八話㉒
「すまん。携帯が鳴る。すまんちょっと、電話に……」
「ええっ、携帯が鳴ったからって止める人いなくなったらどうすんの、陽ちゃんとか。歌、歌っちゃってるんだけど、これ僕が止めるの?」
「歌は良いと思うのだが、店長がおっきくなるのは誰が止めるのだ。くぅぅっ、仕方ないのだ。ここは俺がなんとかするから、健介は先に行ってくれ。店長がちっちゃくなるように今一生懸命念を送っているのだ。ちっちゃく、ちっちゃい萌えキャラになーれ、……ならんか、くそぉ、無理かぁ。無理だなぁ……。まあ無理だとは思ってたのだが」
「ざんねん、なりませんでしたー。僕が萌えキャラとかになったらもうそれは相当大したもんだよ。もう第二の人生だよ。いいよいいよ、健ちゃん。気にせず電話出て?酔っぱらいの相手は僕の方に任せておいてさっ」
「……じゃ、じゃあ、ちょっとすみません。お願いします」
あっ、そうか。もしかして市倉絵里か?そうなるとあんまり気が進まないが、場合によっては出なきゃならんな……。
とりあえず席を立ち、少し歩きながら後ろを少し警戒しつつ着信画面を見た。途端に安心感で一杯になって、大きく息を吸い込んで一つ吐く。
画面にはミナコの名前が表示されていて、俺はすぐに受話ボタンに触れて携帯を耳に当てた。
「健介は今、どこにいますか?」
要するに……、一言で言うと……、『ちょっと会いましょう』と、いうことだった。
用件だけを要約すると大体そんな内容の電話だった。俺がわざわざ通話終了後、着信履歴にミナコの名前があることを確認したのは、その会話がどうにも淡々とした事務調子な上、普段のミナコからは見つけようがないような、攻撃的な言葉の言い回しが多かったからだ。とにかく強引でしかも理由を答えようとしない。
「今ちょっと出掛けてるんだがどうしてだ?」と聞けば、「どうしてもそうしたいです」と答える。
「陽太も一緒だしむしろこっちに合流しないか?」と聞けば「健介に、今用があります」と答えた。
「電話でじゃなくてか……?」「電話ではなく」「陽太もいるが声は掛けないのか?」「健介と二人で会うという希望です」
俺は他にもいくつか質問を繰り出したわけだが、いまいち要領を得ないちぐはぐなやり取りになってしまう。途端に黙り込んでみたり、いきなりこちらの言葉の揚げ足を取ったり、もしかすると酒に酔った俺のへにゃへにゃ声が気に食わなかったのかも知れないし、珍しいことに何か別件でイライラしている最中なのかも知れない。
何故今、俺とだけ会う必要があるのか、その理由を尋ねようにも埒があかないし、何かしら真剣な話だというなら、ここを抜け出してミナコの話を聞くのもやぶさかというわけじゃないが。……急を要する何かが起こったりなんてことあるだろうか。
電話で先に概要だけでも伝えてくれれば良いものだろうに、タイミングは仕方ないにしろ、要領も良くない。思い当たることもないまま変にこちらがそわそわしてしまう。慌てているのに、慌てていないように平静を努めてああだったのか、直接会って話を聞くまではなんともいえない。
店長にだけ少し抜けますと伝えて、特に引き止められることもなく、俺は公園の方面へ歩き出した。陽太抜きで二人でというのは一体どんな理由からなのか。
今まで特に大した理由もなくミナコと二人きりになることは何度もあったが、もちろん、そのほとんどは『陽太がいても別に構わない』状況だった。陽太に関わる困り事だったりするだろうか。
陽太が抱き枕を作ってくれないのをどうにかできないか、とか、陽太から難しい要望が出たけどどうすれば良いか、とか。珍しいには珍しいが、そういうことが今まで全くなかったわけじゃない。
多分色々あったにはあった。陽太について相談を受けたことがあったろうし、……逆に陽太は、俺がどうのという話を持ち掛けられたことがあるかも知れない。
