八話㉝
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『それは解決されていて、今後は続いていくでしょうか?』
「手が痛いよぉ」と、「重いよぉ」と呻きながら、泣きながら、アンミは畑から玄関までバケツをずるずる引きずって運んできた。少し休んで手のひらをさすって、またバケツの取っ手を握って「よいしょ、よいしょ」。
玄関の段差で靴を脱いでずるずるとバケツを引きずって廊下を汚して……、何も順番を考えずに野菜をバケツに入れてあんなに揺らして運んだものだから、折角『熟れていた方の』トマトなんかは元の形も分からないほど潰れていることでしょう。
アンミは多分、そうなってるのを見つけて残念がるでしょう。
そんな有り様でなければ、せめて朝食の中で、トマトくらいは美味しかった。
さすがにその時のことを詳しくまでは思い出せないでしょうけれど、階段の上でため息をついて見ているだけのミーシーも、その時から既に、せめてアンミの何かを、どうにかしてあげたかったに違いない。
わざわざ取っ手に巻きつけておいたタオルも、運ぶ時の用意だと気づかずにわざわざ取り外してしまった。アンミは軍手がどこにあるか探そうともしなかった。誰にも相談せず着替えの用意もせず早朝に出掛けて、見たことのある野菜をちぎって掘って、泥だらけになってバケツを引きずって帰ってきた。
朝御飯を作ろうと思ったのでしょう。一人で出掛けるアンミについていって教えてあげるべきだったのかも知れない。
一言、『アンミは上手くできないわ』と教えてあげれば、そうしたらアンミは、少なくとも少しの間だけは諦めてくれた。
優しく諭して、慰めて抱きしめてあげても良かった。…………。
もしも。
……抱きしめてあげられたのかも知れない、もしもミーシーが、『嬉しそうにおままごとを始めるアンミの姿を知るだけで十分だった』のなら。
ミーシーが、『予知能力者でなければ』、あるいはそうであったとして『彼女を注意深く見守るという選択をしなかったのなら』、『いつも彼女の助けになれるよう、備えてさえいなければ』、『その時にこそ、手を差し伸べていた』、『そしてそれを離すことはなかった』。
そんなことは、とても簡単なのだから、アンミは、普通であれば、その失敗をあらかじめたしなめられて、そしておじいちゃんとお父さんと、ミーシーとを誘って、食べ頃の野菜を見つける方法と、それらの正しい調理の方法を学ぶことができた。
ミーシーはもちろん、アンミにそうあって欲しいと願っていた。けれども果たして、そうしなかった理由がある。
その時に、手を差し伸べなかった理由がある。
いくつかを見比べていたら、少なくともその時、アンミを引き止めることなどできなかった。ただ仕方なく、塩水に浮かんだ粉々の生野菜を、どうすればもっと美味しくできたかアンミが気づくように、「とても不味いわ」と教えてあげることしかできない。
バケツの持ち方も、その内スイラが教えてあげれば良かった。
とにかくアンミは、この時、料理を作りたがった。
できることなら、美味しい料理を、一人で作りたがった。
真っ当に考えるなら、これは、失敗というより、危なげでたどたどしいながらもアンミなりの最初の一歩ではあった。
アンミが自分に願うあり方を求めたのだから、結局のところ、どうにかして変えられるようなものではなかったのでしょう。
アンミは、セラやスイラ、ミーシーに、料理を作ってあげたかった。けれどミーシーはそれを、今になって後悔する。
どうにもならなかったのに、今になってそれを咎めなかったことを、引き止めなかったことを、……抱きしめなかったことを、後悔する。
『あなたがアンミの幸せを願うのなら、とても慎重に、あるままと、その奥にある本当を見ていなくてはならない』
◆
起き上がって目を凝らすと、時計は十一時を過ぎたくらいを指していた。肩から腕までの冷え方が尋常じゃないし、頭痛と悪寒がひどいし、とにかく風呂に入って歯を磨こうと思った。
みんな寝ている時間だろうからのそのそ立ち上がって肩を抱きながら風呂場へと向かう。深呼吸を繰り返さないと気持ち悪さで倒れそうだ。服を脱いで浴室へ入るとお湯はちゃんと残されていた。
さすがに湯船の温度は下がっていたから追い焚きして、歯ブラシをくわえながら縮めた体を顎先まで沈めて熱を充填し呼吸を整える。このまま寝ても良いくらいだ。
「寒かった……。おっさんと陽太は無事なんだろうか。おっさんは、……一緒に帰ってきてるから大丈夫だと思うが陽太ちゃんと帰ってるよな……。やっぱり酒はダメだな、やめた方が良い」
シャワーが程よい温度になったことを確認して頭から被り、口をゆすいだ後に、お湯を溜めて飲み込む。体中の毒がそれで少しばかりは薄まるような気がした。
