二話⑧
念のため財布を持ってジャケットを着て部屋を出た。玄関を出て、外出する時の習慣のまま財布についている鍵を見つめて、意味などはないだろうが鍵を掛けて軒先を離れる。
陽太へ、何を話すべきなのか整理しておきたい。店のことを話すのが先なのか、魔法使いのことを話すのが先なのか、果たしてどちらも話したところで何かが解決することはない。店のことなどは特に、暗い話題の悲嘆を分かち合いたいわけでもなく、どうにかなるさなんて嘘で励まし合うことを期待してるわけじゃない。ならどうして、俺は陽太に電話したんだろうか。
けろっとした口調だった。その陽太の声が一時俺の痛みを消し去ってくれた。だが実のところ、冷静に評価してみて、陽太がこの件で寂しさを感じないわけがない。なんなら俺よりよほど深刻に打ちひしがれていて不思議じゃない。本来であれば、俺が陽太を、慰めて励まして、元気づけてやらなくちゃならないはずなのに、俺にはどうしてもそれができるようには思えなかった。かといって慰めて貰いたいわけじゃない。
なら、……話すことなどありはしないのかもな。
「……店長」
あとまあ、偶然というか奇跡的に、陽太には魔法使いの知り合いがいる。魔法について、……今までそんな素振りなど見たことなかったし、話題にもしてなかったわけだが、俺より詳しく知っていて理解がありそうだった。
とはいえだ……。はっきりいって、魔法使いの生態やら何やらの説明を受けたところで、何がどう良くなるのか分からん。まあもしそういうコミュニティがあって魔法使い特有の悩み相談を引き受けてくれるというのなら、俺が斡旋するなりなんなりしてやれるが、二人の抱える問題というのがそもそも、魔法使いであるかどうかは関係ない気はしている。
魔術訓練学校とかがあって、そこを紹介してやれば魔力が高まるとか、……そういうのが解決になったりしないだろう、多分。俺がすべきはむしろ、……現実的な方法として、町の児童福祉課の窓口か、あるいは警察への相談なのかも知れない。頼るべきは公務員であって、陽太じゃない。
そもそも魔法について詳しく知りたいのなら、何も陽太の知り合いの魔法使いを訪ねる必要などなく、面と向かって、今俺の家にいる二人と話しても良かった。そうするのがスジだろう。俺は何がしたいんだろう。
「何が、したいんだろう。どうすれば良いんだろう」
歩きながら途方に暮れてしまった。アパートが見えてきたところで、俺は素直に実感する。相談内容がどうだとか、解決できるかどうかとか、そんなのはどうやら重要じゃなさそうで、……俺は結局、弱って困って、陽太に会いたくなったんだろう。少しずつ不安というのも大きくなっていく。
電話越しでは隠されていた、陽太の落ち込んだ顔というのが、頭の中に、浮かび掛けている。全然イメージは具体的に定まらないながら、陽太のそういう表情とか、そういう言葉とかを、俺は初めて見ることになるのかも知れん。
だから俺もそれに備えて、できる限りは気丈でいよう。微かな笑顔でも心掛けよう。言葉に詰まるかも知れないが、まあ、いつかはどうせ訪れることだ。いつかは乗り越えなくちゃならないことだ。気の抜けた表情で歩いていたことだろう。アパートの階段を上る段に至って深呼吸をして、自然な動きに努めた。ピンポンとインターホンを押し込んで、表情を取り繕う。心情の伴わない笑顔というのは、なかなか難しくて、せいぜい無表情を浮かべて保つのが精一杯だった。
「…………ん?」
しばらく経っても反応がない。中から物音らしきものも聞こえてこなかった。どうなんだろうか。例えば俺とミナコで陽太の家を訪ねる時などミナコはガンガンドアを叩いて陽太を起こす。インターホンは使った記憶がないし、もしかすると壊れてたりする可能性はある。
なんなら開いてないかドアノブを握ってみても良かったが、とりあえずもう一度だけインターホンを押し込んでみた。ピンポンと、鳴ってるのは鳴ってるみたいだが、そうなると約束忘れて出掛けたのか……。
うん……、携帯がないとこういう時も不便だ。どうしよう。ガンガン叩くか、出掛けてるならここで座り込んで帰りを待つか。あんまりどちらも気が進まないし、もう諦めて帰ろうか。
俺は多分、そこで一分かそこら頭を掻きながら長考して、一旦家に帰ってまた電話をすることに決めた。
何も急ぎの用事というわけでもないから、俺も頭をちゃんと整理して話すべきことを決めてから会えば良いだろうと思った。
が、中でガタンと音が聞こえた気がしてドアの方へと振り返る。
「インターホン押すとか誰かと思ったのだが。一分くらいスコープで健介の顔を見ていたのだが、気づいたか?」
