八話⑦
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意識もはっきりしないまま、俺は操られるようにベッドから起き上がった。目も瞑ったまま、展望もないままに。不思議と、嫌な感じはしなかった。操られているというよりむしろ、親切な人に、手を引いて貰っているようにも感じられた。
目も瞑ったまま、『親切な人が』、『案内をしてくれる』と言うものだから、俺はそれに任せて、手だけ引いて貰っている。
俺などを引き連れてだとさぞや焦れったいだろうに、たった一歩を進むのを待ってくれて、その一歩すら危ういのなら、いつでも休んで構わないというふうで……、俺が坂道で転げることを心配しているのか、わざわざ遠回りをしてくれているようだった。
それはまあ、優しさではあるんだろうが、そこまで過保護に扱ってくれなくて良い。その『女性』は俺が多少つらくなったとしてもさっさと「ここです」と俺を引きずるようにして連れていくべきだ。
何故なら、俺が、そこへ連れていってくれと、頼んだんだから。
本を読めと言われたな。ぼんやりしたまま椅子に腰掛けて、……本、本か。読み終えた本は何冊もあるが、今なら暗黒ブックの呪いからも守られているような気がした。
こんな穏やかな気分なら、さしてビビることもなく読了できるだろう。スタンドライトを点けて、本を広げてクリップを抜き取り、ゆっくりと、じっくりと、読み上げるようなペースで文字を流した。
ライトが明る過ぎてページは白く滲んでいたが、それも大して気にせずすんなりと、最後のページを捲る。
「……終わった。どうして俺は本読んでるんだ?」
もう分かりきっていたことだが、結局、最後の最後で驚くようなどんでん返しが起こったり、第二第三の事件が詳しく説明されたりなどはしなかった。こうして読み終えてみればやはり、構成が読者を戸惑わせるというより、そもそも、物語自体が破綻していると、結論付けるのが妥当だろう。
暗黒ブックは……、おそらく悪ふざけで……、悪ふざけにしては分厚い本を書くな。どうしたって読後感は悪い。ペンネームなど好き勝手変えられるものなのかも知れないが、俺は二度とこの作家の本は買わないだろう。なのにどうして、書店で、俺が手に取れるような場所に、この本が置かれるのか。
「……いや?」
待て……。こんなおかしな本があるか?こんなおかしな本を書く奴がいて、こんなおかしな本が出版されて、こんなおかしな本が書店に堂々と並んでいたりするか?
俺は何か、勘違い、していないか。何かおかしいと思っていることを、その内解決するだろうとか適当に決めつけていなかったか?でなければ、夢の女から本を読むよう勧められるはずがない。
この本が、おかしくなったのは、俺が二人と出会った日じゃなかったか。それまでは普通に読んでいて、苦手意識を持っていたりしなかった。物語の構成にケチがつき始めたのは、俺が二人と出会って以降のことだ。
つまり可能性として、俺がその日その時の寝てる時なんかに、ミーシーがクリップの位置を入れ換えて意地悪をしたり、……アンミがうっかり本を落として慌ててクリップを適当なとこに差し込んだりということも、あり得ない話じゃない。
クリップを目印にして続きから読み始めたつもりだったし、俺はその日も、何枚か遡って区切りの良い場所から読み直そうとはした。
もしも忘れているとしてもだ、それは単に重要箇所じゃなかったからだと思い込んで、階下のことをそわそわと気にしながら、何枚か捲ってまたクリップを留めた。結果、わけの分からん本を最後まで読んだ。
まだ冷えたままの指でページをパララと捲って、指を何本も差し込みながら、物語を遡ってみる。俺はそこでようやく、一つに気づく。
「…………。読んで、なくないか。船長が投獄されてから……、こんな、少なくともこの夫妻の回想編は、読んでない」
解決だろうか……。いや、違う。そうじゃない。俺は多分この不気味な違和感を、どこか別の場所でも見つけていたはずだ。えっと、なんだっけ、なんだったか……。
