九話①
俺は結局、布団に戻ってからも全然寝つけなかったし、鈍い頭痛もどうやら治まりそうにはなかった。何かをしっかりと考えようとして妥協して、また考えようとしてそれをやめた。
結局今夜は、夢の女が登場してヒントを与えてくれるなんてこともなさそうだ。布団の中で何度も寝返りを打ったり枕を裏返してみたり、もぞもぞうごめいてみたところで俺が何かひらめいたりということはなかった。
何時間もそうしている間にどうやら夜も明けてしまったようで、カーテン越しにかすかな明るさが見え始める。視界が滲んでいるせいで正確に時計の針を捉えられないが、おそらく早朝、五時過ぎかそこらだろう。
階段を下る足音が聞こえてきて、俺はむしろそれによって、今まで遠のいていた眠気を少しばかり呼び戻すことができた。足音に耳を澄ますとどうやらミーシーだというのが分かる。
よく考えると朝飯がない時も早起きだったわけだが、まさかアンミより早かったとは。足音が浴室へ消え、蛇口から水の流れる音がしてそれが止まった。
寝起きのあいつはどんな顔をしているだろう、と思ったが、何の変哲もない普通の振る舞いでガラガラ引き戸を開け、遠慮なくこちらへ歩いてきて何事もないかのように俺を見下ろした。
そして幾分かだけ普段よりは小さな声で「あら早起きね。体調はどうかしら」と何気なく言った。
「おはよう……。体調聞くか?俺の顔をしっかり見てくれ。分かるだろう?」
「顔?……見た目でどうこうといったらずっとそういう顔の人もいるでしょう。ずっとその顔通りの体調とは限らないでしょう」
「顔立ちは、……いつも通りかも知れんな。体調不良で気分が悪そうな顔をしてると思うんだ。気持ち悪い顔をしているつもりはないが、そういう感想はどうでもいいんだ。体調が悪そうだなというくらいは、分かるだろう……」
「私が今見てるのがゾンビシューティングゲームの画面だとしたら一般人かゾンビか判別できないと思うわ。もう仕方ないから迷わず撃つわ」
「…………。判別できないなら迷え。ゾンビじゃなくて俺だという可能性があるだろう。仮に俺がゾンビだったとして寝込んでいる無抵抗なゾンビを撃つな。完全に二日酔いだ。……気持ち悪い。そんな無抵抗な俺を撃つなよ」
「ほらみなさい。だから言ったでしょうに」
「…………。なんか言ってたか?お前から止められた覚えはあんまりないんだが」
「止めてないわ。止めたとは言ってないでしょう?」
またミーシーは予知の中のことと現実を混同しているのかとも思ったが、まさか……、あれか。全然気にしなかった俺が悪いのかも知れないが、黒い女、市倉絵里と会って、家に電話した時の『明後日は気持ち悪いらしい』という予知の結果が『ほらみなさい』なのか……。
体調を確認するまでがノルマであって、実際答えを聞いてどうであろうが、サポート対象外ということなのか……。
「ああ……、そういえば体調を教えてくれと言ったような、……こともあったな。未熟な俺にはお前が薄情者のように見える。違うなら違うと言ってくれ。俺はどうせお前に止めて貰ったとして勝手に酒を飲んで、下手をすれば意地になって飲んで今よりひどい有り様だったかも知れない。お前が俺に対してそんなに意地悪じゃないことも知ってる。もっと、俺にも分かりやすいように優しさを見せてくれ」
「…………はあ。そういうことはバファリンに言いなさい。朝はまだ寒いからソファで待ってる間あなたの布団を借りようと思ったのをやめてあげるわ、優しいでしょう。じゃああなたの優しさも見せなさい」
「そうか……。優しいな。寒いならじゃあ……、布団貸してやろうか?俺の……、今、精一杯のこれは優しさなんだが」
「昨日そのまま寝たでしょう?臭いと思うからいいわ。向こうのストーブの方が温かいのよ」
「一日風呂入らなかっただけで臭くなったりしない。じゃああの年代物のストーブが温かい空気を出すまでの間だけでも布団使ってろ。俺はとりあえずもう一回風呂でも入ってくるから」
寒いなどという弱音は初めて聞いた。朝方もちろん冷え込んではいるわけで、いくら血液循環の良さそうなミーシーであっても寝起きはさすがに寒いんだろう。だが多分、毎朝そうだったとして滅多に言わないようには思う。
