八話③
◆『早川忠道を知る男は、彼女によるなんらかの工作を疑った』
そもそもの話、分子生物学分室での研究は高田が最終的な意思決定権を持っているとはいえ、高田総合医科学研究所のそれとは全く分離されている。
何をやるにせよ、統合された専門研究部とその施設があるのだから、そちらに混じってチームを組めと言えば良かったのに、わざわざ謎めいた組織を新たに作り出し、こちらの運営を蝕むばかりのまさに嫌がらせの真似事を何故……、何故私はあの時許可してしまったのか……。
もうここ何年か、心の底の悔やみ汁が全身を循環して私の血液を濁らせ続けている。新棟を増築してたった数年で放置しておきながら、結局またしても県外へ移設することになったらしい。
米山君が律儀にこちらへ連絡を入れてくれるからまだ何とか機能している、とはいえ、だ、かれこれ六度目になる視察拒否のご判断も同時に出てしまった。せめて向こうは向こうでいっそ完全に独立してくれるなら良いが、呆れるほどの秘密主義に加えて、脅迫を伴った強引で連続した人事異動依頼と、省だの局だのからの苦情を含んだ質問状が、ことあるごとにこちらへと送られてきて、しかも何故わざわざ紙で寄越すのか、それが毎週毎週崩落寸前の山を成す。
「重里総務部長?先日の停電についてこちらの責任だというふうにこんな連絡が来てまして……。えぇと、三原さん体調不良で休んでいらっしゃるんですけど、これをまずどうにかしないとならなくて……」
「それはもう済んだよ」
「あ、そうだったんですか。あと、周辺で通信機器の電波状態が悪くなるといぅ……、苦情はどこにお願いしたら良いでしょう?」
「それも済んだよ」
「わぁ、えっと、じゃあこの、こちらが置いていた機材に躓いて転んだと仰る、六十歳の男性が所属する団体からの」
「それも済ませたよ……」
とりあえずこれで手を着けられる分は一段落だろうか。どうせまた打ち合わせ通りに施工しない業者の指示通り人を派遣しない下請けの工期を誤魔化す下請けの日本語が通じない下請けの部品メーカーの原料屋の取引先がカタログ詐欺をするはずだ。悪いが今度はもう全て調べ上げて全て監視する。
通信事業者は、私が折角作ってやった範囲マップをまた勝手に都合良く塗り替え、あらかじめリスクを指摘して費用も全額持つと言っておいたことで、設備を改造するわけにはいかない、だが改造させるわけにもいかないと上と下とで話がかみ合わず設計図まで引いてやった中継アンテナから有線で結ぶだけの簡単な補強設備の話し合いを二度手間三度手間で循環を掛けて伝言ゲームに時間を費やした上トンデモ勘違いをして再度こちらへ持ってくるだろう。既存設備の不具合とメンテナンスの予定表と保険会社とのやり取りと通信事業法の詳細をメルヘンチックな絵本のように分かりやすく資料を作って『ハンコはここに押すんだよ』とクマさんが指さして優しく教えてくれる書類を役員の自宅に送りつけておいた。
立入禁止の案内を飛び越えて侵入した当たり屋同然の老人を系列病院で目と頭を重点的に健康診断してやったことでその部分に自信のない人間が噂を聞きつけて治りなどしないのにまた真似をして飛び込むかも知れない。
これは、……まあ事が起きてから対応すれば良いか。……柵も高くしておいたし。
ともあれ、どうにかこうにか、一息つくだけの余裕を生むことはできた。あわよくば、この平和な時間が長く続かないとしても、できることならば一カ所で問題を起こしてくれと願わずにいられない。
だがそもそもこれは分子生物学分室による一度に山だの町だのを囲おうとするような壮大で無理のある計画がなんの脈絡も打診もなくこちらへと振られ、それがクラスターボムのようにそこかしこで火種を生み出したことに端を発した問題群だった。
高田ももちろん大層自分勝手な男だったが、このなりふり構わぬ迷惑を顧みないやり方は、おそらくトロイマンの意向が多分に含まれている。死屍累累たる地面など平然と無表情で歩いていくのがトロイマンらしいといえばトロイマンらしい。また無茶な要求がこちらへ流れ込まぬように気を張り続けなければならない……。
「重里総務部長……、怒ってます?」
