九話⑥
「ナナ、ちょっと出掛けてくる。すぐ帰ってくるつもりだが、一応誰かに聞かれたら出掛けたと言っておいてくれ」
「どこ?お仕事?」
「仕事ではないな。ちょっとした散歩みたいなものだ」
「ナナは?」
「ん?ナナは?ついてきたいということか?」
「…………?」
「?じゃあ一緒に行くか?先に言っておくが、全然何も名所的なものはない。延々刈り取られて寂れた田園風景しかない。行き先もデパートとかじゃないからオモチャとかもないぞ」
「え?ナナ行っても良い?そしたら、ちょっとハジメお姉ちゃんに聞いてくるっ」
ダッと駆け出したナナはほんの一分も経たない内に、ハジメの手を引いてこちらへと戻ってきた。ハジメはナナを引き止めたり見送りをしにきたわけでなく、「じゃああたしも行く」と言った。
『行きたい』、ではなく『行く』と言われてしまえば、……なんとも不思議なことのようには思いながらも、「ああ」と返すしかない。
誰かに報告してきてくれと言うと、ハジメは風呂場の方へ歩いていき、中にいるであろうおっさんに向かって大声で「ちょっと出掛けてくるからーっ」と叫んだ。多分おっさんだけじゃなく上の二人にも聞こえていただろう。おっさんは「ん゛ーっ」とだけ返事をした。
「ナナにも言ったんだが、……本当に何もないところ歩くだけだぞ?」
「あんたが来んなってならやめとくけど。そんな嫌がんなくてもいいじゃん。歩くだけなんでしょ?あたし、歩くのは得意だから」
「そうか、まあ……?得意分野なら参加したくなるかもな」
散歩が好き、というよりは、ナナの保護者代わりのつもりなのかも知れない。特にイベントがないということを納得してついてくるなら、上手に断る方法もないな。
ハジメ本人気まずそうにしているように見えるが……、気のせいなんだろうか。俺もちょっと気まずい。なんとかもてなすコースを考えてみるが、まあそれも無理だな。
三人で外へ出た。
「…………。右手がほら、荒廃した田んぼだ。数カ月前までは綺麗に稲がなってたし、夏くらいは一面緑に覆われていた。今は見る影もないが……、まあ、田んぼだ。刈り取られた、ほら、あそことかは焦げてる、ワラとかをな、多分燃やすんだ。ちなみに左手も田んぼだ。当然その、……こっちもちょっと前までは稲がなってた。そして、大体この先もずっとこういう風景が続く」
「うん」
「だから逆にな?ああ、そうだな。うぅん……。都会とかから来ると物珍しいかも知れんな。どうだ?中々ないだろう?まあ少なくともわざわざ刈られた田んぼを見ようと思う人間がいないということは、ある意味ほら、……レアだろう?」
「まあ」
「夏とかならな、鳥とかもいる。白くてそこそこ大きいやつだ。あれも水がなくなる頃にはいつの間にかいなくなるし、今は静かに眠っている田んぼだが、あのな。普段というか季節によってはある程度賑わっている。馬鹿にしないでくれ」
家を出てすぐ左に折れ、目の前の広大な田んぼについて俺は精一杯の解説を心掛けた。あえて気を使ってなのか、『何もない』とか『精々ある田んぼがこの有り様』とかそういったことをハジメもナナも言わないものだから、俺はやむを得ず、何も聞かれてもいない別の季節の田んぼ風景の楽しみ方などをおずおずと語った。
「えっ、別に馬鹿にしてないじゃん。えーと、ほらあ、ナナ田んぼだって」
「ねー?あそことか焦げてるって、ね?」
「そうだ。……ワラとかをな、多分、燃やすからな」
「ワラ燃やすからだって?」
さすがにこの風景で『わあ、刈り取られた田んぼだ』などと感動されることはまずないに決まっていたわけだが、これが目的地までずっと続いていて、折り返した帰り道にまたずっと待ち構えていることを考えると、せめて何かしら会話の糸口にはなって欲しかった。
ただ、やはり、どうひいき目に見たところで、俺にとってすら何一つ面白味のない風景で、挙げ句俺の頑張りが裏目に出たのか、ハジメも少し困惑気味のように見える。
「へえ、ていうか米の?クキのことワラっていうの?ワラってそういう植物だと思ってたわ」
「いや、多分渇いたクキのことをワラっていうんだろうな。麦わら帽子は小麦とかのワラなんだろう。ムギのワラのボウシってことでな。あれが稲のクキでできてたら多分稲わら帽子か米わら帽子だ。……稲わら帽子なんて聞かないから稲のワラは帽子向きじゃないのかもな。どうだ?田んぼ豆知識だ」
「なんであんたそんな生きてく上で絶対役に立たないことまで知ってんの?」