俺が受けた相談やらが大して記憶に残らないのは、多分きっと、今までのミナコのそんなのは全くの杞憂に過ぎなくて、何一つ不安になる要素など元からなくて、俺たちが変わらず仲の良いお友達でいられるという結論以外に、一度たりとも、傾くことさえなかったからだ。
◆
『例えば、陽太について、相談を受けることがあった』
ミナコは、いやに恭しく朝の挨拶をして、「ご機嫌はいかがでしょうか?」と俺に聞いて、その後に一人の紳士に目線を送った。
……地味な身なりを、わざと心掛けているかのような、それでいて上流階級の品位を放つ老紳士が、一人、ミナコの後ろに立っている。
それをミナコは、日曜日の早朝の寝ぼけた俺に特に前触れもなく、「昭一おじいちゃんです」と紹介した。続けざまに礼儀正しい格好を装うために頑張った様子でミナコもわざわざ……、全く必要のない自己紹介をしてみせた。「峰岸ミナコです」と。
……いや、知っている。お前のことは知っている。俺は茶番に付き合うわけでもなく、全くの無言のまま、その老紳士の佇まいに見とれていた。
癖のないさらさらで灰色の髪が程よく自然に左右に分けられていた。べたつくワックスで固めていたりもしないし、ましてハゲていたりもしない。
あと、その口ヒゲがおじいちゃんらしさというのを高めているんだろうか。これも下手をすると付けヒゲなのではないかと疑うくらいに整えられていて、下地の肌をちょうど覆うように工夫されているんだろうなと思った。
伸ばすとヒゲも柔らかくなるもんなんだろうか。伸び過ぎて跳ねているヒゲもなく、両方の口角で綺麗に納められている。
そして黒い縁の眼鏡を掛けていた。眼鏡の奥の優しい瞳を細めて、「この子の、おじいちゃんの、峰岸昭一です」と短くゆったりと俺に伝えた。
その声の温度は、あるいは姿や振る舞いさえまさしく俺にとって恐ろしいほどに理想のおじいちゃん像そのままで、俺は挨拶を返す余裕もなくその佇まいに見とれている。
「お友達と、どこかへ出掛けてみないかと私が誘ってみたんだ」と、おじいちゃんは言う。孫と、その孫の友人と出掛けられることこそが、この世で最上の喜びであるかのように、幸せのオーラを纏い人々の心を癒す、そんなおじいちゃんだった。
ついでに言うと、そういった穏やかな空気であったり穏やかな表情であったり、穏やかな振る舞いであったり、……とにかくミナコには、そのおじいちゃんの系譜を引き継いでいる要素らしきものは、残念ながら一つも見つけられない。
そして割とどうでもいいことではあるがどうやらミナコは、このおじいちゃんに対してか、あるいは家族に対してか、……こう、まあ、どうなのか、しっかりと礼儀正しい子に見られたい、ようではある。
『僕』……、ではなく、『私』なんて一人称をいきなり使い出すものだから、文法や意味も置き去りに、普通女の子が使う一人称について考え込んで会話が途切れた。
『よく考えると私というのが正しいな』と思うくらいには、ミナコの一人称『僕』というのに馴染んでいる。多分最初に会った時からそうだったし、その時ですら、変な奴だから一人称が僕でもおかしくないと思っていた。
そんなわけで『僕』の方がしっくりくるわけだが、一応、ミナコも、女の子は『私』を使うのが普通だと、知ってはいるみたいだった。ちゃんとした女の子というのは一人称に『私』を使う、というのを分かっていて、で、何故か家の外ではそうじゃないのか。
もしかすると厳しい家庭で育てられて、そのせいで何かが少し、ハジけてしまったという、そういう部分があるのかも知れない。車内でも服装や言葉遣い、寝癖がないかをいちいち俺に小声で確認してきたりした。
確かに、いつもより、髪型などは整えられているようにも感じた。
ちなみに陽太は何故か助手席に座っていたし、しばらくおじいちゃんと世間話をした後に座席を倒して熟睡し始めた。陽太などウトウトする前までおそらく初対面であろう人の家のおじいちゃんを我が物顔でおじいちゃんおじいちゃん呼んで、おじいちゃんに対してはそうするべきだとでも感じていたのかなんか昔話をせびっていた。
