表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
136/289

七話㉘



『市倉絵里の、十年前の記憶』


 はぁはぁと喘ぐような息づかいに続き、ずるずるガタガタと一定の間隔で何かを押しやる物音が、壇上に設置された二つのスピーカーから漏れ続けていて、その事態の発見者は一様におしゃべりをやめ瞳を釘付けにされた。


 彼がこの場に現れることを予期していなかったおそらく、この会に参加した全ての人々は、緩やかな波のように体の向きを一方へ揃えていき、それぞれがざわめきを吸収するかのようにぽっかり口を開け静まった。


 事情や感想は少しばかり周りと違うとはいえ、それは早川の正確なスケジュールを把握していたつもりの私にもいえることで、『ああ、また、あの人か……』と、呆れ半分の乾いた笑いが零れそうになった。


 来るはずもなければ、来られるはずもなかったのだけど、それでも早川忠道という男は、こうして現実を見せつけて常識を諦めさせる。


 早川はすぐには壇上に立とうとはしなかった。荒れた息づかいが長く変わらず続いていて、季節外れの長いコートを半身に被せて何かを隠そうとしているように見えた。


 静まり返った場内に、ただ一人の男の吐息ばかりが響いている。


 早川に限って、過去、礼節を忘れた傍若無人な闖入劇がなかったはずがない。私の知る限りでも、早川は大小関わらず『会』と名前の付いた催しごとには好んで参加したがったし、彼のそういった振る舞いは所内所外のあらゆる場所で有名ではあった。


 そうであるから、あれがすぐに早川だということには気づけたのだけれど、この静寂が長く続く理由が、いまいち判然としない。


 おそらく歓声がなかったのは……、


 早川の表情が、見たことがないほどに、険しいから、なのだろうとは思った。


 ピンで襟元に挟んだマイクを二度弾いて、スピーカーの調子を確認した後、早川はぎこちない笑顔をこしらえてこう言った。


「ああ……、皆さん、こんにちは。丁度良い機会だと思ったので、僕は、そうですね……。早川忠道です。ご存じの方が多いとは思うんですが」


 彼のここまで気弱な声を聞いたことがなかった。耳障りにかすれて、たった一言の間に何度も唾を飲み込む音がした。


 それまで私は早川のことを、風邪も引かない機械的な超人のように考えていたから、このような彼の異変に強く興味を持ったし、そうなる理由は何だろうかと、端から体調不良などの可能性は取り払って分析してみたくなった。


 大勢を前に緊張するような理屈があるのなら、それは一体なんなのか。


 よほど後ろめたい告白が続くのかも知れない。例えば……、ほんの少し時間が経つと、世界が滅んでしまうような。


「はは……、経緯を話すと長くなってしまうので、簡単に説明します。この子を紹介、しなくてはなりません。賭けをして、負けてしまいまして」


 私はここまで聞いていくらか落胆してしまった。ついでにため息も吐いたかも知れない。


 この子と言って早川が肩から掛けたコートを持ち上げて示したのは、年端もいかない小さな子供で、つまりは、それが先程から噂になっていた例の三人目であることが私にも分かった。


 身を震わせて背筋を曲げて、それがどんな演出のつもりなのかは知らないけれど、要するに三人目の自己紹介で、お節介を焼いてあげたかったに違いない。


 少なくともその子が早川に懐いているふうではなかったから、あまり合意を得た上での段取りというのではないだろうし、あちこち壇上を歩き回る落ち着きのないその子が早川に合わせてアドリブをしてくれるような期待はゼロに近い。


 早川のお節介がどれほどの迷惑になっているか察すること難しいけれど、そもそも辺りをきょろきょろと見回す割に、その子は全てに感心がなさそうな、無表情のままだった。


 やっと一点に定まったその子の視線の先に高田誠司院長の姿を見つけた。


「そして、大変申し上げづらいんですが、まあ今回クローゼ博士も場におりませんし、何もなくお開きになっては困りますよね?僕も引っぱたかれるのを覚悟でここに顔を出しているわけで……、ただご理解頂きたいのは、これはこの会を譲り受けたこの子が、これはクローゼ博士もご承知のことで、どうしても、やりたいことがあるからです」


