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AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
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八話⑥


◆『行かないで、と、言えば良かった』


 南重学園の初等教育校では、入園試験の成績を合格者名簿と照合することは原則として禁止されている。


 同名の子がいる場合には話し合いが設けられることにはなっていたけれど、それ以外、例えば成績や得意科目でクラス分けを行うことはしなかった。


 解答用紙の右上に印字されているのは受験者番号だけであったし、合格者名簿に氏名の記載はあるものの、教員は入園式の直前まで自分が担当する生徒が誰なのかを知らされることはない。入園前の生徒に先入観を持たないよう、そんな決まり事ができたのだろうと思った。


 ただし、合格発表から入園式までの間に、誰の解答用紙か分からない状態で回覧することは、多くの教員の間では慣例的な行事になっている。


 もちろん全員がそうしているわけではなかったし、先生によってその目的もそれぞれだとは思う。その年の生徒の傾向を見たいという方もいたでしょうし、純粋に生徒の解答に興味を持っている方もいた。教材の参考にすることもできる。


 特に深い意図があったわけではないものの、私も解答用紙を一枚ずつ、じっくり眺める一人だった。


 けれど、そうしたことをすると、これはおそらく私だけではなく、何人もの先生が経験することではあるのでしょうけど、入園後に何度かのテストを行うと……、『入園試験の、あの解答用紙はこの子だったのね』と、気づいてしまうことがある。


 緒方マナは、私が確信を持ってそれに気づいた内の一人だった。


 入園試験では、一千点中、九百二十二点だった。忘れようとして忘れられるものでもなかったのか、点数までもはっきりと思い出せる。というのはあくまで、科目ごとの点数を計算するのがとても簡単な解答用紙だったからなのかも知れない。


 そして私自身が、その解答用紙に、強く興味を惹かれてしまっていた。聞かされていた合格者の平均得点よりも随分と高い。細かく内訳を見ていくと、減点があったのは知識と道徳だけで、その減点の理由は、……択一の問題にすら『見たことがない』『知らない』と並べて書いてしまっているせい。


 問題文を読み違えたのか、それともこだわりを持ってそうしたのかは分からない。単に合格点には達しているからとお遊びのつもりだったのかも知れない。それを初めて見つけた時には、少しくすりと笑みをこぼしてしまうほどに、珍しい答案ではあった。


 確かに、正直にそう答えるというのも、正しいように思われる。算数についても、少し不思議な印象を持った。丁寧に、公式通り、模範的な解答が並んだと思えば、ぽつんと数字だけが書かれている欄もある。確かに解答用紙に全ての式を書き写すような決まりはなかったけれど、何故それがまばらに発生するのかは分からなかった。


 当時の私には、分からなかった。


 緒方マナは入園から一カ月もするとじわりじわりと右肩下がりに成績を下げ続け、そして二カ月が過ぎた頃、彼女の成績が学園全体の平均の点に近くなると、その下降をぴたりとやめさせた。


 目立つことを嫌う子で、いつでも席に座っているのに、私が気にしなければまるでそれまでそこにいなかったのではないかと錯覚するほどに、気配を消そうと努めているようだった。


 当然私は彼女のそうした振る舞いや、成績のことも気にしていて、彼女の過去の答案を何度も綴りから外して見比べてみた。そして、原則的には禁じられているのでしょうけれど、この時に改めて、彼女の提出したであろう入園試験の解答用紙を探し出す。


 一時的な不調や、新しいことへの躓きであれば良い。けれど、そう願いながら何度見返しても、やはり彼女は、わざと、成績を下げようとしている。それが明らかだった。


 授業の内容や、私本人への抗議の一環だと受け取るのが普通なのかも知れない。けれど彼女の場合、どうやら、そうじゃない。


 私に対しても相談員に対しても、あるいは他の教員に対しても、とても不器用に、大人から見ればあからさまに、そのことを隠そうとしているようだった。


 目立つことを嫌うから、できないふりをするのだろうと、私もそう思った。であれば、そういったことについてケアをしてあげるのが最良なのでしょうけど……。


 こうして、入園試験の、算数の解答用紙を見つめてみると、結局彼女はこの先百点を取るようになったとして、単に言葉に従っただけで何一つ、内面は変わらないのではないかと不安を抱く。