あとはもう湯冷めしないように完全に温まるのを待って今日一日は完全安静で最悪昼まででも寝たまま回復を待たなくてはならない。
試したことはないが、あまりにこの感じが長引くようなら胃腸薬と頭痛薬を組み合わせて二日酔いに効果があるかやってみても良い。
それでもダメならちゃんとした二日酔いの薬が必要になるが、……まあ少なくとも……、今より悪化するようなことはないだろう。
風邪引いたりとかそういった負の螺旋に巻き込まれさえしなければきっと回復する。十分程度も浸かっていると、額からも汗が出てきて、肩も腕も幾分かはほぐれてきた。このままこうしていたとしてこれ以上は望めないから、さっと体を拭いて着替えをして毛布に包まろう。
「ん、ああ。どうしような……」
あんまり意味はないかも分からんが陽太に一応メールかなんか入れておこうかと思った。一応電話番号でメールできるだろうし、もし起きてればだが早い段階で安否確認もできる。
脱ぎ捨てたズボンから携帯を取り出して画面を開くと、一件着信履歴があった。そして、伝言メッセージが録音されている。時間はおそらく祝賀会の最中で、少なくとも俺が布団に入るより前だ。多分だが、俺がミナコに呼び出されて家に着いて眠ったすぐ後くらいだろう。
特に躊躇することもなく、何ら警戒することもなく、伝言メッセージを再生して携帯を耳に当てた。
「では健介。目を瞑って空を見てください。夜、いくつも星が瞬いている。何も知らない昔の人々はこれらを線で結びます」
こう呼び掛けてこう話す声を、俺はもちろんよく知っているわけだが、……これを、『ミナコの声』だと判断するために、俺はその一区切りを待った。
まず、明るさがない。表情がない。優しさがない。だから、今聞こえている声は、まるでミナコの偽物が俺を騙そうと演技しているのではないかと思った。
声の主は、名乗っていないのだから、まず俺自身がそもそもそれをミナコの声だと分かっているはずなのに、顔写真をカラーコピーしただけの出来の悪いお面を被った何者かが、不気味に表情もなく俺を欺こうとしているんじゃないかと疑った。
「もし仮に、それらが隣り合っているように見えたとして、重なるように見えたとして、実際には遠く遠く離れている上隣り合うように見えることでお互いへの影響などありません。はっきりと個別にそこにあって、それに合う名前が付けられている。何も知らずに、よく調べもせず、そして遠い場所から眺めて、それが近くにあると勘違いをする。間にいくつの星があるのか数えることをしない。『私は』、『健介とアンミちゃんが』、『一緒に行動するであろうことを』『ずっと前から』『知っていた』。『ミーシーちゃんが』『アンミちゃんを連れて』『ここを訪れるであろうことを』『知っていた』。『私は』『アンミちゃんを追っている』。でなければ、まだ東京にいたでしょうし、もしかするとまだドイツにいたかも知れない。わざわざこう言わなければならないことは非常に不本意ですが、アンミちゃんを目的として健介を訪ねる者が出てくるかも知れない。また後で、このことについて話しましょう」
もしかするとまだ続きがあったのかも知れない。ただ耳元から遠ざかる時に微かに再生の終了音が聞こえたような気がした。
とにかく俺は、…………。俺はどうやってこれを削除するんだろうと色々操作して、そしてそのメッセージが消えたことを何度か操作して確認した。続けて、そのメッセージが、一体何を意味しているのかをよく考え始める。
いや、考えるも何も、俺が今何を気にしているかといえば、このメッセージをミーシーが聞いた可能性があるかどうかという部分だ。これは性質の悪いイタズラなのかも知れないし、ほら、考え方を変えれば、……前向きな別視点で聞いていたら、アンミとミーシーと一緒にアルバイトをやろうと思うという、そういう、その、少し日本語がおかしいというだけで、そんな受け取り方だってできないことはない。
できないことは、……なかった、よな。
ただ、ミーシーが聞いていて、万一ミナコが……。ミナコが何だったら……。そうじゃない。
このメッセージの真意は後で確かめれば良いことだ。体の熱はまだ冷えきってない。とにかく、ミーシーの靴があるかどうかを、見にいかなくちゃならない。
俺はそっと玄関まで歩いて一瞬だけ明かりを点けて、ミーシーの靴、アンミの靴、それからおっさん、ハジメ、ナナ、俺の靴があることを確認した。
……良かった。ほら見ろ。ということはだ、……俺は、安心して寝られる。
……良かった。陽太にちゃんと家に着いたかとだけメールして、ナナとハジメが用意してくれた布団に包まって、また朝までゆっくり休めば良い。
第八話『私が、全部探すよ』
I'll look for them all. But maybe you could find your flowers in another place.




