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AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
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七話⑱


「ミーシー?あれ……。ミーシーが食べないの珍しい。お腹痛い?ミーシー?健介、お腹痛い時の薬ってある?」


 立ち上がって階段を覗き込んだアンミの呼び掛けにも、答えは聞こえない。俺が「もしかして予知が……」と呟き掛けた言葉を遮って、ピンポンと、インターホンが鳴った。


「なんだ……。客など来るとは思えないんだが……」


 不都合な、未来というのは一体どんなことが想定されるのか。嫌な予感というのはしている。ただし、このタイミングでこれが起こらないことをミーシーは予知していたはずだ。


 だから、不都合なんてのは、起こるはずがない。黒い女は、……それを保証していて、あの女が?いや、一旦落ち着け。まだ、インターホンが鳴っただけだ。


「ミーシーが、予知してて?もしかして誰かミーシーが嫌がるようなお客さんだったりする?」


「……もしかすると、な。まあただ、まだ分からん。だが」


 言葉に詰まった。ここはまだ、予知可能域のはずだ。妨害が入ればミーシーはその異変を、前もって知ることができる。そうした説明を黒い女から聞いている。


 ただし……、商店街も本来は予知可能域で、そこで起きたアンミの不自然な移動が、もしも……、もしも単なる予知不調じゃなく、黒い女側の用意した予知対策によるものだとしたら、ミーシーは直前まで何が起こるのか、正しく知れなかったという可能性が十分に考えられるわけだ。


 考えられるが……、そうなると、一体何故今なのかという疑問も浮かんでくる。


 昨日、アンミが行方不明で、俺がミーシーを背負って帰った時などこそが、アンミを手に入れるための絶好のチャンスではあったはずだ。今よりもよほど抵抗なく、アンミを連れ去ることはできたように思う。


「アンミ、待ってろ。多分迷惑な押し売りとかなんかそういうのだろう……。とりあえず、ここで待ってろ」


 アンミは椅子に座って心配そうにこちらを見ていた。いざという時すぐに逃げられるかどうか分からない。嫌な緊張感が胃を絞めるし、食後すぐに、全速力で走り続けるのも難しいだろう。


 逃げるならどこへ……。隠れるなら、追われたら。戦うにしても……。思考が巻きついて手足の感覚が鈍い。


「健介落ち着くニャ。今ちょっと外見てきたけど、優しそうな人ニャ。ミーシーが逃げたのは何かの間違いだと思うニャ」


 足元にいるミーコの存在にすら、声が届くまで気づけなかった。ドアスコープを覗いて姿を確認する。鍵は開けない。会話はインターホン越しにすれば問題ない。


 もしもこれが緊急事態なら、ミーシーもちゃんと動くはずだ。合図の一つでもあれば俺が時間稼ぎをしてやることだってできる。


「優しそうな、優しそうな……、人か、まあ。…………」


 事情を詳しく知らないミーコなんかにはそう見えるのかも知れないが、事情を出発点に考えてみれば、一見して穏やかそうな人物を囮に寄越すことは十分に考えられるだろう。


 悪いがミーコの感想をそのまま受け取って無害な人物であると判断することは難しい。


 ドアスコープを覗いて、その人物の姿を確認した瞬間、ぞわりと悪寒が走った。


 暗がりで佇む男の特徴を細かく認識することは難しい、とはいえ、少なくともミーコの言う優しそうな人、という情報は誤報だろう。とりあえず、優しそうな人という言葉で俺が想像した老齢の紳士というふうではなかった。


 光の加減のせいか白髪混じりにも見えるが、顔つきから考えてもせいぜい三十代か四十代といったところだ。暗い色のスーツにネクタイを締めていた。ただこの場合、年齢など大して意味のある情報じゃない。服装など更にどうでもいい。


 一目見ただけですぐに分かった。……俺はこんな形相の人間を、初めて見た。まるで今、俺がドアスコープを覗いていることを分かっているかのように体を屈めて顔を近づけてくる。


 いやにくっきりとした二重の瞼と深い彫の奥からぎょろりとこちらを探るその視線がドアの存在が心許なく感じるほどに鋭い光になって俺を突き刺す。無理に釣り上げたかのような唇は俺にも引きつった笑みを強要しているようだった。


 僅かに覗く整った歯の並びの奥の方に、尖った八重歯が見える。不気味な笑みがすぐ一枚扉を隔てて存在している。


 表情がそんなふうに崩れているだけならまだしも、隠されもしない太い首と太い腕が、俺に絶望を知らせている。


 屈めていた体をすっと起こした時にやはりスーツを着ているとはいえ、まず見掛けないような、不自然な体格をしている。加えて、一歩重心を移動させるための動作にさえ、流麗さが見て取れる。


 俺は果たして、この男に組み付いたとして、どれくらいの時間を引き止められるものなんだろうか。一分……、三分……。


 俺がどの程度動けるものなのか自信がなかった。まともな力比べをしたら、何一つ敵う要素がない。男がふてぶてしく悠然と構えた後、突如ドアスコープからの情報が真っ黒に塗りつぶされてしまった。


