九話④
「ハジメは、あなたが体調悪そうにしてたから手伝ってあげようと思ったわけでしょう。あなたが仏間開ける前にハジメに声掛けてれば二人で両端持って布団運んで仲良くできたでしょうに。くっそ邪魔なのは分かるけど我慢してやりなさい」
「……ああ、すまん。すまん、そういうことか。じゃあちょっと悪いことをしたかも知れん。いや、普通なら気づくんだ。まあ今後は気をつけよう」
俺とハジメの布団騒動をミーシーは居間で静観、アンミは食事の片づけをあっと言う間に終えてしまったらしく、こちらに気づくこともなくナナと並んで洗濯機の中を覗いていた。
また椅子に腰掛けてしばらく待つと洗濯機も止まり、俺もナナがフタを開けたところで合流した。
洗濯物もそこそこ重たいもので、ナナは一杯に詰め込まれたカゴを持とうとして見事によろつきドアにぶつかりそうになった。慌てて支えてカゴを引き取り、三人で玄関へ出る。
ナナは俺のことをずっときらきらの瞳で見つめ続けていたが、ナナの言動から察するにどうやら、片手で洗濯カゴを持ち上げる俺に憧れの眼差しを向けていたわけではなく、単に肩車されるのを楽しみにしているだけのようだった。
『もし肩車が肩車したら無限大』というような実に子供らしいことを言って、きらきらの瞳のまま俺の周りを歩き回って、どこから登れるかを吟味していた。まあそれがナナのモチベーションに繋がるのなら俺も一応この洗濯干し作業において一定の役割を担っているともいえる。
「だが油断はするな?一回でも落ちるとPTAから苦情が来て肩車が禁止されるかも分からん。まあ俺は死んでも落とさないつもりで足掴んでるが、ナナも落ちないようにだけは気をつけてろ。洗濯物とかは全然落として良い」
「ナナはそういう心構え持ってる」
「なら問題ない。さあ来い。ナナが大きくなり始めたら俺も筋トレを始めることにしよう。あ、すまんちょっと待ってくれ。というか、あれだな。そこの階段で俺に登ろうか、ナナ」
ナナのひらひらワンピースの股下に顔を突っ込むという方法もアンミに見られているとなんとなくの抵抗があったし、いくら俺がしゃがみ込んでいるとはいえナナが一発で俺の肩を跨ぐことも難しい。
まるでそのために設置されたかのような階段と手すりを利用して俺に登るよう背中越しにジェスチャーで伝え、俺もナナの両足をしっかりと握った。
ナナは「やっぱり高いなあ」と嬉しそうに感想を呟いた後、『ジャンプした上でジャンプしたら無限大』というような実に子供らしいことを言った。
大体、昨日と同じ手順でナナの指揮に従って俺は左右に機敏に移動し、ナナも洗濯物を引っ張り出してはハンガーに引っ掛けそつなく順調に仕事を進めていった。
「ナナがこれだけ身長があるとね。だからカルシウムを取らないといけない。これ、ナナの夢」
「…………。ん、まあ、叶うと良いな。だが、アンミくらいの身長でもこれはできるぞ?今少なくとも二メートルは超えてる。いや、順調に、そうだな。大きくなると良いな」
「んー、でも、よく考えるとここまで大きいと一杯頭ぶつけるかも知れない。そしてナナは中間くらいで良いかも知れない。身長が足りない時は健介お兄ちゃんが肩車してくれる」
「そうだな。協力し合えばなんでも大概できるものだ。いつでも肩を貸そう」
そして、本日も洗濯干しの作業は何の問題もなくおそらく完璧な仕事として終えられた。アンミは終始後ろでニコニコ俺たちを眺めていて、やはり文句の一つもなく、作業完了と共にナナの手際を誉めていた。
ナナが『身長の高い人ごっこ』をしたいと言ったので、とりあえず肩車のまま靴を脱がせてやり、玄関を慎重に潜り、台所まで辿り着いた後、椅子の上へ降ろしてやった。多分玄関辺りで身長が高い人の苦労が少しは伝わっただろう。
「ナナは二メートルはちょっと贅沢だった……。ナナが二メートルでお兄ちゃんと合体したら何メートル?天井に頭ぶつける?」
「さすがに大丈夫だと思うが、部屋とナナの座高とによるな。というか、二メートルになったらさすがに俺はいらんだろう」
「ナナはいると思うな。ナナが、ナナがねー、例えば天井とかを掃除したい時とかはいると思うな。け、けいこーとーとかを替える、のはいると思うな。だからいらなくならない」
「ほお。約束だぞ。まあ仮に、例えば二メートルになったとしても蛍光灯とかを替える時に俺を呼んでくれ」
ナナは大層、俺の、……『俺の』肩車を気に入ってくれたようだ。もしもこの世にナナを肩車する専門の仕事があるのなら、俺はこの時将来の夢をそれに決めただろう。
