八話④
その思い込みが覆るのは、彼が所内で自殺を図ったという噂が流れた後のことだった。
少なくとも誰も、その事件に対して驚きを隠せる者などいなかったし、その事件が現実に起きていたものだと半年経ってなお信じない者さえいた。
かろうじで納得する者はいくらか材料を集めた上で、『トロイマンの謀略だったのではないか』と、なんとも手軽な推測を立てるに至った。
何か具体的な証拠が示されたわけではない。それはいうなれば、トロイマンへの不信感が反映された風説だったのだろうとは思う。とはいえ、そうして所員の噂するいくつかは、どこから漏洩したのか、あるいは頭の良い者などはおよそ振る舞いから察してしまうものなのか、高田とトロイマンの関係性を言い当てていたりもした。
例えば、……彼女は高田を含めて三人の後ろ楯を持っていたわけだが、特に高田に対しては入所に際していくらも不利な条件を提示していたらしい。彼女は組織に所属しているわけでもなく当然役職があるわけでもないのに、高田と直接交渉して早川と共に研究を進めていたようであるし、高田が不在の時に限らず、かなりの頻度で、デタラメな要求を本部や別チームへ出していた。
高田がそれらをどう処理したかまでは知らないが、その内容は一つ一つがあんまりなものであったから、所内のトップへの嘆願が一時期半数以上、トロイマンの研究関連で占められたというのは、私も知る一つの事実ではあった。
さすがに早川から出た要求ではなかったろうし、いくら高田が融通を利かせるといって限度があったのは間違いない。早川がそれらを止められず、高田が調整に困り果てるという時点で、危機的な暴走状態ではあった。
そういった時、『何か』があって、……かくして、優秀な研究者であった早川忠道は自殺を図り、そしてそのことが絡んで、本来は専門である高田が一切の権限を持っていた高総医科研の運営は、代表者三人による合議制へと移行することになった。
これは一概にトロイマンに利するとはいえないのかも知れないが、米山君は決断力のある人間ではないし、峰岸先生はトロイマンとの繋がりが強い。要するにハンドルを握っていたはずの早川を追い出し席を奪い、高田がブレーキを踏む力を三分の一まで弱めることに、トロイマンが成功した、と、見る者もいる。
元々少数であった特質症研究チームの主要人物筆頭は早川を欠いてはトロイマンに違いなく、当時の資料を詳細に知る者は彼女しかおらず、報告書はもちろん彼女が取りまとめる。
当時、早川とトロイマン、二人の力関係はどうであったかという点にも疑問符がついた。早川から提出された臨床データに、特徴的な情報改竄の痕跡が見て取れる。どれも些細な、確かに見逃しがちなものではあったが、まさか早川がそれに気づかず何度も同じミスをするはずがない。
早川忠道の署名という信頼の包みを使って、リードオンリーの観測記録との照合を避け、高田に情報を渡し研究方針が決定された。改竄ではなく、隠蔽だった可能性も捨てきれない。
早川が自ら彼女に協力し高田を裏切っていたのか、あるいは早川は傀儡のように彼女に従わなければならない理由があったのか、これは後になっては確かめようもないが、事実として、おそらく早川は彼女に協力し、また早川は一命を取り留めたとはいえ、研究所を去ることにはなった。
元々の彼女の研究への執着具合を加味するなら、……、確かに彼女は疑わしい立場にある。
そもそもの話、彼を追い詰めたのは一体なんだったのかというのも考えなければならない。これももちろん推測の域を出ないわけだが、少なくとも……、アンミという一人の少女が、深く関係していたのは間違いないことだ。
早川がいかにしてその心境に至ったのか、彼は意識を失う直前まで薄い扉一枚を隔ててアンミと会話をしていたようで、であるから当然、アンミに対しても心理的な負担にならぬよう配慮した上での聞き取りはなされた。
アンミは早川の声に元気がないことは察していたものの、彼が単に眠いのかもしくは扉が分厚くて声が聞き取りづらいだけなのだと考えていたようで、実際に何が起きていたのかは全く理解していなかった。
こちらが求めている会話内容の記憶はあやふやおぼろげで、まるで要領を得ないまま終始した。
結局早川が何を思い悩んでいたのかが浮かび上がることはなかったわけだが、……この聞き取りの報告書と録画映像に目を通した者の内幾人かは、呪いのビデオでも見たかのように蒼ざめて、早川の後を追うように研究所を去った。
『待っててね』……『うん、待ってる』
『待っててね』……『うん、待ってる』