 数字だけがぽつんと書かれた解答欄から、少し上へ、指を滑らせる。どうして難しい計算問題に限って、メモや途中式が書かれていないのか、最初何度かの、テストの時間のことを思い出す。彼女一人だけ途中からきょろきょろと不安そうに、左右を見回していた。


 そう難しい問題ではないはずなのにと、私は不思議に思っていた。そしてなお不思議なことに、彼女は最初のテストの結果が発表されるまで、ずっとそうして途中で鉛筆をさまよわせながら落ち着きなくうろたえていたのに、一問も間違えることなく、消しゴムを使った跡さえなく、満点を取り続けていた。


 そして授業に登場する公式については、あまりに几帳面と思えるほどに、板書の通りの手順を記していた。


 彼女はもしかして、入園試験の時、公式を知らなかったのでは。


 普通であれば、強引に解いて時間に間に合わせることはできないとは思う。彼女はいとも簡単に、頭の中だけで、速く正確に、運算していたのかも知れない。


「……みんなの点数を見るまで、気づかなかったのね」


 点数を下げ始めた頃の答案を捲る。


「……どうやって間違えたら良いのか、分からなかったのね」


 ぴたりと、平均点と合った答案を捲る。


「……授業で復習した時のように、間違えるのね」


 一番新しい答案に指を置く。


 そうすると彼女は入園試験の時にすら、紛れるための処世の方法を用いて、解答していたのかも知れない。この程度の問題であれば、彼女の身近にいたご両親などは、満点を取っていておかしくないだろうから、満点を取ろうとした。


 入園後の彼女は答えが分かることに特に喜びを感じる様子もなく、自分を隠そうと終始していたのだから、入園試験のこれは、彼女にとって身を隠すことに失敗した一例ではあったのでしょう。


 彼女は当初、常識的な学力水準というものを、正しく理解できていなかった。いつ頃から、テストの点数を下げ始めたのかといえば、最初のテストの結果が発表された後から、ではあるけれど、彼女が普通の子であろうとし始めたのが、一体いつなのかは分からない。


 そして、何も解決してあげられないまま、何カ月もが過ぎてしまった。幾度も相談事はないかを確認しようとはしたし、必ず週に一度は、他の生徒からは不評ではあったけれど、マナちゃんのためにと、難し過ぎるはずのテストや、易し過ぎるはずのテストを用意したりなどした。


 こうした指標のないテストについては、やりたくないという、率直な意見を彼女からも聞いた。どうしてかは、答えてくれなかった。


 授業の進行に合わせたテストでは、あらかじめ決められた平均点に収まるようにと園内で調整がなされることもあって、この頃にはもう彼女も慣れた様子で、不安がることもなく、おおよそ八十点前後を保つようになった。


 そして私も、少しずつ、それに慣れてしまっていた。いいえ、むしろ、テストの点数を、平均点に合わせているというところにだけ、囚われ過ぎていたのかも知れない。


 緒方マナが南重学園を離れることになったのは、たった一つ、彼女の失敗と、そして私の、迂闊さのせいだった。


 おそらく彼女は南重学園に信頼の置ける人物が一人すらいなかったとしても、まさか異国の滞在を再び自ら望むことはなかったでしょう。


『それ』は本来なら慣例通りの単なる短期の国際交流体験として終わるはずだった。彼女が常識的な学力水準を誤解してさえいなければ……、単なる、短期の国際交流体験として、終わるはずだった。