「なんでと言われるとなあ、一般常識だからかな」
「一般、常識……。へえ、じゃああんた、耳掻きの逆側にコケシみたいなのついてるの一体なんなのか分かるの?」
「ん?……多分、耳掻きの後、しばらく耳をキャップして、保湿するためだろう」
「……そうなの?こいつ、なんでも知ってる……」
「…………。ごめんな、それは嘘だ。一応な、言っておくと俺は嘘をついたというか、冗談のつもりで言ったんだけどな。多分単なる飾りだろう。何か疑問に思うことがあったらどんどん質問してくれ。なんにも見るものなくて間が持たないかも知れん」
「へぇ……。ああ、そうなの。まあまあ、そりゃ季節悪かったかも知んないけど、んな無理してないもん紹介しなくて大丈夫よ、別に。あたしんとこだって別になんかあるわけじゃないし。ナナの家の方はどうか知んないけど」
「いや……。いざ、例えば、お前の地元を俺が観光することになったら、おそらく俺はなんか珍しいものを見つけてあれこれ何だと聞くだろう?神社があればどんな神様か聞くだろうし、店があればどういうものが売ってるか多分聞く。俺の家から一番近い店というとあの坂のところにある、何だ?その、コイン精米所だ。で、コンビニに向かってこれから歩いていくわけだが、こっちの道は、たまたま田んぼしかない。本当に、コンビニに辿り着くまで田んぼしかない。コンビニを越えて更にちょっと歩くとようやく、……郵便局がある」
「ああ、コンビニ行くんだ。坂の方は?行ったらなんかあんの?」
ちょっとばかりハジメの声色も遠慮がちではある。ただ、完全な無言田んぼ散策という状況にはならずに済みそうだ。努めて会話を繋げようとしてくれているのか、目的地と真逆方面の話題を持ち出して割とどうにでも展開できそうなどうでもよさそうなパスを渡してくれる。
「あっちは一応公園がある。店もあるし山もあるし、ちょっと歩けば町民図書館とか、あと、商店街もあるし、もっと行くとでかい病院もある。バスも通ってる。すごいだろう?」
「すごいの?ああ、すごいすごい。あんたそっちの方が自信あるならそっち行けば良いのに」
「そういう手もあるが、俺の用事はコンビニと、せいぜいついでにミーコ探しだからな。コンビニだったらこっちの方が近いという単純な理由でこっちなだけだ」
「ふぅん。まあ、田んぼも新鮮っちゃ新鮮なんじゃない?スイラおじさんとこはそんなに広い田んぼないからさ。ここら辺なら見渡し良いし、今なら入っても怒らんないし、で、ナナ?猫探すんだって?いるかどうか分かんないけど」
「ミーちゃん?ミーちゃん隠れてたらこれは分からないかも知れない。ミーちゃんは自動的に帰ってくる?」
ハジメはナナの暇つぶしゲームの提案までしてくれる。なるほど。移動式ステルス宝探しゲームのつもりでならナナは退屈せずに楽しめるのかも知れん。
「トラブルがなければ帰ってくるし、賢い猫だからちょっとしたトラブルだったら難なく抜けてくるだろうとは思う。が、元々は木から下りられなくなったりする猫だからな。戻らん場合はミーシーに協力して貰ってなんとかするしかない。まあ多分大丈夫だろう。心配掛けるなと約束はしてるしな」
「……?約束してんだ猫と」
「悪いか、猫と約束してて。特別な、大切な猫だ。賢いから約束したりもする。後々ミーシーに捜索依頼を出す時、俺の免罪符にもなるだろう。それでも皮肉は言われるかも知れんが」
「あっ、……え、とぉ、あぁまあそっか。そうだった。そっか。いや、でも猫とおしゃべりなんて、ね?なんてかファンシー?ファンタジーな感じ?いや、仲良くしてんなって思って。そういうだけ。あんた猫とどんな話してんの?約束ったって……、いやケチつけるわけじゃなくてさ。心通ってんだなと思うんだけど、ニャーしか言わないじゃん。どうやってコミュニケーション取んの?」
ミーコはもしかして……、一緒に風呂に入る裸の付き合いを、あいつほとんど話もしないで通したのか?人見知り猫被り説は一応前からあったとはいえ、そりゃいくらなんでも無愛想が過ぎる。
アンミとナナとやり取りはしてたし、ハジメにも返事してたわけだから、さすがに喋れる喋れないという説明はしなくても良いはずだが……、こうなるとハジメは、ミーコの本気の語彙力というのを理解していないかも知れない。
『お風呂好きか?』『好きニャー』『ご飯食べるか?』『食べるニャー』くらいしか聞いていない可能性がある。