「フィリーネ、トロイマンです。えーっと、早川先生にご協力を頂きました。興味がなければ大半の人は出て行って貰っても良いのですが、高田誠司先生と峰岸昭一先生と米山達彦先生には私の話をどうしても聞いて貰わなくてはなりません。三人の先生に、私を認めて貰わなくてはなりません。早川先生はそうした手伝いをしてくれることになりました」


 早川はあらかじめ緩めていたマイク付きのネクタイをトロイマンの首に掛け、トロイマンはその瞬間から話し始めた。どこか声の響きに幼さは残るけれど、まずそれが日本語であることに私も含めて皆が驚いていた。


 そして、名指しされた三人のことを知らぬ者などここにはいないから、話の内容を深く聞く前から非難めいた目線が小さな子に向けられることになる。


 早川の直接の上司である高田院長はともかくとしても、残る峰岸昭一先生と米山達彦先生を、いくら早川とはいえ一声で拘束できたりはしない。


 元より穏やかな人柄の二人ではあるし、この衆目の中無下に振る舞うことはないだろうけど、ただ、あまりに序列を弁えないその発言は、周囲からの反発を招くことになる。


 空気を緊張させるには十分な挨拶だった。


「多分その三人はドイツ語が分かると思うので、私はドイツ語で話して良いでしょうか?その方が大人らしい言葉で話せます。ああ、けれども、他の人にも立ち会いして証人になって貰う方が良いとは思っています。高田先生と峰岸先生と米山先生、私と賭けをしてくれませんか?」


「どのような賭けかな?てっきり、試験をして欲しいと言うものだと思っていた」


 張りのある太い声は聞き慣れた響きであったし、そしてこの場で大きな声を上げられるのはまさにその人くらいしかいなかったものだから、私は首を逸らして半ば俯いていたけれど、声の主が高田院長だということは見なくともすぐに分かった。


 本人は穏やかに包んでいるつもりであるのだろうけども、間近で怒号を受けるような迫力が込められている。


「特に、高田先生には認めて頂かなくてはなりません。高田医学研究所の施設をお借りしたいのと、これまでの研究の資料を、詳細なものを私に全てください。これは私が高田先生に勝った時のご褒美になります。私が賭けに勝った場合は……」


「つまりはやりたくない仕事はやらないが研究所に置け、ということかな?私がその賭けとやらに負けた場合、君は私の指図を受けずに自由に研究をやりたい、そういうことなのだろう。私に施設とデータを渡せということは、峰岸先生や米山君からは金品や……、あるいは、君の側近や助手となる優秀な人材をねだり取るつもりなのかも知れない」


「…………。大体仰る通りなので、不満がなければ次へ進みたいと思いますが私が」


「君が負けた場合。これが賭けである以上、私達に十分なメリットがあるべきだと理解しているか?君はおそらく、クローゼ博士も、……まあ、そこの早川も、無理に説得してか騙してこの場を勝ち取ったようだ。そこまででも私は十分、君のことを面白い人物だと認めたし、君の遊びに付き合ってやることもやぶさかではない。だが君と私の利害はそもそも一致しているはずだ。賭けに負けた場合はどうする?君が負けた時の処遇を私たちが自由に決めて良いというような話か?手土産がある歳ではないだろうから、私は君を有効に使うにはどうすれば良いかを考えなくてはならん。君の実力が本物なら、あるいはそうでなくとも今後育つであろうその可能性を見出すために、君を手に入れようとここに来た。君は所内へ潜り込みたいわけだろう。賭けをする意味などない。まして私の他に二人の大先生に遊びに付き合えとは随分な言いぐさだ。知っているか、賭け事というのはまず、差し出してから勝負を行うものだ」


「高田先生のことを調べました。高田先生の周りにおられる優秀な方々のことも調べました。高田先生は私に条件を出すのでしょうが、そのために大勢の証人がいる中で、賭けを持ちかけています」


 高田院長のため息というのは、もしもガヤガヤと騒ぐ者がいたなら、こうまではっきりと聞こえるはずがなかった。なおもまるで二人きり、少し距離を離れて会話をしているように、外野は一言も発することができないでいる。