それが伝染ってか素で間違えたのか俺までおじいちゃん呼ばわりして目的地と到着時間を尋ねようとしてしまった。
「おじいちゃん、あの……」慌てて「失礼しました」と訂正したが、驚いた様子も呆れた様子もなく怒るでもなく諭すでもなく、「おじいちゃんと呼んで貰えることが、これほど嬉しいとは思わなかった」とバックミラー越しの俺に一度視線を向けて微笑んだ。
そのついでになってしまったわけだが、どうやら目的地は隣の県の植物園で、まだ時間は掛かるからゆっくり眠ってくれて良いとも聞く。俺は陽太のお蔭で、折角誘って貰って運転して貰っておきながら寝てる、というのが大層不格好であることは分かっていた。
ミナコはミナコで膝に手を置いて顎を引いて、まっすぐおじいちゃんの方を見ている。凍りついているかのような不自然な格好のままで、「良い姿勢をしています」と俺にだけ聞こえるようにか小声で言った。
車が左に曲がるとそのままの姿勢で耐えきれなかったのかゴツンと窓ガラスに頭を打って、それを気づかれていないかを首をすくめて確認していた。
そんな調子で緊張気味なミナコのために、気の置けない話し相手を申し出て小声の身だしなみ確認に適当に付き合ってやると、まあ少しは、気が楽になったんだろう。ずるずると背もたれから少しずつずり落ちて、結局だらしない格好で落ち着いた。
それはもしかすると、バックミラーから見えないように隠れたつもりなのかも知れない。ただしそれによって、折角確認を済ませた服にシワが寄ったり髪が跳ねたりしそうではあった。
このおじいちゃんが、そんなことを咎めたりしないだろうが、ああ、まあただ……、ミナコの気持ちも分からなくもないか。恥ずかしくないように振る舞いたくなるほどに、おじいちゃんは背筋も伸びていて、とても堂々とまっすぐに前を向いていた。
俺にとってそれは単に憧れで済むことだろうが、身内であるミナコにとっては並べて比べられたら大変だと、そう気を張っているのかも分からん。服にホコリがついていないか腕をひっくり返してみたり、腹の部分を引っ張ってみたり、毛が跳ねていないかを気にして頭を両手で押さえてみたり、そうしてる方がよほど挙動不審ではあるが、一応気持ちは分かる。
目的地に到着すると陽太は目覚めて最初におじいちゃんを連れションに誘って、おじいちゃんはやはり微笑みを絶やさずにそれについていった。「先に行ってくれて構わないよ。この道をまっすぐ進んで入り口で待っていてくれると良い」ということで、ミナコと俺とで歩いていくことになった。
そこでようやく一息と言わんばかりにミナコは何度も深呼吸を繰り返していた。
明かりに照らされると良く分かるが、元々色白だったミナコの顔面は、正直気味悪いほどに血色が悪くて、あと、こういうのを焦点が合っていないと、いうんだろうか。
焦点があっていないというか、俺の方を向いて俺と会話しているにも拘らず、俺の遥か後方を眺めているかのように目と目が合った感じがしない。歩くペースは俺に合わせるつもりがまるでなく速い。仕方なしに隣を歩いている俺にわざとかと思えるほど何度も何度もぶつかってきたりもした。
で、俺が何歩か下がるとそのまま数歩はふらふら横揺れしながら歩き続け話し続け、そして俺がいないことにはっと気づいて左右をきょろきょろ探し始める。さすがに俺もちょっと様子がおかしいことに気づいて「どうかしたのか?」と聞いた。
続けて何度か質問を変えると寝不足であるということは分かった。単なる寝不足、とはいえ、ここまできびきび動いている様子を見ると、体調が悪いようには見えない。
どちらかといえば危ない薬を間違って服用していないかと不安になってくる。はっきりとした口調で意味不明な回答をしたり、あるいは二つ三つ前の話題にいきなりトリップしたりした。
ただし、左右に揺れてはいるものの背筋は伸ばして歩いているし、はっきりと、声を出して話をしている。