 ドア越しの声はあまり聞き取れないが……、おそらく外側のドアスコープを指で覆ったんだろう。「いないない……、ばあ」と、指を除け再び顔を近づけ、俺に恐怖心を更に煽った。


 この男は完全に自分の優位を確信し、こちらの動揺を見透かしている。でなければ、こんな、表情を浮かべたりしない。あるいは元より正気を失っているようにすら思えた。「おぉい、おぉい」と、男は唇を横にひしゃげさせ、ゾンビのように白目を剥いてこちらへ呼び掛け続けている。


 俺は、呼吸を整えなければならない。警察を呼ぶぞ、さっさと帰れと、言わなくてはならない。そして、再びインターホンが鳴った。


「……どちら様ですか?」


「おぉ、寒い。は……、じめまして、健介君なあ。寒いし連れがいるから鍵を開けてくれると助かるんだが」


 震えで揺らいだ低い声がいくらかの風と混じって、まるで全てがノイズだったかのように錯覚させる。鍵を開けろという要求で、外にも仲間がいるらしい。ドアスコープではこの男以外を見つけることはできなかった。


「どんな用事かと聞いてるんだ……。押し売りか?しつこいなら警察を呼ぶぞ。もしそれ以外の用事だとしても相手はしていられない。さっさと帰ってくれ」


「ああ。怪しい奴だとか思ってるだろ。アンミかミーシー出してくれ。それも無理なら、ふ、……屋根登って入っちゃおうかなあ」


「…………。アンミ?誰だ、そんな奴はここにはいない。警察を呼ばせて貰う」


 それだけ言い放って、荒い呼吸のまま急いで台所へ戻り、受話器を片手で持ち上げた。


「アンミ……。今すぐミーシー連れて逃げろ。見たことないような……、凶暴そうな人間が外にいる。ミーシーに予知して貰ってすぐに逃げろ。……なんとか、一分で逃げろ」


「凶暴……?えと、分かった。ミーシー呼んでく……」


 警察、いや待て、救急車の方が良いのかも分からん。救急車を前もって呼んでおけば、心置きなく戦うことができる。


 多分、一分はあの男を引き止めることができる。とりあえず両方だが、まずは救急車を呼んでおこう。


「…………っ?」


 一、一、と押して、続けてあと一桁どちらか二つから数字を選んで押せば良かった。


 その一瞬の迷いが、……ほんの一瞬の遅れが、無慈悲な決着を生む。いや、どちらにせよ、俺が通報して用件を伝え終わることなどなかっただろう。


 俺の意思とは全く無関係に伸びてきた男の腕は俺の指の下側を潜って、トンと通話終了のボタンを押した。受話器からはコール音が聞こえてくるはずもなく……、どこから入ってきたのか、スーツの男は俺のすぐ後ろに立っていた、どうして……、どういうことだ。


「ど、……どこ、……、から」


「どこからともなくな……、不審者じゃないぞ、まったく。安心しろよ?なあ、アンミ……。どこら辺がだ、どこら辺で俺がそんなふうに見えるんだか……。なあ?」


「なあ」と、声を掛けた先には、当然まだ逃げるためにミーシーを呼びにいく準備中のアンミがもたもたしていて、俺はなんとかその間に立ちはだかろうと体を捻った。


「アンミ、まだ逃げられる。……何してる、アンミ?」


「あのぅ……、健介とはじめまして。ミーシーのお父さん。スイラお父さん」


「…………スイラ、お父さん?」


「うん。スイラお父さん?」


「……本物か?それ本当にスイラお父さんか?俺は怖くてちょっと見れないんだが……」


「うん。本物?ミーシー呼ぶ?」


「何が起こったんだ、一体。何故最初にそう言わないんだ。ミーシーは何してるんだ」


 まだ呼吸が落ち着かない。手のひらには開いて閉じても乾く気配なく汗が滲んでいて、首に手を当てると随分と熱を感じる。


 深呼吸をしてみる。……アンミが身元を保証するなら、さすがにそれが嘘だったりなんてしないだろうから、お父さん本人ということになるはずだが、……ミーシーがどういうつもりで席を立ったのかが分からない。


「はじめまして。スイラお父さんというか、お父さんスイラだ。よろしくな」


「…………。はじめ、まして……、どこから、入ったんでしょうそのお父さんは」


「いやあ、警察に通報されるところだった。現代っ子は何するか分からんな。仕方ないから風呂場の窓からこんばんは。狭いところ通らせやがって」


「…………こんばんは。風呂場の窓から入られたら警察通報してておかしくないと思うが」


 明るいところで落ち着いて見ると、まあ、なるほど。ミーシーの家系だと判断できる材料がある。暗がりで白髪に見えた、その青い髪はおそらく人ごみの中に紛れ込んで街中で一度すれ違っただけでも、誰かのことを連想させる。