ゆっくりで良い、一つずつで良い。本は俺の部屋に置いてあって、何者かが、クリップの位置を入れ換えた。それ自体はせいぜい、俺の読書の邪魔にしかなっていないが、何かを、引きずっていないか。
この糸を切らないようにだけ気をつけて少しずつ手繰り寄せれば、その重さの、原因が分かる。
俺が左手で自分の頭を掴んで一生懸命考え事をしていると、夜中にも拘らず、階下からバタンという扉の開閉音らしきものが聞こえてきた。音の具合から察するにおそらく冷蔵庫なんだろうが、さすがにこんな時間に料理を始める人間がいるとは思えない。
トイレや洗面所のドアなら分かるが……、冷蔵庫だろう。集中力が切れた、一からやり直しだ、と思ったらまた、パタンと幾分か控えめに、冷蔵庫を閉める音がした。
「…………」
俺の邪魔をしてるんだろうか。だとすれば、その犯人というのも気になる。とりあえず考え事は置いておいて、下が何事か確認することにしよう。さすがに風で冷蔵庫は開いたり閉まったりはしないだろうから、階下で誰かが、何かをしている。怪奇現象という可能性もあるが……。
そういえば、俺は初日にもこんなふうに、階段をゆっくりと忍び足で下りた。今回についてはなんとなく根拠もなしにハジメであるような気はしている。ハジメは自分で招き入れた客人だし、腹が減れば冷蔵庫をパタパタやりそうな面構えではあった。
夜中にお腹が空いて徘徊することもあるだろう。であるから、ゆっくりと階段を下ってはいるものの、そう疑問や不安があるわけじゃない。俺が……、アンミとミーシーに抱いた疑問というのはおそらく、全て魔法だったという話で解決できるものだったが……、だったとは思うが、店のこと、交通事故のこと、いつの間にか俺の家に上がり込んでいた二人のことを、少なくとも当時の俺は冷静に整理することなどできなかった。
「お腹が空いたのか?」
「…………」
驚かす意図は全くなかったが、声を掛けられたハジメはびくんと肩を震わせ、首を半分ほど勢いよくこちらへ振り、続いてピグモンポーズで硬直した体を捻った。
突然声を掛けられて、……びっくりして硬直しているのか、あるいは元からハジメのスタンダードなポーズがそれだったのかは分からないが、ハジメは何を言うわけでもなくピグモンのまま動かない。
「なんで夜中にパタパタやってる……?のかなと、思っただけなんだが。すまんな、なんか驚かせたかも分からん」
「あっ、あの、えとー、だってあんたさっき家のもの勝手に使って良いって言ってたから」
「いや、良いが。さっき?って昨日のこと言ってるのか?お腹が空いたのかと聞いても返事しなかったろう。なんか冷蔵庫をパタパタする他の意図があるのか聞いてみようと思っただけだ。別に勝手に触るなと言ってるわけじゃない」
「ああ、そう。いやあ、アンミに夜食をその、作って貰おうかと思ってたんだけど、あんまり残ってないしやっぱいいやって」
「四時だぞ。要するに腹が減ったってことだろう。…………。ということはあれか?お腹空いたなあと思って冷蔵庫開けて、材料少ないからやめようと一旦諦めて……、だがもしかするとさっき開けた時の記憶は勘違いで何かあったのかもともう一回開けたのか?いや、一回開けてなかったらないだろう。よく分からん奴だな」
「急になんか。晩御飯食べたっけって思って。……てか、再確認してみただけでしょ」
「いや、アンミが朝飯作る時に食材が消えてたら困るかも知れんだろう。まあ、今回はじゃあ、レトルトで我慢したらどうだ?カレーがある。ご飯もチンしてできるやつがある。お前はレトルトのカレーでも文句ないか?」
「文句?なんでよ?目茶苦茶不味いやつとかじゃなければ何でもいいんだけど」
…………。雨の日の買い物から食材は追加されてない。人数も増えたし、そろそろ補充が必要になるだろう。
「なあ、……ミーシーは、カレーかレトルトか、どっちか嫌いだったりするか?」
「……ん?ミーシーが?食べ物の好き嫌いないでしょ。気分じゃないとかは言うけど」
