表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
139/289

八話①



『そのいくつかに、あなたはいずれ気づく』


 市倉絵里に出会わなければ、あなたはミーシーを止める選択肢とそれが意味する結末を隠されたままだった。これはもちろん、一時だけの麻酔にしか過ぎないのでしょうけれど、だけどあなたは、ミーシーがアンミの傍から離れたら、何かを失ったように感じて寂しいのでしょう?そうはならないように。


 アンミを助けてあげたいとあなたが願うのなら、岩に囲まれた細い隙間を指さす。もしもあなたがそれを道だと思うのなら、それでもきっと構わない。


 岩肌に擦り傷を作らせて舞う砂にむせ返り、日の少ない暗い場所に身動きも取れず進むことができなくなったとして、誰も、私も、あなたを責めたりはしない。来た道くらいは戻ることができるだろうから、私は岩の隙間を示す。


◆『普段、姿を見せない彼女に対する戸惑いと、聞くところによるセラという人物』


 連れ立って歩く十一人の男は全て顔見知りであったから、次々と身振り手振りでこの件に軽口を叩き、今回四時間に及ぶ説明会の退屈さも相まってか、その後にふらふらと次なる会場へ案内される私たちのことを『トロイマン観光ツアー客』などと自称し笑い合っていた。


 普段ふざけた空気など一切放たない笹塚さんまで、口もとをだらしなく伸ばして白目を剥く変顔をなんというか唐突に、誰に見せるわけでもなく披露した。さすがにそれは単なる寝不足の可能性があるから誰も突っ込みはしなかったけど……、とにかくいつもと違う空気だった。


 気難しい人なのだと聞く。分子生物学分室は全員決まって過労死寸前なのだと聞く。機構監事にすら圧力を掛け手を引かせ謝罪文まで要求したと聞く。観測機器の電子表示がコンマ数秒遅れたために全て機材をぶち壊し四年前の予算だけ前年比六百パーセントなのだと聞く。


 挨拶どころか顔を見たことすらなかったし、トロイマンは東京の高田研究所に勤めていると思い込んでいた。


 ああ、そして、元々から建っていたこの研究棟は今やお偉方様が小指で鼻くそを飛ばすように首切りする処刑会議場として使われているらしい。私もここへ入るのは初めてであるし、入所してすぐに教えられた決まりの中に『入ってはならない』ではなく、『近寄ってはならない』という文句が含まれていた。


 私たちが通らない薄暗い通路や部屋にはいくつも赤い点滅灯が瞬いていて、一度あの薄暗い中に引き込まれてしまえば、オオカミだのゾンビだのが私に食らいついてきておかしくない。


 よくも彼らはそんな笑顔を見せて歩いていられるものだ。ただしもちろん、目的地の一室を指さされた途端、さすがの彼らも深呼吸を繰り返しネクタイを締め直ししきりに自らの頭を撫で寝癖がないかを確認した。


『どうぞ』と女性の声が聞こえてきて、私たちはきちんと整列し失礼しますと深々と一礼してから、その部屋へ入った。


 そこにトロイマン本人がいないことに安堵し、そしてモニタが映すおそらくガイドであろう女性の顔は若いどころか幼いようですらあったから、私の波立った呼吸も少しばかり落ち着いてくる。ただ、全員が入室を終え私が深呼吸を試みようと思った瞬間、一人が余計なことを言い出した。


「トロイマン本人は今回いらっしゃらないんですか?」


 案内人だった市倉マネージャーは確実に彼の発言にぴくりと反応し非難めいた目線を送ったし、彼の隣にいた私も体を震わせるふりをして肘を思い切り彼へと突き立てた。


「私がトロイマンですけども」


 という、モニタの向こうのお茶目な冗談に私は愛想笑いを浮かべて場を和ませようと思ったのだけど、口角を上げ歯を見せたところで、市倉マネージャーはモニタ通信の死角に入り込み、もの悲しそうな顔をして首を振った。