少しくらい薄給で肉体労働の単純作業だったとしても、誰かにこうして求められることで得る安心感はきっと何ものにも代えがたい。奇妙な妄想であることは自覚しているが、とにかく俺はそれくらいに充足感を味わっていた。
ナナからすれば俺は単なる音声認識システム搭載のアトラクションに過ぎないだろうが、俺は俺でその役割に満足している。ぴったりとかみ合った素晴らしい分担だとさえ思う。
俺はナナの役に立っていて、そしてアンミの役にも立っている。俺は役に立つ男だと胸を張って言える。
居間にはもう人影もなく、特にイベントもアクシデントもなく掃除も順調に進めることができた。俺が適当に掃除機を掛けて、ナナが机やら壁やらを水拭きする。まあこの仕事に関しては俺とナナの仕事ぶりは完璧とはいえないのかも知れない。
まず机にしろ棚にしろナナの手の届く範囲は限られているし、俺の掃除機も可能な範囲での巡回しかしない。例えばハジメがソファで寝ていても足をわざわざ移動させたりしないだろうし、コンセントが届かないようならそこは別の機会に預けておく。
俺もナナも片方の作業時間を待つことなどせず、どちらかが終われば場所を移動して割合時間を掛けることもなく完了ということにしてしまった。アンミはナナを次の机や棚へ案内したり、届かない場所をフォローしたりしていた。
「私もナナと同じくらいの時って、手が届いてなかったと思うけど、でも全然それ気づいてなかった。私最初、スイラお父さんにカレンダー捲りたいって言って、掃除もしたいって言って。うん、でも何とかなったから全然大丈夫だよ。多分そういう時はスイラお父さんが後からやってくれてた」
「まあ、元々ここは全然掃除しない家だったからな。ナナ、掃除の方法には二種類ある。ヤバイと思った瞬間に本気を出して掃除する方法と、毎日こまめに掃除をする方法だ。そして、『まとめて掃除をする方が労力は少ないが、その実清潔な部屋で過ごせる時間は短い』と、こんな格言がある」
「?ナナは今どっち?」
「まあ要するにだ。毎日毎日完全にやろうとするとそりゃ綺麗にはなるだろうが疲れる。疲れると嫌になる。逆にまとめてやるからどうでもいいやと思っていると楽には楽だが汚い部屋で過ごさなくちゃならなくなる。つまり、ちょっとずつでもできるとこだけやっとけばそれなりに綺麗なところで過ごせるしそこまで疲れないだろう?ハイブリッドも悪くないということだ。そしてヤバイと思う場所があればそこだけとりあえず本気を出せば良い。そういうことだ」
「だって?ナナ」
「そして、アンミの場合はそういう水準が高いんだろうな。毎日几帳面に家の掃除というのも本来中々難しい作業に違いない。そういえば陽太から店の掃除を本気でやっている健介はすごいなと何回も言われて、正直馬鹿にされてるのかと今までずっと思ってたわけだが、どうやらあれはこういうことだったんだな」
「んーん、私もそんなに几帳面?そんなに几帳面にはやってない。届くところだけ」
謙虚というのか寛容というのか、アンミは普段通りの穏やかな物腰でそんなことを言った。俺たちのやる気を損なわないようにそう努めてくれている可能性もあるし、本気でここまでできれば上出来だと信じている可能性もある。
「私なんか最初の時は失敗ばっかりしてた」というのは、多分アンミの小さい頃の話だから俺はフォローの対象に含まれないわけだが、聞いている分にはアンミも昔は不器用で、何をやっても上手くできなくて、そしてこうなった以上、アンミはかなり、努力の人だったということも分かる。
むしろそここそ大いに見習うべき部分だ。
「うん。うん。やった。ナナもっと上達したい」
「そうか。小さい頃からやってると上達も早いだろうからな。忙しいところありがとうな、ナナ。じゃあ、次は日記を書いてハジメの記憶を取り戻すという重大な仕事もある。引き続き頑張ってくれ」
「ナナ、頑張る。じゃあ頑張ってくる」
「ナナも多分、アンミみたいに育つだろうな。家事全般ができるというのはまあ、何というんだ?相当にお嫁さん的なポイントは高いだろう。きっとアンミみたいに魅力的な女の子になるんだろうな」
「私みたいな?うん……?私でも、本当に昔迷惑掛けてばっかりだったから。ナナが役に立ってるみたいなのじゃなかったと思うよ」
まるで純粋に比較してそうだったと言わんばかりの、特に思い出して落ち込んだ様子もない、平然とした感想だった。お嫁さんだとかポイントが高いとか魅力的というのも、まあアンミにとっては照れたり喜んだりする台詞ではなかったらしい。