「…………んぅ?怒ってないよ。怒ってるように見えたかな?今君が言った三件は全て私の管轄じゃなくて開発室の連中か処理委員会の人間か、というよりも、本来分室の連中が向こうで処理する案件だろう。こちらで受け持つと実際何が起きたのか知らない人間ばかりだから一々調査委員会の真似事をしなけりゃならんし、地理的にも遠方だし折角報告書やらを送っても向こうの人間は読みもしないから何度も何度も再発するし、もう、ここに来てから四カ月でそれ関連の私の決裁額が五億円を超えたよ。けど、怒ってはいないね。あと、どうでもいいことなんだが、私はここの部長が出向してるから一応顔だけ出しているだけで、元々は本部長だよ。私はそんなに気にしないが、重里さんと呼ぶか、重里本部長と呼んでくれないと、周りからは嫌がらせの左遷でここに来たのかと勘違いされてしまうだろう?」
「あれ?重里さんってここの前、室長じゃなかったんですか?電気制御室室長だって……、だと思っていましたけど」
「……私がメンテナンスの立ち会いをすることもあったのは確かなんだけどね、……電気制御室には、電気制御基盤とケーブルがあるだけで、あそこは問題が起こらなければ本来は無人だよ。そういえば前にも私のことを喫煙室の室長呼ばわりして館内放送を掛けた人間がいたのだがもしかして君かね?組織図じゃなく館内案内掲示を見て消去法で私の役職を決めていたりしないかね?私もまあ全員の顔と役職を覚えているわけじゃないから強く言えたことじゃないんだが……」
「ええっと、部外のことはあんまり?でも重里さんが室長なのは知ってました。重里さん覚えてます?私の入所面接したの重里さんだったっていうの。確かその時、重里室長って呼ばれてましたよ?」
「いつだねそれは?人員計画室の室長とかいう意味の分からん肩書をつけられた時か。その時ももう本部長だったよ。その前に経営企画室にいたからそう呼ばれてただけかも知れんが、やつら他の部署が渋るとすぐなんとか室というのをでっち上げて私に押しつけるんだ。所内だけならまだしも外だともう自分が何者なのかも分からん。引き出し一つ自分の名刺で、埋まってる馬鹿は私の他にいるか?もうだからそんなややこしい真似はしないで重里さんと呼んでくれと言ってるんだ、ありがちな名字じゃあるまいし。……あと、一応答えると、私は採用の最終決定はしてない。だから申し訳ないけど全く覚えてないよ。いたような……、気もするが」
さすがにわざわざ口に出しては言わないが、おそらく際立って優秀な部類の子ではないだろうから、思い返そうにも引っ掛かる部分はないだろう。ただ、いたような、……気はしないでもない。
とびきりの美人でもなく、輝かしい経歴の持ち主でもなく、目に留まるような成績でもないのに、私が一応丸をつけた、そういう子が、いたにはいたような。
「重里さんに相談しておけば大丈夫だって、みんな言ってました。昔からいる人は重里室長なら助けてくれるって。みんな重里さんのこと尊敬してて、私も重里さんのこと好きですよ。えへへ、すっごい一杯仕事してますね。重里さんがけっさいしてくれると稟議待ちしなくて済みますもん。重里さんが頼りになりますから」
「それは私が結局後で役員や監査に回しているからだよ。本来セットになって私のところに稟議として上がってくる書類を、全部とは言わないけど私が大体自分で作っているからだよ。一つ文句がつくとそれを待ってる間に私の机がどんどん狭くなっていくから……」
「すごーい」
「すごいかすごくないかはいいんだがね、あのね、あ……、ちょっと?」
「ねぇねぇ聞いて、牧野さん、重里さんがすごぉいの。週に二日しか来てないのに金曜日には全部綺麗に机の上の書類がなくなってるんだよ。私のパパだったらみんなにすっごい自慢したのになあ。あとあとっ、重里さんて実は本部長だったらしいですよ?」
「…………。かないっぺさあ。まだ重ちゃん喋ってる途中だったじゃん。いやずっと本部長だよ。高医研の時代から。誰から聞いたかは忘れたけど。とりあえず今は統括本部長」
