせいとは限らないが、時折俺を襲うその頭痛で本来のパフォーマンスは発揮できそうにない。
そうなると順当に、アンミ、ミーシー、ナナが何気なくカードを手元に溜めていくことになり、そんな結果が何度か続くとナナが俺たち三人のことを気にし始める。
最初は、ナナなりの、このゲームの攻略法について解説された。開いたカードの上をぴょんぴょん跳んで地図を作って行ったり来たりして、あと、ナナはナナって名前だから七が開いたら嬉しい。いつも自分が開いたつもりになるとよく覚えられる、ということだった。
結局、感覚派の攻略法を真似してみたところで成績が良くなるわけでもなく、たまに七が開いて嬉しい気持ちになっても、すぐ他の人に取られたりした。あんまり心配は掛けたくないんだが、ナナの実力はおそらく普段の俺と同程度なわけで、頑張りも空しく俺の不調は見透かされてしまっているようだった。
「健介お兄ちゃん、カード取れないとつまらない?」
ついにはそんなことを聞かれた。
「いやそんなことはない。今俺は全力でやっている。手を抜いたり気を使ったりしないでくれ。俺は真剣勝負が好きなんだ。自力で打開してこそ価値がある」
その後も、ナナとミーシーは俺の空元気な意気込みに応えてか手を抜くことはなく、そして俺は何一つ打開できることもないまま、ゲームが進んだ。多めに用意されていた飲み物も空になった。
おっさんは休憩が必要だろうし、アンミは少ししたら昼飯の準備やら何やらがあるだろう。丁度良い切り上げ時ということでトランプ大会をお開きにした。
「まあ、良い例でしょう。馬鹿になる薬を飲んだから揃ってこんな感じになってるのよ。無理せず回復に努めなさい。頭の弱い者いじめだと、ただトランプをしていただけの私が悪者みたいになってしまうでしょう」
「『無理せず回復に努めなさい』、というところだけなら、お前も悪者みたいにならないだろう」
「治る薬はない?」
「ああ、ナナ。馬鹿につける薬はない、ってな、昔から言われている。ただこうして失敗したことを反省していれば少しずつ治っていく。そういうものだ」
「健介お兄ちゃんは今、ミーシーお姉ちゃんに叱られて反省してる?ナナは、ミーシーお姉ちゃんの言うことを聞かないと痛い目に遭うことが分かってる。ナナも止められなかったら苦いの分からなくなって飲んでたかも知れない。そういうのが割とある」
「そうか。偉いな。ミーシーお姉ちゃんの言うこともよく聞いておくと良い。俺は言われたのに言うこと聞かずに失敗して痛い目に遭う男だ。そしてこういう失敗例を見ておくと、どうすれば失敗せずに済んだかも賢いナナにはきっと分かるだろう。今まで言うこと聞かなくてどんな痛い目に遭ったんだ?その時ちゃんと反省したか?」
「まるで私が痛い目に遭いそうなナナを助けなかった時があるかのように言うのやめてちょうだい。大体ナナは元からちゃんと言ったらやめとく良い子だったでしょう?」
「…………?そうかも知れない。ナナはもしかして痛い目遭ってない?ナナは多分、だから、ミーシーお姉ちゃんの言うことを聞かないと痛い目に遭う予感がしてた。あと、スイラ先生の言うことは守らないといけない」
「良い子にしてるな」
「スイラ先生?スイラ先生はこんなところで寝ちゃ……、寝るのは本当はダメです。お布団をちゃんと被らないと風邪を引くし、お布団がないと背中が痛い。いつ……、いつもはちゃんとしてる」
「ああ。いや……、良いぞ、別にフォローしなくても。良いお父さんで良い先生しているんだろう。よく頑張ったと思う」
あぐらをかいたまま目を閉じて船を漕いでるおっさんに気づいてナナは少し言葉を詰まりながら俺に対して『いつもはちゃんとしているんだ』とフォローした。
まあ。分かる。もしナナの趣味がトランプじゃなくフルマラソンだったとしてこのおっさんは付き合ってやったかも知れない。『なんの、これくらい』と、干からびた笑顔で笑うのかも知れない。
「おっといかん……。ね、眠りメーター見てなかった。振り切れてたな今。ヤバイヤバイ。んむぅ、ぅ、お昼寝しないと……。ナナもお昼寝するか?へぁぅ、一杯寝とくと一杯育つぞ」
「一杯?ナナはでも眠くはないなあ。ごろごろしてるだけでも育つ?」
「目ぇ瞑ってたら育つ育つ。眠くないのはいかんな。いつも全力ならもうこの時間には眠いもんだ。まあ、とにかく寝よう」
「おっさん、一応予備あるから良かったら持ってってくれ」
「ああ、じゃあもう飲んでから寝るか。悪いな、健介。やっぱ比べてみるとあるなしで大分違う。いやあ、助かったサンキュー。ゼリー溶かしたみたいな味するなこれ」