「一応、先に言い訳しておくけどな、驚かすつもりなんかはまったくなかったんだぞ。何をそんなに警戒心一杯なのか逆に聞きたいくらいだな」


「邪悪な……、笑みを浮かべてただろう、首の筋を浮かして牙を見せて……。あれで不審者じゃなかったら、一体何が不審者なんだ」


「落ち着けよと言っても取り合わんし、ミーシーかアンミ出せと言っても警察に連絡すると一点張りだったからな。変顔してるのに全然笑わないし……。健介君は用心深いというか、心を開かんな。心を……、閉ざしてるな」


「いや、健介君は気持ち悪いから健介で、呼び捨てにして貰った方が良いんですが……、お父さんはその……」


「ああ、健介。まあ、落ち着いて聞け。いくら心に、ほら、玄関みたいに鍵を掛けてもな?風呂場が……、ふふっ、風呂場が開いてるから。この、……間抜け」


「間抜けだと……。スイラお父さんというのは、名前が、……スイラさんなんですか?」


 水楽スイラ?水楽お父さん?名前じゃなくて名字なのか。アンミは何を考えてるのかぼうっとしたまま動かない。突然の再会で呆けているのか、このおっさんが俺と会話してる最中だから割り込みづらいのか、アンミは俺の質問に答えてはくれなかった。


「スイラさんか。まあ、なかなかそんな他人行儀に呼ばれることはないな。お前もスイラと呼び捨てにしてくれて良いんだぞ。それは置いといて、驚かせて悪かったな。ただなあ、ミーシーが俺が来るって言わないのが悪い気もするよな。先に言っといてくれたら俺が何してても健介は鍵開けただろう。そんな疑うこともなく、すんなりな。警察に通報しようともしなかったろう」


「確かにそうだが……。悪いですけど……、アンミから聞いてた話とちょっとイメージは違う。もっと家庭的で、素朴な人のイメージだったから、優しい人という話だったから、……ちょっとゴツ過ぎませんか?俺がビビったのはそういう理由もある。挙げ句に変な顔してたし、屋根に登るなんて言い出したから……。アンミ、どうして喋らないんだ?本当にお父さんなんだよな、このおっさんは……」


「……うん。突然でびっくりした。スイラお父さん暇なの?」


「ああ……、すごく……、暇だ……。健介、ミーシーのとこ行こう。アンミはそのまま食べてて良いぞ。冷めるしな」


 少し遅れて事情がまとまってくる。ミーシーから予知が正常に働かない場面、というのを少し説明されていた。お父さんがいつ来るのか、気分次第で予知を変えるだろうから、分からない、ということだった。


 で、あるならば、ミーシーは予期しない突然の来訪にビビって隠れたとかそういうことになるわけだ。ミーシーが、これをあらかじめ俺に伝えることは難しかったのかも知れない。


 結局このおっさんがドア越しに細かく説明するのを面倒くさがったり、先にミーシーに分かるように調整をしなかったということになるような気もする。予知能力者であるなら……、通報キャンセル可能だろうと見通しを立てて強引に突破するという方法も選択肢に入るんだろう。


「ミーシー、お父さんだぞー」


 俺が教えるまでもなくおっさんは二階へ上がり、俺もそれについていく。ミーシーの部屋のドアをトントンとノックしてミーシーへ声を掛けた。だが、反応はない。不思議に思っておっさんの横に進んで、ノブに手を掛けてみたが、鍵が掛けられている。


「おい、ミーシー?お前のお父さんを名乗る不審者が現れたんだが……」


「…………。ミーシーはいないわ」


「…………おい」


「…………。ミーシーは、ミーシーは寝てるわ」


「……じゃあ、返事してるお前は誰だ。ところで、……お父さん嫌われてませんか。ミーシーが、こんな感じだが」


 このおっさんもミーシーも、俺をビビらせないための配慮というのは後回しのようだ。


「思春期になると、親離れみたいなのはあるよな。思い出の語り合いっこでもしようか。まだ小さい頃のことを思い出してくれたら、また一緒にお風呂に入ってくれるのかも知れんな」


 少しすると、ケガしてない方の足でだろうか、ドンと威圧するように足音が聞こえて、そのままこちらへと近づいてくる気配がした。そしてドアが開かれる。


「嫌がらせを、しないでちょうだい。どう考えても迷惑なタイミング選んでわざわざ来たでしょう。わざわざ攪乱して登場する意味不明な存在はもう消えてちょうだい。髪の毛から徐々に消えなさい。禿げなさい、禿げなさい。健介もこんなのを見るのはやめなさい。恥ずかしいわ、恥ずかしいものよ、これは」


 やはりミーシー側は動揺しているようではあった。おっさんの側は反省する素振りもなく、腕を広げたかと思うと続けてミーシーを抱き抱え、静かにこう言う。


「ミーシー、お父さんが帰ってきたら、まずは、ただいま、と言うんだろう?」


「いや、おっさんが、ただいま、……ん、いや、俺、の家だ。おかえりですらない」


「はあ……。健介。今一番泣きたいのは私なのよ。困った顔しないで欲しいわ。私の方が困ってるのよ」


「そんな顔で俺を見ないでくれ。俺が睨まれてるみたいだ」


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