「世界はとても広くて、皆が目指すべき夢は……、これほどに高いのです。けれど、過去に南重学園で学んだ内いくらかの人は、今こうして笑顔を湛えています。できなかったことができるようになる。一つ一つ積み重ねて少しずつ磨いていき、続ければ続けるほどに高く、続ければ続けるほどに輝いて、こんなに難しい、……、問題だって、……学び続けていれば、いつかこんな舞台で、」


 前の年も、その前の年も、私は生徒に対して同じようなことを話した。ただしその年だけは、生徒の内一人だけ私の目の前におらず、私は初めて自分の台詞に吐き気がした。


 彼女を特別視して、いないものとして扱うのが自分自身、不愉快で仕方なかったのかも知れない。加えて、確かに、人を育てるなどというのが私の驕りであると見せつけるような出来事ではあった。


 本人のやる気や能力が将来を決めるのであって、私の役割になど価値がないと言われたら、私はこの場で、反論できるように思えなかった。とにかく、扉の向こうは大騒ぎになっていて、大勢の慌ただしい足音が響いていた。


 彼女が選択したテストでは類型認知力、図表読解力はもちろん、教えられてすらいないはずの医学・自然科学の理解が問われる。医学部入試の際の加点を目的としたテストを短時間にこなせるようまとめた、いわば研究者や大学生のための知能テストで、択一式の問題は一つもない。


 そのテストは、たった一時間やそこらでは、誰一人、下手をすれば一問すら得点できないように作られている。


 彼女は七歳にして、たった数日練習時間を与えられただけでそれを突破してしまったようで、そうして急遽、別室で、追加の試験を受けることになったらしい。


 日本へ戻って一週間が過ぎた頃に、私と彼女とが、わざわざ別々に呼び出され、彼女に、ドイツの大学から、編入の誘いがあったと、説明された。


 テストの結果を考えれば、更なる飛躍を望まない教員など一人もいない。まして、南重学園で学ぶ意欲に乏しかった彼女がこうした結果を出してしまえば、狭い加護に入れておくべきではないという意見も出る。


 ただ私にはそれが、入園試験の時と同じような、彼女の失敗であることが分かっていた。


 けれど分かっていながら、それを、解決策を伴った形で説明できなかったせいなのか、私には、そもそも、可否の決定権は、与えられないようだった。


 ええ、確かに。誰もが、彼女の活躍を望む。私はその内の一人には違いない。……彼女は、南重学園を嫌っているかも知れない。けれど……、それでも、異国に放り出されるよりは南重学園が良いと言うに決まっていて、本人やご両親から、必ず反対意見が出ると、高を括っていた。


「マナちゃんは、……南重学園が好きじゃないの?……好きなら、ここに残って?」


「他の先生はとても喜んでるということでは、ありませんでしたか?」


「ええ、そうね。けれども……。マナちゃんがどう思っているのかを、ちゃんとお話しておきたいと思ったの」


「先生は?最初はそこに入ることを期待しているようなお話をしていました」


 この時に、ぞわりと背筋が凍った。この瞬間に至るまで、私は彼女を見誤っていた。


「マナちゃん……。ねえ、マナちゃんの夢を聞かせて」


「前にも言いました。作文の発表もしました。先生は忘れてしまったのでしょうか?」


 前にも聞いた。けれど、私は彼女がその時、本当に自分の夢を口にしていたのかを知る術がない。


「……あの時、マナちゃんの作文だけ、どうしても見つからなかったのよ。提出箱の中に見つからなかったから、後になってマナちゃんにも確認したでしょう?」


「『偉い学者になってたくさんの人を救いたい』ということを発表しました。ええと、けれども、けれども、その時、私は、紙はその、汚れてしまって捨てたような気がしますと答えました」


 私はその時、彼女を信じて、提出されたはずの、彼女が読み上げたであろう作文を、教室のごみ箱どころか、焼却炉の前に積まれたダンボールの中まで探し回った。


『偉い学者になってたくさんの人を救いたい』という、彼女の将来の夢を、私は彼女の筆跡と共に眺めてみたくて、彼女の発表を思い出しながら、どのように彼女に……、どうすれば良いかを一緒に、考えて……、お話をしてあげたかったのに。