気休め程度かと思っていたが、一応効果はあるらしい。そう聞くと俺の体内でも今一生懸命働いてくれてるような気がしてくる。
「まあ、それでも美味しい方なんじゃないか?俺は飲めれば何でもいい。効果さえあれば」
「んぐっくっ、んっく、ふぃい、ごちそうさま。じゃあ寝る。なんかあったら起こしてくれ。なんもないんだが、まあ、気分で起こしたくなったら起こしてくれ」
おっさんが立ち上がりナナを引き連れて仏間へと引っ込むのを確認した後、アンミは「ええと、ええっと」と少しそわそわした様子でこちらを見て、一秒ほど黙って間を開け「そういえば」と言った。
「健介何か食べたいものある?お昼。私、そういえばお店の本借りてたから言ってくれたらやってみる」
朝の献立の要求をおっさんから誉められたことに対する今更のそういえばだったのか、店から貸し出し中の本がそういえばだったのか、アンミはこちらをじっと見て時折目線を泳がせながらそんなことを言った。
「お店の、というか、お店で出したいと思っていたが叶わなかったレシピの本だな。有効活用してくれ。何を作っても美味いアンミが作るものなら正直何でも大丈夫だろう。フレンチ的な……、スープとかあったっけか?もしあればそういうのも味わってみたい」
「じゃあ探してみる。ミーシー、どういうのがフレンチ的なのか分かる?」
「今アンミの言った本に載ってるのは全部フレンチだから安心しなさい。そもそも大体そういう曖昧な要求ならこれがそうだと言い張ればたとえカレーだったとしてもみんな納得するものなのよ」
「昨日作ったのがね、フレンチ?フランス料理だなあって、私あんまりそういう、ちょっとだけ今までのと種類が違うみたいなのは思ったから」
「別に失敗しても良いのよ。そしてアンミはもうそうそう失敗したりもないでしょう。少しは自信持ってチャレンジしてみなさい。レシピ間違えても結局美味しくなるに決まってるわ」
このやり取りは、アンミが手伝いをねだっているようにしか聞こえない。ミーシーはそれに気づかないかのように素っ気なく突き放しているように聞こえなくもない。
昨日ああだったら、これは本来問答無用で叶うはずの要求だった。もっと率直に、素直に言えばミーシーは断りようがないんじゃないだろうか。『手伝って』と一言言えば、ミーシーが断るはずないんじゃないだろうか。
ただ、中立の俺から助け船は出しづらい。別に、……二回目だって良いんじゃないか。あるいは後で予知をし直せば少しの間くらいなんてことないんじゃないか。何もそんなに、意地になることなんてない。あくまで、俺の想定によるところだが、喉元まで言葉が出掛かって、だがそれがすんなりと出てこない。
詰まって引っ掛かって呼吸だけが苦しくなる。
「なんでよ。あんた手伝ってやったら良いじゃん。の方が美味しくなんじゃないの?予知万能ぉみたいな自慢してんじゃん、いっつも」
『さすがだっ』と、声が出そうになった。まるで考えた様子もないすらりと流れる音の美しさに感動さえ覚える。
その通りだ。これは何気ないやり取りであるべきだし、誰に無理強いさせる話でもない。そうあるべきだ。そうした方が良いとか、そうであれば良い、ではなく、それが一番自然な姿のはずなんだ。
……だが、期待に反して、ミーシーはため息一つ吐くことなく、未練などもなさそうに言う。
「よちよち歩きする必要ないでしょう。そんな心配しなくてもアンミは料理が上手だし、その手柄を横取りする野望なんてのはないわ」
「まあ、そうなんだけど。上手なんだけど。ああ、して、狭いっちゃ狭いか。あ、そだ。お風呂のことすっかり忘れてたわ。安心しなさいな、アンミ。あたしに任しとけばお風呂、ぴかぴかだから。ま、ちょっとは楽できるでしょ?」
「うん。ありがとハジメ。じゃあ私本見てる。お風呂お願いね?」
「おっけー」
こういう、顛末になった。ということは、俺が仮に何か言ってたとしてもやはり同じように落ち着いてしまっただろうし、ミーシーがそうと決めている以上、何を綿密に仕込んだところで結果が変わることはない。
アンミは……、よちよち歩きはしなくて大丈夫なくらいには、一人で上手くやれるだろう。けどなあ、求めてるものが違う。
いまいち釈然としないが、ミーシーも考えあってのことだろうとは思う。少なくとも俺にとやかく言われたくはないはずだ。ハジメが風呂に行き、俺たち三人もぞろぞろ階段を上がってそれぞれの部屋へと戻ることになった。




