八話⑤
◆『小杉井聡は、その部屋を訪れるのが憂鬱で仕方なかった』
まず私は、分厚いガラス越しにその子の様子を窺う。
幸いなことに彼女はもう目を覚ましているようだった。大きなベッドの端の方に座っていて、ぼうと斜め上を見上げたまま身動きもなく、もちろん遮音性のある二重ガラスのこちら側に私が足を踏み入れたことにも気づいていない。
私は今から四カ月前、この『割の良いアルバイト』を、なんと高田誠司院長から直々に紹介して頂いた。
前任者が退職したため、適性のある者に担当して貰いたい、と、いうことを仰ってはいたものの、実際のところどうして私に声が掛かったのか定かではない。
私は小児科医でも、眼科医でもないし、ましてサイコセラピストの真似事など人生の中で一度として経験がなかった。適性というのは単に、暇そうだということだったんだろうか。
いやそれよりそもそも、何故彼女をこうしてたった一人、特別研究棟に閉じ込めているのかについてはたった一言すら説明がなかった。
不機嫌に眉を寄せた高田院長の目の前で書かされた六枚の誓約書、翌月から私の部屋に郵送され始めた出どころも額の根拠も不明瞭な特別調整支給の明細、この研究棟の薄暗い廊下薄暗い部屋、昨今の幽霊騒動……。誰にも知らせることの許されない謎の少女と謎のアルバイト。
私は不安になりそうないくつもをできる限り考えないようにして、ただ事務的に『タカダ・メディカルインデックス』の項目に見た目で分かる範囲の点数を記入し、そしていつも、その『TMI』だけでは決められている一時間を使い切れないものだから、とりあえず、ズレたカーペットの位置を丁寧に直したり、重心が安定せず転がりがちなクマのぬいぐるみをなんとか立たせようと試みた。
「だあれ?」
実をいうと、私はこの特別研究棟に入る前のこの子を、確か……、多分、消灯寸前の高田病院の六階で見掛けたことがある。
その時私は一人で椅子に腰掛けている、おそらくは迷子であろう少女に、一応声は掛けたもののわざわざ病室や保護者の元へ案内してやることはせず、小川さんだったか、義晴君だったか、「迷子の子が六階で一人、高田先生か、高田っぽい名前の先生を待ってるようだから、もうちょっと詳しく話を聞いて案内してやってくれ」と、他人に丸投げした覚えがある。
「…………」
「だあれ?」
不安げな『だあれ?』が、ここを訪れる者に対する独特の挨拶であることを、私は知っている。
何度ここを訪れても私が一向に慣れないのは、私が初めてここへ来た時と同じように、彼女がまた『だあれ?』と私に問うからだった。
無論、彼女は私の名前をすぐに忘れてしまうというわけではなく、ただ単純に私の顔がぼんやりとしか見えていないからそう聞くわけなのだけど……。
「小杉井だよ。私の声は覚えてるかい?」
「こすぎい。私、こすぎいは知ってる」
結局本名を名乗るしかないのに、私は『だあれ』に対して必ず一瞬だけ答えを躊躇する。
というのも、彼女はあまり他人の声の具合には興味がないようで、一度私が冗談のつもりで別人を名乗った時などもあっさりとそれを信じて……、以降、彼女の知る何人かの中に、偽の私がカウントされたままになっている。
その偽の私が彼女に対してどれほど親切で、その偽の私が最近ここに来ていなくて、また偽の私がここへ来るにはどうすれば良いかアドバイスを求められたことがあった。
その偽の私は『私と同じように』、ものに躓いて転ばないように床に何か置いてあれば元の位置に戻してくれるし、質問をすれば丁寧に答えてくれるし、……おそらく時間が余るからだろうけど、部屋に用意されていた絵本を読んでくれる、……そういう、大層ご立派な、素晴らしいお医者様だったそうだ。
そんなことをいまだに私は引きずっている。一体、前任者とやらはどうやって時間を潰していたんだろうか。
「最近、クマがこない。クマはびょうき?」
「熊谷先生は遠くへ引っ越したそうだよ。君にお別れの挨拶をしたかったって……」
「…………?みんな引っ越した?」
「ん?」
「みねぎしせんせは?」
「峰岸先生は忙しそうにしてたよ。君が会いたがってたって言っておこうか」
「はやかわせんせも、トロイマンも来ない。忙しいから?私、ここ出て会ったらダメ?」
彼女の口から、その名前を初めて聞いた。
「…………。トロイマン?え、えっと、トロイマンは、ここに来たことがあるの?」
「……?はやかわせんせが?はやかわせんせが持ってきてくれた本はほんとはトロイマンが持ってきてくれたって……、はやかわせんせ言ってた?私、来たかは分からない」
「……トロイマンは、ここに来たんだね」
『トロイマンは、ここに来た』、というのが具体的に何を意味するのか、あるいは来ていなかったとしたらどうなのか、私はそんな推理の過程などすっ飛ばして、ただただ、深く納得してしまった。