早川が『待っててね』、そしてアンミが『待ってる』と答える。ただし、アンミは具体的に何を待てば良いのか分からないから、ただ扉の近くで早川の声を待っている。
その繰り返しの光景だけははっきりと浮かび上がった。ここに、なんとも微妙な事実説明を加えなければならない。
まず、世話係を担当していた者が知らぬ内に、いくつもいくつもアンミへの贈り物が増えていたと報告した。それは絵本や幼児向け玩具などで、ビジョンセラピーの一環として与えられていて不自然でない範囲に収まってはいる。
しかし、何故かいつの間にか、こっそりと増やされており、そしてアンミに『誰からか』と問えば、決まって『早川先生から』と答えたらしい。
そして困ったことに、アンミは部屋の中で人影を見つけると、早川かどうかを確認するようになった。早川でないことが分かるとアンミは早川からとされる数々のプレゼントを掲げて彼らに見せ、また、『早川先生がこんな約束をしてくれた』と心底嬉しそうに話したという。
そして、それらを早川がアンミの部屋へ持ち込んだというのを、……アンミ以外は誰も信じていなかった。
早川忠道は人に何か贈る際にはそれがどんな些細なものでも必ず『誰か第三者がいる前で』『当人に対して一言を添えて』という信条を持っていたようであるし、後に、アンミへ手渡ったのはどうやら全て、高田病院小児棟から無断で持ち出しされた代物だったと発覚した。
というよりも何より早川本人に全く身に覚えがないようだった。
そして案の定、……『おそらく金髪、の少女』が本を抱えて無人のはずの特別研究棟を歩いていたという目撃証言が出た。幽霊だなんだと色々と尾ひれがついて噂が広まっていたが、何のことはない。知っている者からすれば、それはほぼ確実に、……トロイマンしか該当者がいない。
そうして話を整理していくと、……嫌な推理ができてしまう。アンミは一人研究棟にいて、早川を騙る何者かからいくらもプレゼントを受け取っていた。
そしてそのプレゼントはともかくとして、……やれ『外に出してあげる』だの、『家族に会える』だの、アンミへと吹き込んだのは……、一体誰か。
聞き取り調査の報告書にアンミと早川の正確な会話記録はない。
アンミはその時こう聞いたのではないだろうか。
『早川先生、私はいつ外に出られるの?』
さすがの早川も、これに答えられるはずがない。当時、屋外でQCが正常に動作するかという不安もあったし、そもそも仮に外に出すといって、アンミには帰る家がない。
『早川先生、私の家族は?』
これなど更に無理だ。彼女の家族など手掛かりになるようなものは一つとしてなかった。アンミの記録はどこを探っても見つからないし、彼女自身どうやって生きてきたのか、名字すら思い出せない。
アンミに身寄りはない。早川はこの時確かに『待っててね』と言った。アンミは『待ってる』と言った。
そのすぐ後に早川が手首を切ったりなどしなければ、早川の決意の言葉とも受け取れたのかも知れないのだが……、『すまない』とは、言わなかったのだろうか。『すまない……。待っててくれ』と、言わなかっただろうか。
……『待ってる』
モニタ越しに見る分には、普通の小さな女の子と変わらなかった。かわいらしく愛らしく、純粋な子に見えた。けれども特質症の子だった。
アンミが眼前に立てば、私はやはりどうしようもなく震えたに違いない。まともな思考などできなかったかも知れない。どうしても与えられぬものをねだられて、果たして見当外れな懺悔と贖罪を、彼女が欲しがったと思い込むのかも知れない。
そうした場合、一体誰が、何のために、そんな状況を作り出したのか。私の手元にあるピースを何も考えず適当にはめ込んでいくだけで、一つそれらしい絵はできてしまう。
もちろんこれらは単なる状況による推測でしかない。トロイマンが表立ってそれについて弁明する機会はおそらくなかっただろうし、また心情を代弁して触れ回る者もいなかった。
即ち単に、否定されていないから、根強いのだとはいえる。そして何よりも、早川と敵対する人物が思い浮かばないものだから、消去法によって疑いの矛先が、トロイマンへ向けられたという感は強い。
私は何もトロイマンを擁護したいわけじゃないが、無根拠な噂や消去法で彼女を犯人だと決めつけたのなら、あまりに暴力的な推理だとは思う。物的証拠や自白は出ないだろうが、そこにはせめて、しっかりと組み立てられた、トロイマンの思惑という土台がなくてはならない。
私は、予想通りに彼女が犯人であったにしろ、あるいは予想外にそうでなかったにしろ、たった一つ、そこに至るまでの空白を知りたい。