「ああ、はいっ。そうです。相当におそらく睡眠は不足しています。ここ最近寝る方法が分からなくなってきました。寝てても夢を見るので起きてても一緒なような気がしている。起きていても幻覚かどうか判別できないので起きてて良い気がしている」
「………寝てくれ」
「……寝てくれと言われましても。では健介は寝てくれと言われて寝てくれますか?」
理由はともかくミナコは、寝不足だった。もしかするとこのお出掛けのことを思いついて遠足前の小学生のように眠れなかったという可能性もある。
とすれば、『ここ最近』とミナコが言うのだから、少なくとも数日前からお出掛けプランというのはもう出来上がっていたのかも知れない。俺がそれを知らされたのはまさに当日今日の朝だったし、出掛け先に至っては車に乗せられてからようやく聞いた。
それならそれで前もって連絡してくれれば良かったろうに、そんな話は一切聞いていない。
「寝る努力はしてみてくれ。体調が悪いということだろう」
「そういえば、髪型が変じゃない、寝癖がないという話の時に、健介はこう言いました。『だが、髪が長くて暑くないだろうか』。私は……、僕は健介が気にしているところを解決してあげないとならないのでは?」
「僕、……ようやく、そうか。その話題は多分一時間くらい前に終わった気がしてたし、お前が髪型が変じゃないかと聞くから変じゃないぞと言った上で、暑苦しくないなら似合ってるし良いと思う、と付け加えた。俺のせいで切ったり切らなかったりというのはやめてくれ。お前の自由にしててくれ。あまりに突飛な髪形だったりいきなり髪を切ったりしたら指摘はするかも知れないが、好きにしてくれるのが良い」
「健介は、髪の毛を切るのが勿体ないと思ったことはありませんか?今この辺りがおじいちゃんに撫でて貰った位置だと思います。お父さんに撫でて貰った場所はもうおそらく灰になって地球のどこかを彷徨っています。その頃はまたすぐ誉められるさと思っていてあんまり深く考えずに切ってしまいましたので」
「お前、随分長いこと誉めて貰ってないな……」
「健介はそしたら何か何でもいいので誉めて撫でてくれたらそこは残す。長いと確かに邪魔になることがあるので、暑いということもあるので、ある程度そういうものが貯まれば切っても良い頃かも知れない。どうでしょう?誉めたりしますか?」
俺は、誉めるべきところを少し考えてみた。ミナコは俺の言葉を一応ミナコなりに額面通り受け取ることだろうし、茶化す陽太が不在となるとこれは相当、本気で取り組むとすればかなり気恥ずかしい局面ではあった。
「いくつもある。…………。いくつもいくつもあって、ただどうやってな、言葉にして良いのかは分からん」
「いくつかありますか?」
「俺は言葉にならないお前の魂みたいなものを誉めてやりたいな。顔とか、を誉めようか、性格も誉めようか、あるいは普通にお前の才能を誉めるのもそりゃそうだろうが、でも大事なところはそこじゃなくて、きっとお前がいるだけでこうして時間の進みが少し変わるような、そういうところなんだろうな。ああ」
「それは誉めている?僕は今誉められていますか?」
「誉めてやる。さすがだ。言葉にならない色々が俺を癒してくれて、それはきっとお前のお蔭なんだろう。ありがたいな」
ミナコの視線の方向はこちらに向いていたが、きちんと目と目が合っているような感覚はなかった。だからこそ俺は気恥ずかしさはあまり感じなかったし、割とロマンティックな台詞を正面からミナコに伝えて頭のてっぺんを撫でてやることができた。
もしかしてそういうロマンティックな台詞のついでに抱きしめることもできたかも知れないが、別にこう、特に抱きしめたいとか抱きしめようとかそんな気持ちには全然ならなかったから、そのままミナコの顔を、表情の変化をじっくりと眺めることができた。
ぱちぱち、ぱちぱち、瞬きを二つセットで二回した。唇をもごもご動かして頬を少し上げる。そして、一秒や二秒のラグがあったにせよ、いつものように笑顔を浮かべた。