「…………なるほど。確かに準備が不足していたようだ。今は十分に、理解した。速い馬は餌を与えた瞬間に老いた主人を転ばせて走り去ることもあるようだな、早川か?入れ知恵をしたのは?つまり君は私の出す条件にこの大勢の前で同意するわけだ」


「賭けの勝敗に関わらず、高田先生が必要だと仰るなら高田先生の論文のお手伝いはします。あと、追い出されない限りはということですが、高田先生がご存命の内は研究所を離れたりしません。あくまで、所内での私の研究を私の意志で動かせるかどうかという部分に賭けの勝敗が関係します。そこ以外には特に興味はありません」


「私が賭けに乗ると言ったら……、君は、私以外、少なくとも今ここにいる者の下ではもう働けなくなる。そういうことにしよう。それでも良いのか?君を欲しがる者はいくらもいそうではあったが」


 これではまるきり、高田院長にメリットがない、はずだった。


 高田院長は論文のために新しく人を抱えるつもりはない。所の内外問わず、経験も能力も十分な名の知れた人材が高田院長の一筆を欲しがっている。一読の後の感想文でも貰えたのなら、大金を積むことも辞さない人間が大勢いる。


 当然、高田院長もチームを組むことはあるけれど、高医研の名簿をあいうえお順に眺めたとして、どの分野にも割り込む場所などない。こと先端の医療医学分野に限っていうなら、下手をすると高田院長の論文を引用しない者の方が珍しいくらいで、そんなご大層な人間に向かってお手伝いの申し出など、一人前の研究者なら寝ぼけていてもうっかり口に出したりはしない。


 ご存命の内は……、というのも老齢の高田院長にご機嫌を窺う文句としては最悪のように思われた。


「ほお、そうか!その意味をしっかりと理解して話しているのなら大した覚悟だし、君の実力とやらを大勢に見せつける必要がありそうだ。私は賭けに乗ろう、まさか、ツキを試すようなくだらない真似はしないだろうと君を信じて」


「三人の方に、それぞれ専門の研究分野で問題を出して頂こうと思っていました。答えられたら私の勝ちということにします。これはこちらがそう思っていただけなので、テストの内容については、賭けのその問題については、適当に決めてくれて問題ありません」


 その場に確かにあった違和感は、まるでこの出来事が未来の全てを決めてしまうような恐ろしい予感へと変わっていった。


 けれど、誰が、何を、どうして、そう定めようとするのか、私にはてんで想像もつかなかった。


 少なくともこの時、この場所では。


 その後、私は彼女と別の車へ乗り込むまで、徐々に深まる異様な空気に身を震わせ続けた。早川忠道や高田誠司さえ影に埋もれてしまうほどに彼女の存在感が際立っていることに気がついたから。


 切り抜いた絵画を写真に貼り付けたように、彼女はこの世界から浮いているように感じた。彼女の纏う空気は常に鋭く尖っていて、人間嫌いを隠そうともしない攻撃的な物言いで、結局目的とされた三人以外を黙らせた。


 ところどころ不自然な表現があったとはいえ、日本語が極端に不自由というようにも思われなかった。


 ……そしてその『賭け』とやらは余興では終わらない。


 高田誠司、米山達彦から出された『クイズ』はその分野の専門家が何十もの論文を漁ってようやく答えを見つけるような、逆に言えば『意地悪とはいえない難問』だった。


 おそらく、というより少なくとも私は、その場での即答など想定していなかった。


 公開されている各地の臨床データ、有効とされる治療法と薬理の作用機序の仮説、それに関連する数々の論文の抜粋、出典、果ては薬価の改定履歴や著者の来歴まで、彼女は呼吸の間さえ分からぬほどに淀みなく続け、一纏めが終わる度に「国内ではそこにおられる池井戸教授がお詳しい分野です」と来賓を指さした。


 指さされた者は当然として、その場にいた誰もが顔を蒼白にして、身を固くする。


 最後まで、一人として彼女の間違いを指摘できなかった。途中抜け出そうとした者が椅子に躓き大きな音を立てて彼女に気取られてしまったからか、それからおよそ二時間後、『疲れた方は出て行っても良いです』という言葉が出るまで、彼女の管理する牢獄の中に閉じ込められているような重苦しい感覚が私たちを包んでいた。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