……書類はもちろん、私がいない間に誰もこの机に座らないものだから、私が他の部署を回っている間も出張している間も日曜日も、情けないことに恥を忍んで私の元部下に手伝って貰いながらなんとかしているだけだという、そういうことだよ。
まあしかし、一度トロイマンのいる場所に身を置いてみれば、天国と地獄の境目を嫌でも知ることになるのだから、単に仕事が多いことになど今更不平を漏らす価値がない。
明るい笑顔を浮かべて私の話が長くなりそうになるとさっと身を翻し呼び止める声を聞かぬふりをしてきゃっきゃと駆け去り騒ぐ君の後ろ姿を見る度に、後ろ姿だけ君に似ている、
そう、絵里ちゃんのことを思い出す。
早川と同じような道を、どうかどうか進んでしまわないように、願ってやまないものであるが、……遠い山奥の謎の研究所で暴君の近くに身を置いて、今元気にしているのかは定かではない。
元から元気が取り柄の子ではなかったものだから、現在の姿というのが不安で不安で仕方がない。……早川さえいてくれたのなら、少ないながらも絵里ちゃんが笑顔を見せることもあり得ただろうに、絵里ちゃんがどうしてあそこに残ってまで過酷に戦わなければならないのか。
……ああ、もしかするとトロイマンが何か悪企みを持っていることに絵里ちゃんは気づいていて、その野望を打ち砕くために戦うのかも知れない。
それが何故か、その時ばかりは直感から確信へとすぐに変わって、私はもういても立ってもいられなくなった。ちょうど今私も次の仕事を押しつけられるまで暇ではある。出張中の貼り札をそこら中につけて周り急ぎ足で外に出て、車に乗り込んでアクセルを踏んだ。
本来であれば私は心配でたまらない絵里ちゃんの元へ向かってもおかしくはないが、そちらへ行って私がどうこうできることなどもないだろう。私は数年前からのことを少しずつ思い起こしながら、まるで吸い込まれるように、とある病室へと導かれていく。
高田総合医科学研究所に、トロイマンが招かれてから一体何年になるだろうか。おそらく絵里ちゃんが入所して割合にすぐ、せいぜい一年かそこらのことだったように記憶している。
ちょうど、確か……、米山君に無理やり代理を引き受けさせて高田が国外の施設をほっつき歩いていた時期と重なる。
所内で散々仕事の割り振りでもめてはいたらしいが、当然、高田から各チームに一応の指示は出ていただろうし、確かに、感情を交えない純粋な見方をするのなら、トロイマンは優秀だった。
特に早川と組んでからはほんの数カ月かそこらで他のどのチームとも比較にならないほどのデータ量を築き上げた、という点で、もちろん彼女は評価されてしかるべきではある。
高田にしろ早川にしろ、仮説の段階的な検証をわざわざ進んで行うことは少なかったし、地道な作業を行うにはあまりに多忙だった。そこを補う役割として、彼女以上の適任はおそらくこの世の中に一人としていないことだろう。
……しかしながら、彼女が優秀な研究者であるからといって、私にとって、あるいは他に所員にとっても信頼に足る人物にはなり得なかった。
トロイマンの顔を知る者は研究所の内部においてすらそう多くはない。というより、ほとんどの者が彼女のことを名前しか知らない。
早川と比較しては元も子もないが、彼女はあまり社交的ではなかったし、立身出世のそうそうたる人物の中にして、それまでに積み上げた実績も築いた派閥も皆無だった。
顔の見えない噂すら聞かない者を信用せよと言われても、そう簡単なことではない。私が一番最初に聞いた彼女の噂話は、トロイマンと、一緒に行動するようになってから『早川の様子がおかしい』と、多数の部門から訴えが続出したという、いわば悪評だった。
私もそんな感想を抱いた一人ではある。早川は、まああれでいて高田のことを慕っている様子であったし、それまで少なくとも与えられた仕事に対しては純粋で誠実な答えを用意してきた。
当時はそれこそ『早川ですら風邪を引くのか』と笑い話で済ませていたが、この時既に、その二人組のチームにおいて、片側の車輪が歪んでいるものだから、どこかおかしな方向へと進んでしまう、そういう兆候はあったのだと思う。研究は、早川が主導しているものだと、誰もが思い込んでいた。