 慌てて振り返ると、年代の高い人間は決まって私たちを隠れ蓑に後ろの方へ立っていたし、誰一人として笑ってなどいなかった。私の前にいて、市倉マネージャーの動作に気づかなかった愚か者は、彼女のお蔭で場が和んだとでも勘違いしたのか、「あは、皆見たことないから、実はトロイマン日本人説とかそういうのが色々あるんですよ。でもそういう前にやっぱり若過ぎて、あはは、あは、あれ」と、完全に空気を読み違えて孤立した。


「あれ、え。でも、トロイマンって……」


「私が話を始める前に、私がトロイマンだと信じられないと、もしかして都合が悪いことがありますか?納得するような証拠でも揃えたら、そんなしょうもないことを証明するために掛かった無駄な時間を補償してくれたりするのでしょうか?私はどう思われても別に構いませんが」


 そして、さすがのお調子者も絶句する。私も半信半疑、どころか、まさかこのかわいらしいお嬢さんがトロイマンだなどとは信じていない。


 ただし、代理人がそう名乗る以上、いくら疑問に思うことがあっても下手な口出しはするべきじゃない。今ここで、彼女はトロイマンと同等で、トロイマンとしての発言を行うためにいるのだから。


 もっとも、お調子者の言い分は私も内心では同意する。トロイマンの名で署名された論文は、古語染みた難解な表現が散見していて、割と古い時分の医学英語がわざわざ略称なしで使われたりもする。小さな部分では誤訳といえなくもない解釈が含まれているし、日本人らしき、おそらく英語圏では一般的でないコロケーションも間々見られる。であるから、いかに価値ある内容であったとしても他の学者が引用する際には、慎重に二次翻訳を待ったりなどする。


 高齢で、日本人か、少なくとも英語圏での教育を受けていない者、という推理は至極妥当で、モニタに映る金髪碧眼の彼女が仮に英語圏出身でなくてもいくらでも情報を取り寄せられる上、留学などいくらでもできるこの時代に英語の論文をああは書かないだろうし、若いのならおかしな癖のある文体もすぐに柔軟に修正できるはずだ、という感想を持っていた。


 つまり彼女はああしてトロイマンの代理を務めているわけだけれど、代役を演じるにあたって差し支えないとトロイマンに判断された超優秀な女の子、ということになる。であれば、話し合いを嫌うトロイマンがわざわざ気を利かせて、……もしかしてトロイマンの娘さんか、下手をするとお孫さんか、話し合いをできる人を寄越してくれたことに、なる、はずなのに、


 入所が早かった順に、強張った表情に蒼ざめを湛える集団の中にいて、私は何がどうしてそういう雰囲気になるのかわけが分からない。


 市倉マネージャーに至ってはもう何かを諦めたかのように顔を逸らしてこちらを見てくれない。そして澄んだ声で彼女のご機嫌を取るように柔らかくこう言った。


「あなたが前に、……正門の方から入ろうとしたことがあったでしょう。私はその時にもせめて年齢くらいは知らせておいても良いのではないのと言ったわ。その時も断ったし、いつもなら人前にだって出たがらないでしょう。あまり人から見た目のことを言われたくないのかと思ってたの。私もわざわざ……、言われる側の気持ちも分かるから、外見がこうですなんて説明はしてないわ。……なんで今日に限ってこんな準備して。それと、牧野さんはどうしたの?ここにある備品はどこから持ち出したの?峰岸先生は今回のことはちゃんとご存じ?」


「牧野はそのぉ、お遣いで今多分、中国にいます。まずは中国へ行きますと言っていました。スクリーンは一階の予備室と一般棟のモニター室のを何枚か貰いました。結局、一番傷の少なかった予備室のを使っています。顔を出す必要はないと思ってましたが、峰岸先生が大切なお話は顔を合わせてするべきだと仰いましたので。あと、絵里さんの顔を立ててあげようと思いました。失礼があっては絵里さんが困るのではないかと思いました」


「なら、事前にそうすると私に連絡してくれたら良かったわね。あと、こちらも一応、入室したら私語はないようにお願いしたでしょう」


 そして、失礼がないようにとの忠告も受けているし、見本となるような大人としての振る舞いを求められてもいた。それは万が一、私たちがトロイマンと対面するような事態になればということだったけれど、まさか……?