「現状そこまで完璧になっているとこから考えると、諦めずに頑張り続けるというのが一番の才能なんだろう。まださすがに刃物は危ないとは思うが、……どうなんだろう。アンミはその、小さい頃から掃除と洗濯と、料理と、あとカレンダー?カレンダーくらいならナナもやれるか。他、例えば」
「えっ、あ、えっと」
「ん?…………。どうした?」
「カレンダーは多分、その……」
少し縮こまって目線を落として、襟元を指でつまんで擦るようにして、アンミは小声でカレンダーにまつわる当時の失敗談を俺に語って聞かせた。あんまり良い思い出ではないように、たどたどしく、弱々しく、申し訳なさそうに、深刻そうに、カレンダー捲りを任された時のことを話した。
要約すると、アンミがまだ小さかったから、カレンダーを捲りやすいようにわざわざおっさんが低い位置に取り付け直してくれたという、まあそういうエピソードだった。
アンミはそれを毎朝毎朝何日も捲って、で、ある日、『この位置って実は見づらいんじゃないか?』と気づいたという、……ほんわか話ともギャグとも受け取れるそんなエピソードだった。
まあ確かに、ナナの身長で届く範囲に日捲りカレンダーがあったとして、見やすいベストな位置かという問いには少し状況を考えた返答にならざるを得ない。見えんことはないだろうし、俺なんかは全然問題に思わないが、アンミはその当時、できたつもりになっていたことを恥ずかしく思ったそうだ。自分に厳しいな。
「だからね?だから掃除ももしかして、ナナが掃除機して、健介が机とか拭いてくれた方がぴったりかも。ナナは几帳面だし、健介は私より背が高いから全部できる」
と、俺はアンミから初めての遠慮がちなダメ出しを受けた。
「そうか。さすがだ。全然気づかんかった。完全にアンミの言う通りだな。そんな自信なさそうな顔をしないでくれ。基本的にアンミの言うことが全部正しい。なんか気づいたことがあれば『違うだろう』と言ってくれて良い。そして俺は成長していく」
「うん、うん」と二回頷いて、「ナナも健介もすごく上手になると思う」、上目づかいで少し微笑んでアンミは言った。こればかりは本当に、アンミで良かった。
ミーシーもおそらく何でもそつなく完璧にこなせる能力を持ってはいるんだろうが、……教育者という役割においてアンミ以上は多分ない。
まあ、ただ、アンミの話を聞いていると、どうやらミーシーやおっさんがそのアンミの育成に尽力していたのではないかとの推察もちらほら出てきた。
料理をしていて不思議と一度もケガをしなかったのはミーシーやおっさんのお蔭だし、作りたい料理のレシピはミーシーからのリクエストで細かに出てくる。台所に届くように踏み台を作ってくれたのも野菜をちょうど良く用意してくれたのもおっさんだったと言う。
そして俺は顔も知らないが、おじいちゃんがアンミを大層誉めてやっていたらしい。
畑仕事であんまり役に立てなかったとか、折角用意して貰っても野菜を上手く切ったり皮を剥いたりできなかったなんて残念がる話もあるにはあったが、そういうことがあってこそ、アンミがここまで料理をできるようになったんだろう。
あれやこれやおっさんとミーシー、おじいちゃんが登場するシーンがあって、アンミは多分それに応えるように料理を上手になっていった。歴史を知ると順調に用意されていた食事へのありがたみというのもまた違ってくる。
「苦労してたんだな。まあミーシーとおっさんなら何も言わずに何とかしてくれそうな感じはする。個性が強くてぱっと見では気づきづらいところだが」
「うん。だから、もしナナが料理をしたいって言ったら健介はおじいちゃんの役。健介は元から失敗してても不味いって言わなそう。良いところ見つけてくれたりすると思う。料理はどうせ、ミーシーができるけど」
ああ、やっぱりか、と、思った。ちょうど良く少し前にその台詞の先が気になっていて、カチリとはまり込むようにピースが埋められた。
どうやらこれはただ単に、他意のない言葉に過ぎなかったようだ。『どうせ』という言い方が少し投げやりで乱暴に聞こえてアンミのイメージに合わないというだけで、アンミ本人は特に意識して不満を吐き出しているわけじゃない。
『どうせ何でもできるんでしょ?どうせやってくれないんでしょ?』といった口ぶりではなく、あんまり具体的に確認はしてないけど、まあ順当に考えたらそうだろうね、というぐらいの意味しかない。なんだか肩すかしな感じはする。