優しさを見せ返せと言われてはっと気づいた俺にとってはなんともいえない流れだったが、寒い日の散歩中にそっと自分のコートを羽織らせてやるような紳士ぶりを俺はいつだって胸の奥には秘めている。
半病人の俺が風呂に行くついでにたまたま温まっていた臭い布団を渡すのでは少しばかりロマンも欠けるが現実は理想ほどに格好がつかないというだけで、これもまあ、同じジャンルには分類できるはずだ。
ミーシーは仕方なさそうに掛け布団と毛布を引きずってソファに腰掛け、俺はそれを振り向きざまに一度見て風呂場へと向かった。また追い焚きしてシャワー浴びて歯を磨いて、そうしてる間にはアンミも起きてきて朝食の準備を始めるだろう。
◆
ちょうど俺が風呂から戻るタイミングでハジメがしかめっ面しながら仏間から出てきた。
「あ、おはよ……。んっんぅ、……なんか喉がらっがらなの、なんなの?なんか飲み物ある?」
「お茶ならあるぞ。というか、お前は平気かと思ってたんだが……。お前も二日酔いか?」
「二日酔い?二日酔いて……。あたしはんーな飲んでないでしょ。ご飯食べてちょっと飲んでみただけで……、あんたら美味しそうに飲んでるから」
「ぶっ通しで飲んでただろう……。少なくともお試しみたいなレベルではなかった」
「昼から、あれ……、あたしどうしてたっけ?夕方荷物運んでたのは覚えてんだけど。あっ、記憶飛んだわ、ぽーんて。じゃ、あたし飲んでた?全然記憶ないわ。お酒飲むと忘れるみたいなのはあるじゃん」
「まあ、……あるけど」
俺が一瞬ハジメからミーシーの方へ目線を逸らしたことでか、ハジメはその時ようやくソファの上の布団の固まりの正体に気づいたようだった。「あっ、うわっびっくりした、あんたいたの?なんでいんの?」と大げさに驚いて俺とミーシーとを交互に見る。
「てか、…………?テレビも点けずになんで布団包まってんの?」
「…………。ハジメはもう……。ちょっとは想像しなさい。寒いと言ったら健介に布団に入れと言われたわ。見せ合いっこすることになって、シャワー浴びてくるから布団使って待ってろと言われたわ。そういうのの事後でしょう」
「え、……?、ん、え?下……、着てんの?」
「お前は一体何を心配してるんだ」
「臭いと言ってるのに押しつけられたのよ」
「何をよ?いや言わなくていいけど」
「いや布団をだろう。正常に思考して布団をだろう。こっち見るな」
「こっち、……見るなって、なに、ちょっとちらって見ただけじゃん。いやいやいいのよ別に。あんたら何してたって。てか、ってか、別にあんたが想像してるような変な想像あたしはしてないし」
ハジメが露骨にきょどきょどしているお蔭で俺はむしろ平静を保つことができるわけだが、本当にちゃんと理解しているのかは正直怪しい。
きょどきょどしながら立ち去ろうとするハジメに一応念のため、あらましをもう一度伝えようと後ろについたところでばっとこちらへ振り返り「あっ、布団を押しつけられたってことでしょ。あたしお茶飲むだけだしついてこないで」と、誤解の上にのみ成り立つはずの拒絶を投げつけられてしまった。
「まあ……、分かってるなら良いんだが」
で、それはともかくとして戸棚をガチャガチャ漁って冷蔵庫からお茶を取り出してという動作音が静まってからもハジメが再び動き出すまで少し時間差があったし、あからさまにこっそりという様子で台所を抜けて、出てきた居間からではなくわざわざ別のルートで仏間へと帰っていった。
遮蔽物がまったくないから丸見えなんだが、動きとしてはこっそりしていた。
「誤解は解けたというのに、変なイメージが残ったのかも分からん。……お前のせいで」
「私は元から口下手で誤解を受けやすい性質でしょう?健介が行けば良いと思うわ。しっかり弁解してきたら良いでしょう。でもハジメは多分私が健介の布団に入ったことに嫉妬してるわけでしょう?だからまあ、『本当に好きなのはハジメだからハジメのに入れさせてくれ』とか言えば良いわ」
「…………。いっそハーレムでモテモテで、誤解のせいで嫉妬されていればマンガの主人公みたいなのにな。どうすりゃ良いんだろうな」