こうして戸棚を開けてみて、またも小さな謎を発見する。……食材は、よく考えてみるとその時買い物に行かずとも残ってる、はずだと、思うんだが。どうだったか。ちょっと確信がない。
……ただ、俺が今手を伸ばそうとした『件のレトルトのカレー』のパッケージに関してだけは、こう、印字されていなければおかしい。……『北海道限定スペシャルカレー』とかそういう感じのものが。
つい先日陽太の家で、俺はパッケージを見てる。箱には北海道の文字が足されているはずだ。が、なのに、戸棚の中のこれには、あるべき文字がない。
店長のお土産が、普通のレトルトカレーに、すり替えられている。
「…………?」
食べたのなら、食べたで構わない。正直なところ、惜しいと思っているわけじゃないから、腹を減らしたハジメに提供する。だから何も、勝手に食べたとしても、俺はそれを咎めることもないはずだ。
なのにどうしてこんな隠蔽工作が必要なのか。
すり替えたのは、多分ミーシーだろう。買い物の直前に、俺がレトルトカレーを取り出すのを嫌がっていたのだから、その時点で、元々あったレトルトカレーはなくなっていたのかも知れない。
三日目の買い物の時、ミーシーはどれくらい荷物を持っていたか……、これもちょっと、よく覚えてない。俺が二人の食事メニューを知らないのは、初日の昼御飯と、二日目の朝御飯と、……、どうだろう、それ以降というと、ミナコと会っていた五日目くらいのものだ。
隠れて夜食でも食べてたんだろうか。で、俺がそれに余計なことを言ったとすると、この誤魔化しには説明がつくが。
「え、何で固まってんの?カレー作ってくれるってことじゃないの?」
「ああ。ほれ、一個で良いのか?三つあるが……」
「あんたも食べたら?」
「ちょっと考え事しててな。少しの間で良いから、集中させてくれ。お前の飯の邪魔になるかも知れないが、今部屋に戻ると全部忘れそうな気がしてる。一旦考えるのをやめたら、気にしなくなりそうな気がして……」
気にしなくなる、というよりは、不安に思わなく、させられてしまいそうだ。
「ふぅん、良いけど」
……一週間前か。二人と会って、その日の夜には陽太に電話をした。店長はこの時フランス旅行中で、エッフェル塔を見ながら多分、新しい備品なんかを物色してたんだろう。
「ねぇ、あんたさ。あたしのこと怖かったりしないわけ?」
「…………。お前の少しだけは本当に少しだけだな。なんだ、ピグモンポーズは実は幽霊の真似だったりしたのか?」
「ピグモン?」
どうやらハジメは『ピグモン』のことを知らなかったようで、「あんた、もしかしてポケモンのこと間違ってピグモンとか言ってんの?」と半笑いで馬鹿にされてしまった。
「いるんだ、ピグモンというのが。こういう格好してたろう?」
「ふぅん。してたっけ?あたしが?まあ、そんなのどうでもいいんだけどさ。いきなり家来て住ませてくれって普通おかしいとか思うんじゃない?」
「割とおかしいのかもな。とはいえ、今回は保護者同伴だろう。そこまで気にしてない。おっさんが責任取ると言ってるわけだから」
「そういうこと聞いてんじゃないんだけど、へえ。じゃあ今回はそうでも、アンミとミーシーも平気なわけ?」
「いや、そっちに関しては、最初に二人が家に来た時点で、もう借りがあった。今そういうことは言い出したくないし、アンミにも気にするなと言われたが、少なくともその日に出てけなんてことは言えなかったろう。まあ結局、その後も、飯を用意してくれて、理由を聞いてもミーシーにははぐらかされて……、なんだろう。一週間も一緒にいるとな、今更この家にいる不自然さなど出てこない。お前もナナも、……まあお前は不本意だったかも知れないけどな、俺が断っても困ったろう?で、まあ、それもその内慣れて不思議に思わなくなるものだ」
「ふぅん。慣れとか、あんの?借りって言うけど……。でさあ、そういえばあんたその、アンミと一緒にいる期間なんで一週間てことにしてんの?」
「……?時間単位の細かい話か?」