「いいや、……トロイマンは何故そうまでしただろうか。君がいて不都合なんかがあっただろうか」
目の前で微笑む男は、その時の記憶の彼より幾分やつれているようにも感じる。私の一言一言に頷く度、少しずつ魂を吐き出しているようにさえ見えた。それでも穏やかに表情を浮かべている。
「いや、むしろ、足りていないというより……、全て逆から考えるべきか。一つ気掛かりな前提がある。さすがにそれはないだろうと意図的に無視していたが、トロイマンがああいう扱いを受ける理由が、組み上がってない。高田はどうして……、トロイマンを。セラ……。いつだ。私が知ってるよりももっと前のはずだ……。高田が三人の中から、トロイマンを選ぶ理由が……、高田が選んだとすると……、どうして君を選ばなかった?どうしてトロイマンは、まあ絵里ちゃんもそうなんだが……」
私のこれは、彼を追い詰めることになるだろうか。彼も今更昔話などしたくはないだろうが、私の中にずっと口にできなかった黒く塗りつぶされた部分がある。
私は知りたくて知りたくて、どうしようもなくなり、結局この男の前に立った。男は細い左手をポケットに潜り込ませ、安物のライターを取り出す。
「どうぞ、重里さん。まあ落ち着いてください。禁煙、どうせ失敗したんでしょう?」
男は手巻きのタバコらしきものを私の方へと差し出し、私がそれをくわえるとゆっくりと頷いて小さく火を灯した。痩せた顔に似合わずはっきりとした、確かに、早川忠道らしい声だった。
「ああ。ありがとう。…………。トロイマンには高田が、見て分かる理由がある。年少組で……、手直しか、あの論文。それにしては……。とはいえ、高田が早川を外すとは思えない。いや、どうだ……?例えば君は、高田が不老不死になりたいと言い出したら止めるかね?トロイマンがあの歳で入所して仕事漬けな理由は知ってるか?」
「重里さんは、気づいてて言わないわけでしょう?さっきの話ですけど、報告書を書き換えたのはやっぱり僕だし、アンミちゃんと約束したのも僕です。贈り物だけはトロイマンからでしょうね。何ていうのか。……はは、僕のせいでトロイマンが悪者扱いされてると言われると、合わせる顔もない」
それきり彼は一言も口にすることなく、終始控えめな笑顔をこちらへと向けていて、私が何を質問してもまるで優雅な音楽でも聞いているかのように首を縦に揺らすばかりだった。
そして終いに私が一服を終えると、彼は小さく会釈し席を離れてしまった。結局私の中のいくつもの仮説は一つとして検証されなかったのだが、不思議なことに私は、彼の後ろ姿を見て安心し、来た道を再び戻ることにした。
こうして私は再び原点に引き戻された。
医者が自殺を図って死に損なうなどあり得ぬことだし、まして、刃物を使って手首を切るなど馬鹿げた方法を、どうして選ぶだろうか。
彼はおそらく、元より死ぬつもりなど欠片もなかった。ただ、その場を離れる理由が必要だった。
そうして考えてみると、あの一連の出来事は、トロイマンの謀略だったというよりは……、早川に、原因がある。
何故早川が、高総医科研を去ったのかといえば、どこかの誰かが何かをしたからというわけじゃなく、早川忠道本人が、アンミに願われたことを叶える術を持ち合わせていなかったからだ。
早川は、アンミを救うことができなかった。
そして同時に、早川は、高田やトロイマンを止めることなどももう諦めていたんだろう。それらはもうその当時に、変えようがなく筋書きが立っていたということだ。
それらが今までどう繋がっていたのか、この先どう繋がるのか、……私が興味本位に検証し仮説を立ててみることはできる。ただしそうして考えてみることに、意味があるようには思えなくなった。
こうしてぼんやり空を見つめてみる。その青さにすら、いくつか理由はあるだろう。だが結果的に、空は青いのであって、その理由をわざわざ真相だとか、まして犯人だと呼ぶ者などいない。
何故なら、仮に今日この日のやけに青い空の色が気に入らなかったとして、世界中の誰一人、もちろん私も、……好きな色に塗り替えることなどできないからだ。
自分の人生を、自分で切り拓いてきたように思っていた私も、空に浮かぶ一粒の分子のようなもので、まあ私など、努めて明るく輝きたいと願うものだろうが、結局こうして空は青い。
何をどうしたところで、結論が変わるはずがない。早川が諦めたら、それはもはや『法則的に無理』。私はもちろんより良い未来を望むがしかし、世界は前提として法則の上に成り立っている。