 けれども、その日一日探しても、くしゃくしゃに丸められごみ箱の奥底に詰められた、一文字も書かれていない作文用紙しか、見つからなかった。


 汚れもない用紙が丸めて捨てられていた。それがおそらく、彼女が提出するはずだった作文用紙ではないかと、察してはいた。書かなくても暗唱できるものだから、そして私が突然提出を求めたものだから、慌ててごみ箱に捨てたのだろうと、今この時までは、そう深刻にその出来事を受け止めていなかった。


「マナちゃん……。本当に、その時、マナちゃんの本当の夢を、書いてくれた?」


「…………。ええ、作文はその、なくしてしまいましたが、偉い学者にはなりたいと思っています」


 他の生徒の発表を聞いて、頭の中で、私が喜びそうな、将来の夢を、編纂していたのではないのと、口に出してしまいそうになった。


 口に出さなくても、表情は隠しきれない。彼女は私と目を合わせるのを怖がっているように見えたし、そして私もまた、彼女と目を合わせるのが怖かった。


「マナ、ちゃん、あなたが決めて良いことよ。私に、は、マナちゃんを引き止められない。きっとマナちゃんは、とてもたくさんの人に認められる偉い、学者にだって必ずなれるわ」


 けれど、その夢を、嘘だと思っていたのは誰でしょう。引き止められなかったわけでなく、引き止めなかったのは誰でしょうか。彼女はご両親から離れたくなかったのでは。実は南重学園を離れたくなかったのでは。そうしていつも、どこへでも。


 今になって思うに、私はせめて、抱きしめ行かないでと、言えば良かった。自分の気持ちだけを、そうして伝えれば良かった。


 そうすれば彼女が仮にどちらの選択をするにせよ、彼女はそうしたことを少しは、嬉しく思ってくれたことでしょう。そして私がこうまで後悔することはなかった。


 何が重大だったのかというと、私はその時に、彼女の成功と幸福を願うと言い訳をしながら、その責任の全てを、彼女本人に、押しつけてしまった。彼女にとってより良い場所があるのだと彼女以外から何度も説明をされて、私はついに、それに返す言葉が見つからなくなってしまった。


 たとえ彼女が教科書を全て覚えきってしまっていたとして、私にだって、それを読み上げる不要に添えて、いくらも言葉を届けられたはずだったのに。


 後悔を抱えて、もう十年になる。手紙の返事を待ち続け、いなくなってしまった彼女のご両親を探し続け、最後には堪えきれなくなって、彼女を探してくださいと警察署にまで足を運ぶことになった。


 緒方マナの名前は、ついに今の今まで、……一度も新聞に載ったことはない。



『田原栄子が探している彼女は誰?少なくともアンミは、目が見えるようになった後にもトロイマンを見たことがあったから、田原栄子が探している彼女のことを一目見て、何年も前のトロイマンを思い出す。健介、彼女は誰?よく、考えてみて……。私がいくら事実を知ったとして、他人がいくら想像を膨らませたとして、あなたの納得する答えはそこにない。あなたが知りたいというのなら、まずはそれを、受け入れるために、いくつか知っていなくてはならないことがある』


『大丈夫。……きっと大丈夫。あなたはこのまま最上の未来を望み続けて良い。アンミをどうか助けてあげて。そうすれば、あなたは幸せを感じられるのでしょう?』


『ええ、けれど、それならば、あなたはなおのこと、備えておかなくては。必ずしも、つらい道を選ぶ必要はない。さあ、本を開いて?つらい道だと気づいた時に、目印を見つけられるようにしておいて。本を開いてあなたはまた一つに気づく。それを悲しむなら、私はまた一つを教えてあげられる』



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