 まさか……?まさか『年少組』?トロイマンが『年少組』?市倉マネージャーを見るまでそんなわけの分からない制度、存在するはずがないと決めつけていた。実際に市倉マネージャーを見れば奇跡だと世の中の仕組みを疑った。そして、まさかモニタの女の子がトロイマン?いくらなんでもそんな奇跡が私の目の前で安っぽく何度も起こるはずがない。


 これは代理人に対してもトロイマンと同じようにしなさいということであって、あるいは市倉マネージャーは彼女のことをトロイマンであると明言して保証することはしないながら、澄ました顔して冗談を言ってみせただけのことだろう……。市倉マネージャーだって時には冗談を言うことがあるだろうし、初代年少組伝説の早川忠道だっておそらく空想の英雄でしかないし、……トロイマンがモニタの少女だということは一見する分にはまずあり得ない。


 きっとあの例の早川忠道さえも複数人の組織の代表者の代理人としてお遣いした子が勘違いされて噂が広まっただけだ。きっとそのはず。


 ああ、あれ、そしてそして、だけどだけれども、モニタの彼女はそのぽんぽん起こるはずがない奇跡の片鱗をこちらへと突き付けている。わざわざ証言を集めたり物的証拠を見つけるまでもなく、


 ……あれ……、あれれ……、そうなると状況的に、もしかして、三人組のトロイカって、代表のことじゃなくて、年少組の三人目?なるほど、だとすると彼女がまさしく、高総医科研分子生物学分室室長、トロイカの駆逐艦トロイア・トロイマンその人である。資料を確認する素振りすらない滔々と流れる詳細な報告を聞かされ、こちらのグループが質問する度に、彼女は私たちが馬鹿の集団であることを確信させるほど的確に資料を示す。


 こちらはただ一生懸命、紙媒体であれば持ち運ぶことすら困難な六千八百枚の概要から正直不必要と思われる取捨選択のない無数のデータリンクを張り巡らせた、事前に配布されたそれ専用の端末をあわあわおろおろ操作して、段々と縮こまってきょろきょろ落ち着きなく指定されたページを探し、彼女の言う通りの説明が載っているという事実に幾度も心臓を貫かれる。


 私など誰もこんなもの一週間やそこらで読み終えるはずがないと高を括って寝る前の読書代わりにセラ編を読んだだけであったから、『トロイマン』から一言『読みましたか?』と声が掛かった瞬間に卒倒してしまう。


 ああ、だから、私の後ろに隠れている二人は殴り合いでもしたかのように目の下に隈を塗っていて、笹塚さんはスライドの合間に誰に見せるわけでもない意図不明の変顔をしていたのか。……気づくのが、あまりに遅かった。


 頻脈と目眩を感じながら、震える指で端末を操作してこの時が早く終わることだけを望んだ。だけれど、私個人がどうこうというよりも私の周りにいる者の内いくらかがこの危機的状況に際してまでもあまりにのんびりしていて……。


「そ、その部分はさっき説明をしてくだくださっただろ、ひとろくふたよんの、み、みっつ目のリンクだっ、貸せよっ、こっちと同期させるからっ」「え、ああ、す、すまん……」

「き、聞き漏らしたなら私に聞いて、くださいよっ、あ、し、室長様、ぼ、ボード機能使ってい、良いですか?私の元の端末でなら大体の図示はでき、できるかも、しれなぃのですので……」


「独自プロトコルで問題ないならどうぞ。ただ記録は絵里さんの方でお願いします」


 余計な仕事を増やしたりあと私自身が目立ってしまうことにはなったけれど、なんとかトロイマンのご機嫌を損ねないように、そして連帯責任として首を取れなどと命じられないように、私は狂乱に歯を鳴らして同僚や先輩の端末をひったくり二本三本の指では支えきれなくなったペンをグーで握ってパネルを引っ掻いた。


 ただ、割合にこの時トロイマンは理解力の乏しい怠け者の我々に対して寛容で、嗚咽を堪えてがたがた腕を揺するだけの鼻水を垂らした私を『一生懸命でよろしい』とお誉めになってくださったりもした。