そして連想する。例えば今しがたアンミが言った『ここを出て会ってはダメか』という種類の質問は、つい一カ月ほど前から聞くようになったばかりで、それ以前にはたったの一度も聞いたことがない。
何故なら、彼女は『ここから出られない旨の説明を何度もこの病院内で受けていて』、『残念そうにしながらも、それに素直に納得し従っていて』、『彼女自身、幼いながらも人を困らせるような振る舞いを極力は慎んでいた』。
彼女が『ここを出て……』などと口にするのは、そう誰かが……、ここから出してあげるよ、なんていうふうに、できもしないことを……、彼女と約束したからだ。
「私ね、こすぎいにも会いたいけど、他の人にも会いたい。私、これ、絵本貰って、少し目も良くなってる」
「そうだね……。ところでそれは『誰に貰った』んだっけ?」
「はやかわせんせから貰った。目が良くなると良いねって貰った。そのお蔭で私の目は良くなってる」
「でも……、早川先生はその日、東京にいなかったんだ」
「うん。でも……?うん、その後に多分トロイマンからだよって言ってた。でもその貰った時は、『僕からのプレゼントです』って言ってて。絵が一杯の、綺麗な本、と、字が読めるようになると良いねって、ええっと、ええっとあの音の出るのは」
「そのオモチャだって、早川先生は持ってこないよ」
「でも、はやかわせんせが……、はやかわせんせに確認する?はやかわせんせに聞いたら分かる」
「もう……、早川先生には聞けないよ。彼はもうここにいないんだ」
「私そしたら、最初ここから出たらはやかわせんせに会いにいく。はやかわせんせに一杯お礼したい」
「君はっ、……ここから出られないよっ!」
「…………。じゃあ、高田にね。字のね、読み方とか、書き方とか教えて貰ったから、今はお手紙を書く……」
私自身、その瞬間何に苛立ったのか説明できない。この子は何一つ悪くなんてない。そんなことは頭では十分に分かっていて、ましてこの子に当たり散らしたところで何かが良くなるわけじゃない。
後々私は罪悪感に自らを呪うことになるだろう、だけど、……早川忠道先生は、きっとこの子に追い詰められてここを去ったに違いなかった。そして何も知らないこの子を利用したのは……。
「えっと……、えっと……」
「……ごめん。……君は、君は悪くない」
「でもね、今は無理でもはやかわせんせが、すぐに外に出られるって。私、まず絵本みたいな綺麗なお花探す」
「……ごめんね、お花なら私が探すよ」
「あとそうだった。私、はやかわせんせに誕生日決めて貰った。その日に一杯集めて折角だからその日に持ってく」
「……私だけでも、その日君を祝うよ」
「?私、でも、その前に、綺麗な色が分からないと困るし、はやかわせんせが注射が痛くなくて怖くない魔法してくれた。もっと目が良くなる。良くする?」
「……注射だろう?痛くないわけ、怖くないわけ、ないじゃないか」
「私、こすぎいにもお礼しないといけない。はやかわせんせがね、私にも家族とお友達ができるって。そしたら家族みんなでお友達とも一緒で一杯一杯お花探せる。お花以外も一杯探せる」
「…………そんなの、嘘だよ。全部……、私が探すよ」
「?こすぎいは、何か欲しい?」
ああ、きっと早川忠道はこうして、ここから逃げ出したんだ。悔しくて悔しくて情けなくて、けれどどうしようもなくて、ここから逃げ出すしかなかった。あの、早川忠道でさえも。
◆
『フィリーネ・トロイマン。笹塚徹。佐藤泰。伊藤正二。小野誠。飯田久雄。藤崎充。吉田義晴。倉田功。宮城宗平。深山昌宏。菅野葉。小杉井聡。稲垣康彦。』
『健介。顔と名前を覚えて意味はありますか?私が知っているのはまだたったこれだけ。ねえ、健介。もちろん、あなたが知りたいと思うことを、……知らせるべきでないことを除いて、知らせないことに意味はないけれど、あなたは知るよりも、想像し信じるべきなのかも知れない』
『どうやら皆、思い出すことを躊躇するようであったから、私も早川忠道について、この現状で役立つことをほとんど見つけ出せなかった。彼はもしかしてトロイマンを止められたかも知れないし、アンミを救うことができたかも知れない。けれどもう、ほとんど誰も、彼に期待していないようだった』
『ねえ健介、あなたがこの先気にするのは、きっとトロイマンのことでしょう。私はただあなたに伝えても構わないけれど、あなたが否定することを無理に受け入れろとは言えない。彼女のことこそ、……あなたには既に選択の基準がある』
『ねえ健介、彼女は誰?市倉絵里が舞台の上に見たのは誰?佐藤泰がモニタ越しに見たのは誰?小杉井聡は当時、彼女の姿形を知らなかったけれど、……早川忠道のふりをして、アンミの部屋を訪れたのは誰?』
『トロイマンは、一体誰?そして緒方マナは一体誰?』