「気づいてないが、おそらく相当微妙な表情をしてただろうな、俺は。いないかと思っただろう。帰るとこだったぞ」
「帰りそうだったらこっそりあとをつけるとこだったな」
俺が想定していたような落ち込み具合というのを、陽太からは見出せなかった。そしてまあ、俺も、その陽太の自然な振る舞いに引き寄せられてなのか、今までごちゃごちゃと考えていたことがすっかりと抜けて、頬の筋肉が弛緩する。
「で、今日はお前、さすがに約束忘れてたりしないだろう。出掛ける用事とかはないんだよな?」
「用事はないな。飯食ってうんこするだけだな。ところで、そのだな、健介。まず大丈夫なのかということをな、確認しておきたいのだ」
「大丈夫って、何がだ?」
「健介は例えばだな、ゲーテの、ファウストとか、そういうのを読んだことはあるのか?」
「いや?お前の口から堅そうな文学作品の名前が出てくるのが意外なんだが、ゲーテがどうかしたのか?」
陽太は一度やれやれポーズを作って、俺にその文学作品のあらすじを語って聞かせた。簡単にいうと、まあ、本当に合ってるのかどうかは知らんが、悪魔と契約した老人が若い肉体を得て青春を楽しむという話らしい。
でだ、若い肉体の対価に、最後には悪魔に魂を捧げることになる。『時よ止まれ。汝はいかにも美しい』という、フレーズはなんとなく聞いたことがあるような気はした。
そのフレーズを呟くと、悪魔に魂を奪われてしまう。そんな感じの物語だ。面白そうだなとは思ったが、古典名作文学は難解なイメージがあって読書候補に入れづらい。そして何より、どうしていきなり会ってそうそう、そんな話が陽太から出てくるのか見当がつかなかった。
難しい文学作品を読了したぞという自慢のつもりなんだろうか。まあ、いきなり重い話題から入ってお通夜ムードにならなかったのは幸いだった。
「ああ、まあ。面白そう、だとは思うな。分厚いか?」
「まあな。それで別に分厚さとかはどうでもいいのだ。健介に読めと言ってるわけじゃなくてな、俺が簡単に、重要なところを、俺なりの解釈でな、教えてやろうと思うのだ」
「?ありがとう」
「こう、もしなのだが、そのファウストがな、現代に転生したとするだろう?現代の日本にな」
「いや、しないだろう。そりゃまあ、そういうパロディがあっても良いが、作品の感想を教えてくれるということじゃないのか?」
「なら、別に転生じゃなくても良いのだがな。例えば、俺や健介がファウストだったとするだろ?」
「しないな。したとしたら、つまらん話になってしまうんじゃないか?」
「なったとしたらの話なのだ。で、そうすると、休みの日にブルーレイ見るだろ、アニメの」
「…………?まあ、お前がなったなら?そうかも分からん」
「で、大抵、お色気シーンというのがあるわけなのだが、そうするとリモコンをな、片手に、入浴シーンとかでな、『時よ止まれえ!汝はいかにも美しいブヒィ!』……ほらな、なんてことなのだ。悪魔に魂を取られてしまった。そんなことで……」
「俺は作品知らないからツッコミできないぞ。そんな間抜けな話じゃないだろう、元の話は」
「そうなのだが。健介、なんといって良いのか。あんまり物事一つのことに熱中し過ぎると、他の大切な物を取りこぼしてしまうという、そういう教えを含んだ話なのだ。心に響くだろ?正直、そんな失敗するファウストはダサくて格好悪いし、他にやることあるだろって思うだろ?」
「そりゃ、思うが。まあ良い。とりあえず中入って良いか?なんだ?気を使って関係ない話題を用意してくれたのか?悪いな、なんか、ノリ切れなくて」
「関係なくはないだろ、割と俺にとっては本題なのだ。とりあえず入ってくれ」
「じゃ、お邪魔します」
ようやく中に入ることができた。部屋に上がると少し陽太はしんみりとした表情を作っていて、それに釣られて空気も変わった。空元気でちょっとよく分からん話題を振ってくれたのか。
ぱっと見回す分には、分かってたことではあるが、陽太以外の誰かが部屋にいたりはしなかった。魔法使いの知り合いに、直接会わせてくれるというわけではないみたいだ。急といえば急なアポだったしそれは仕方ない。それに陽太と二人で話す方が結果的には色々気兼ねはない。
「でだ……、健介は魔法使いに、まあ、会いたいということだったと思うのだが」
「会いたいというか、……いや、会って話を聞けるというのなら、それで確かに、……状況を受け入れられるのかも知れん。ただ、別に、なんならお前から簡単に教えて貰うのでも良い。今となっては……、俺はちょっと疲れてるのかな。諦めのような心境にあってな。そんなことまで相談して大丈夫か?お前だって、その……」