 永久に続くトンネルから息を切らして抜け出すと、ようやく私が一応読んだセラの話題が芽を出し始めた。それは長編小説数本分のまさしく記録の海だったのだけど、『そこ、そこぉ知ってる……。そこ、読んだ』としきりに頷いて、痺れた腕が小舟の縁を掴んだことに舞い上がる。


 そしてやっと小舟に乗り込むと、張っていた気が抜けたのか幾分落ち着きを取り戻して、周りから出るトロイマンへのしょうもない質問を許してあげられるようになった。『読んだ?』とどうぞ聞いてください、室長様。そこなら、読みました。


「アンミはセラ村でセラの保護下にいるんですよね。け、けれどそうなると、そのセラという人物をどうにかできるようには思えないのですが、その……」


「そうでしょうとも。私もその場で見てましたが、十二層でコーティングされた四層の繊維強化ポリカーボネートを壊さずにすり抜けた。どの観測層にも影響を与えずである。その後は六十センチのコンクリート壁をすり抜けて消えていったし、あとちなみに警備の人は自分が使ったガスで一人倒れていました。倒れていましたが、ほとんどガスも分解されていたようで、すぐに目を覚ましました。拳銃を取りにいって発砲を試みた者もいましたが、どこにも弾痕、血痕が見つけられず、後の調査によるとどうやら、弾丸の一部分は空気中の分子に混じってしまったようでした。セラに対してはQCで均衡値が取れるかは不明である」


「その人物が対象を保護しているとなると……、私たちは当然手出しをできません、よね?違ったらすみません……」


「普通であればそうだ。そして、セラが不死であるとすれば、というより、不死であることは辿れる範囲での記録で大体分かっていたから、私たちは永久に手出しができなかった、というのは正しい。けれども比較的最近、実際にセラと接触していた人間が残した記録によるところでは、『セラは老いることを選び、そうなるよう世界を書き換えた』とされている。事実、せいぜい四十代の外見であったと少なくとも数十年前から語られるセラは、アンミちゃんを保護して以降、人より早く歳を取っているように観察されている」


『セラに天命はなく、人として生を生足らしめる法則におらず、同じようでいて違う時を歩むことは悲しく、けれど、老いる私と世界を許した』『過ぎる時は共にあるべき彼らを殺してしまうものだから、セラはこうして泣くのだろうか。私の時も泣くのだろうか』

『枯れた地を美しく咲かせ、もしも誤って負った傷があればたちまちそれを癒してくださる。だとしても、セラは他の者から死を奪うことだけは、決して望まなかった』

『セラが呪わぬものなら、私は誰よりも呪う。失われることのない命などセラに与えたこの世界を』

『もしも私の願いが叶うのならば、永過ぎる永遠に安息の眠りを贈りたい。浦島太郎に玉手箱が与えられたように』


 それは、壮絶な、人々に混じり畑を耕す、神話の中から現れた人物だった。誰よりも死を願われた、愛深き男のお話だった。


 全能の大魔導師セラは、人智を超えた異形の魔法を、ただはげ山にいくらか緑を育て家を建て、村を作る時にだけ使い、それ以降はひっそりと滅多なことでは、まして自分のために力を使ったりはしなかったのだという。


 木々を生い茂らせることはできたのに、季節ごとに種を蒔き、川を走らせることなど造作ないことのようにしてみせて人々を喜ばせたのに結局井戸を作って水を汲み、稲妻を退けることはできたけれど、晴れが続けば彼の畑にできた野菜が枯れたのだという。


 そして傷を癒すことはできたのに、それをその者の天命だと悟ると泣き縋る者と共に泣いたという。


 当然、彼の日常の振る舞いを見ている者にとって、彼が過去に行った壮大な魔法など想像する術もなかっただろうけども、ただ一つ、人と違ったことに、何がなんでも分かることに、彼は歳を取ることがなかった。数年、数十年、彼と共に生きてきた者はセラが泣く度にこう思った。『セラは死ねないんだ……』。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