「じゃあ主人公になれるようにキャラ立てなさい。そうね、アドバイスをあげましょう。普段きょろきょろ落ち着きなくしているのに、時折唐突にデレるというのが良いと思うわ。きょろデレというのは新しいでしょう。まあ、普段ずっとおどおどしていて、突然デレるというおどデレというのでも良いわ」
「お前はおそらく、ハーレムマンガにはツンデレが出てくるという中途半端なにわか見聞で雑なアドバイスをしている。ツンデレがある程度飽和してきたところで邪道なアイデアの発掘に掛かる悪い大人の見本のようなアドバイスをしている。ツンデレというのは普段つんつんそっけない態度だったりするのにたまに優しくデレて助けてくれるという、そんなギャップにドキリとするものだ。普段きょろきょろしてる奴が突然デレたとしても別に誰も嬉しくない」
「でも、ちょっとは面白いでしょう?」
「仮に面白かったとしてもその要素でモテたりしないだろう。普段頼りないのにいざという時格好良い、とかそういう話ならまあ分からんでもないが」
「そんなこと言ってないわ。私が言ってるのは普段きょろきょろきょろきょろ首が震えてるのにたまにぴたっと止まる奴のことを言ってるのよ」
「…………。デレてるわけですらないだろうそれは。じゃあ、分かった。俺はまあいい。俺のことはどうでもいい。お前もたまにはデレてみたらどうだ?そしたらツンデレだ。お前はかわいいから俺はドキリとする。将来美人だ。すごく頼りになる。俺は恋に落ちる。まあ片思いだが」
「?私がやってもわざとらしいでしょう?」
「納得し掛けたが、いや、そんなことないぞ」
「健介、良いことを教えてあげましょう。そんなキャラを作って、ねえ……、必死になって、仮に愛されてたとしても、それは本当の自分じゃないでしょう。愛されているのは作ったキャラの方でしょう。窮屈な思いをして、息苦しい思いをして、びくびくしながら上辺だけ愛されていたって仕方ないでしょう。ありのままを愛されるように自分を磨く小さな習慣を身につけなさい。ふりなんかではなくて自分にできることをまず見つけなさい。そして、最低最悪の時の自分を愛してくれる人を見つけなさい。インターネットでイケメンを装っても本当の愛は見つからないわ。バレた時哀れでしょう」
「…………。きょろデレとかおどデレを勧めてた奴とは思えない言い様だな。お前の急旋回な会話にちょっと黙ってしまっただろう。元より俺もお前も割合ありのまま生きている。特に文句はない。今後はお前の行動にデレを見出せるようポジティブ思考を磨いていこう」
「まあ、自由に想像してなさい。その努力は色々役に立つでしょう。さあ。私は台所へ行くわ。あなたが湯冷めしないように温めておいてあげたのよ。存分にありがたがりなさい」
「ああ」とだけ、短く返事して放り出された元俺の布団を拾って就寝位置へと戻った。階段から足音が聞こえてきたからアンミがこれから朝食の準備を始めるということだろう。
アンミが……。いや、二人で、朝食の準備をするかも知れない。俺はそれとなくその辺りのことが気になって台所の方を窺っていたわけだが、二人が朝の挨拶を交わした後、ミーシーは椅子を引いて座ってそのまま動く様子もない。
アンミは洗面所で歯磨きして衣類を集めた後、冷蔵庫を開けたり食器棚を開けたり、これから使うであろう鍋やフライパンをジャブジャブと洗い始めた。二人で、協力する様子もない、どころか、思っていたより静かであれこれ注文が出たりもない。
「今日朝御飯何が良い?食べ物が一杯あるからどれから使ったら良いかなと思って」
「傷みやすそうなのから使ったら良いわ。あと、昨日借りパクした本の中から簡単そうなの選んで作ったら良いでしょう。もしアンミが、他に作りたいものがあるならそれにしなさい」
「うん。どうしようかな。昨日みんなに聞いておけば良かった。そういえば健介大丈夫?」
アンミも準備しながらだから、会話の合間を埋めようと努めることもない。ミーシーからアンミへのアドバイスはせいぜいそんなところだった。
傷みやすそうなものをピックアップしてやるとかレシピをすらすら暗唱したりとか、あるいは立ち上がって狭い台所周辺をうろうろしてやることさえしない。
俺は結局布団を被ったまま立ち上がって台所へと顔を出すことにした。ミーシーはただ椅子に座って、おそらくは無感動に、アンミの後ろ姿をじっと見つめているだけだった。