「ん?どんな……。どんなと言われると色々?そうか。なんかあいつは俺以外とあんまり喋らんみたいだからな。お前も一回悩みとか相談してみると良い。大抵良いアドバイスをくれる。知識は幅広いぞ。趣味でも良いし、政治とか経済とかでも問題ないだろう。分からんとしても猫独特の、ゆったりした感じで話を聞いてくれる。一回ちゃんと喋るとどれだけ賢いかというのがすぐ分かる」
「それ、あたしより賢い?」
「ああ……、多分、まあ」
「はあん。……まあ、そう。いや、あんた多分あたしのこと嫌いなんだろうけど、あたしもほらさ、なんか相談してみなさいよ。悩みとか、趣味とか、あと何?政治とか経済の話?まあ大丈夫よ、分かんなくても。あたし馬鹿かも分かんないけど、人の相談乗ったげることぐらいは、ま、馬鹿でもできるでしょ?」
「誰も別に、……嫌い?なんかそういうふうに聞こえるような話あったか?別にハジメのことを馬鹿だと言ってるわけじゃなくて、例えば……、俺とかお前は猫語は分からんだろう?あいつは人間の……」
「いや、いーから。猫だけじゃなくてさ、悩みをほら、ドンと来なさい。良いアドバイスが、出そうな気がすんの、今、多分」
「と言われても、今?いや、ん?今か……。あんまりないな。お前のその唐突な悩み相談に投稿する悩みがないのが、何というか、今まさに悩みかも知れんな」
正直、俺の口から出たのは苦し紛れの返事ではあった。少し考えてみるだけで悩みとおぼしきものはいくらでも釣り上げることができる。
アンミの件がまさに重大な悩みに違いないだろうし、それに関わって確定的な不安と、確定しきらない嫌なもやが頭の中に残っている。ハジメはもちろん真剣に考えて一緒に悩んでくれるだろうが、それを相談することもまた、デメリットを大きく孕んでいる。
まあ目下、俺がハジメを嫌っているみたいな誤解と、俺の話を聞こうとしないハジメの性格とをセットで相談したいところだが、これも変に曲解されかねないし、元からのそういう部分を言われて直せるほど、俺も含めて誰も器用だったりしないだろう。
俺はハジメを嫌っていたりはしない。誤解はその内解けるだろうし、俺の言いたいことはほんの少しずつ伝われば良い。
ハジメはコンビニに辿り着くまで、『あんたは自分の悩みに気づいていないだけで実は悩んでいる』だとか、『仮に今悩んでなくても昔悩んでた』とか、当たらない占い師が必死に食い下がるように俺から悩みを引き出したがり、俺はゆっくり空を眺めてハジメを見て、考えてみると、
今こうして平穏に過ごしていて、これが何事もなく続いていくとして、俺は多分それを失うのだけが怖いんだろうなと思った。
コンビニに入る前にハジメが立ち止まり、ナナもそれを見て駐車場の前へ戻った。
「どうしたんだ?別に入る分には財布はいらんし、どうせお土産に適当に飲み物かなんか買っていってやるつもりだった。中入って、他の奴の分とかも選んでくれると助かるんだが」
「んー、いいわ。あたしも多分迷って時間潰すだけだし、ま、田んぼ見てるわ」
「ああ、まあ……。人数多ければ解決できるというものじゃないだろうが。家にいる奴の好みとかなんか知らんか?」
「スイラおじさんカフェオレ、ナナはオレンジジュース。あたしもオレンジで良いや。なんかオレンジ飲みたい気分。で、アンミとミーシー二人とも何でもいい感じ。アンミは何でも喜んでんだろうし、ミーシーは……、ぅんん、変なの買ってったら喜ぶんじゃない?珍しい、なんてのか、普通飲まないでしょっての」
「変なの買って交換を申し出られたら、俺が変なのを飲むことになるな。予備含めて何種類か買っておこう。ナナはどうする?中で色々見てみたらどうだ。飲み物の場合、美味しそうとかで選ぶものじゃないが、見てればオレンジ以外も飲みたくなるかも知れない」
「ナナは多分迷ってオレンジにする。それと、ナナは基本的にハジメお姉ちゃんと一緒にいることにしてる」
なら、なおのこと三人で入店という方がありがたいが、まあ良いか。いざ俺が迷ったら入退店を繰り返して意見を求めれば良いことだし、そもそもそこまで吟味しなきゃならんほど極端な好みもないだろう。
俺とおっさんとハジメに回復アイテムを予備含めて何本かと、注文のあったカフェオレオレンジオレンジと、その他適当に見繕って戻るだけだ。大して時間が掛かるわけじゃないから、田んぼに飽きて行方不明ということにもならんはずだ。
「田んぼに飽きたら空とかも良いぞ。じゃあ、さっと行って買ってくる」
「んー。行ってらっしゃい」