「大丈夫だぞ。魔法使いにも会わせてやるのだ。魔法使いの女の子だろ?そんなに慌てなくてもちゃんと会わせてやるのだ。話もな、すれば良いと思うぞ」
まあ、……魔法が実在かなんて話はもう通り過ぎたとして、魔法使いのコミュニティが互助活動をしてないかとか、あとそうだな。俺の体が魔法で治ったという件について、副作用的なものがあったりしないのかとか、そういうことはちょっと聞いてみたい。
普通の食事とは別に定期的に魔力の供給が必要だったりするなら、それもまあ、なんか対策案を教えて貰うのが良い。二人は普通に生活してそうだなあとは思うが、本人からは言い出しづらいことがあるかも分からん。あと純粋に、魔法の原理とか、修得可否についても興味がないことはない。
さすがにアンミとミーシーよりは、ちゃんとした説明をしてくれるだろう。
「で、それはいつ会わせてくれるんだ?今日来てくれたりするのか?」
「来てくれるぞ。ちょっと待ってると良いのだ」
ああ、そこまで手筈を整えてくれてたのか。意外だ。つまりここで待ってれば、俺のためにわざわざ来てくれるということか。そうするとちょっと緊張してきた。
陽太は別に連絡をしようとするわけでもなくその場に座り込んでテレビをつけ、リモコンを操作していた。
「悪いな、なんか。俺は確かに、ちょっと切羽詰まった感じで電話してたな。ありがとう陽太」
「ああ」と、陽太は返事をして、右手のひらを上に向けて、どうぞというようなしぐさをした。お礼に対するジェスチャーにしてはなんか妙だなとは思った。
「…………」
「赤い髪の魔女っ子と、青い髪の魔女っ子と、紫の髪の魔女っ子と、銀の髪の魔女っ子と、健介が気に入った子と、話しててくれて良いのだ。俺はその、じゃあちょっと席を外した方が良いか?多分話してたら、たまにな?ちゃんと会話になったりすることもないことないだろ?」
陽太の右の手のひらというのは、……どうやら、テレビを、示していた。
「……ん?」
「勇気づけるような、そういうフレーズとかも出てきたりするしな?」
「俺は、なんかお前に、……間違った説明をしたのかな」
「今おっぱいが揺れた子がな、エイドリアン・スコーだな。隣の子がリアン・カーバイルなのだが、で、あとしばらくすると他の子も出てくるのだ。名前はそんなに最初から覚えなくても良いと思うぞ。でも呼び掛けるなら、ほら、一応言っておいた方が良いかと思ってな。じゃあ、なんか聞きたいことあるか?なかったら健介一人で」
「いや、……ああ、いや、すまん。いてくれ。俺は誤解を受けてないか?俺も誤解してた部分があったみたいなんだが……、お前は俺がまさか、アニメの女の子と話したいと言ってるなんて思ってたのか?」
「アニメのというか、アニメかどうかは、な?そっとどこかに置いとくとして、魔法使いの好みの女の子とお話したいということだったろ?」
「俺は……。なるほど。混乱してたんだなあ……」
多分、しっかりと陽太に分かるような説明をしてはいなかったんだろう。都合良く早合点していたんだろう。
「何かあったなら、俺に相談してくれても良かったのだがな。でもまあ、俺じゃあ力不足ってこともあるのだ。俺には話しにくいこととかもあるだろうしな?」
「…………。そうか。じゃあ、見ようか、アニメを」
だとすると一体陽太は、俺が魔女っ子に会いたい話したいと言い出した時、俺のことをどう思っていたんだろうか。いくらか納得のいく部分がある。心配そうに俺を見る様子とか、諭すように作られた話し方だとか、そういうものはどうやら、あらぬ勘違いの上に出来上がっているようだ。
俺が混乱して慌てて要件を伝えて、……でだ、陽太も多分言いたいことはあったんじゃないだろうか。何を言ってるんだ、頭がおかしくなったのか、魔法少女なんてアニメの中にしか存在しないことも分からないのか、
……とは言わず、『じゃあ、会わせてやる』と陽太は言った。いるんだ、いないんだという議論を放って、俺の頭がおかしくなっているかも知れない不安を置いといて、そう言った。
優しくはある。なんて優しいんだろう。ここではさすがに馬鹿にするなと言う気にはなれなかった。わざわざ俺のために用意してくれたのは間違いないんだから。
「なあ陽太。お前の想像で良いんだが、治癒魔法とかそういうのは、副作用とかあったりするのかな?」
「どうだろうな。作品によるとは思うのだが割とインフレしてくると腕とか足とか普通に生えてきたりするしな。魔力さえあればなんとかなるんじゃないのか。多分なのだが」
「そうか。じゃあ、そういうことにしとくか」
陽太には迷惑だったろうなとは思う。ただ、居心地の良さがちょっとずつ浸透してきて、不安が消えていくのが分かった。