七話⑭
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ミナコが深刻そうに困った表情を浮かべていたのは、もしかするとそれまで俺が気づかなかったというだけで、何もその時が初めてだったわけじゃないのかも知れない。
ただ、その日はたまたまミナコの誕生日だったから、俺は今でも、その顔をよく覚えている。
「どうしたんだ?」と声を掛けるために、わざわざぐるりと教室を一周するくらい、ミナコはあからさまに元気を失っていた。
それがよくあることなら、俺もそう大して気にはしなかった。気にせず近寄っていつものように声を掛けたのかも知れないし、知らん顔して帰ったのかも知れん。
俺は一周巡る間、うだうだと悩んで、できるだけ藪を突つかないようだけ心掛けながら、とりあえず「どうしたんだ?」とだけ声を掛けてみた。
どうしてか、俺が助力してやれることなど一つもないように思っていた。
ミナコが一体どんな困り事で顔を伏せているのか気にはなったが、正直なところ解決してやろうと意気込んでいたわけでもなく、むしろ概略だけを聞いて、解決が不可能そうであればすぐにでも、適当に慰めてその場を離れるつもりだった。
ただ、話を聞くとどうやら、割と身近で、そしてありがちな、人間関係での困り事のようではある。
わざわざ個人名をぼかした言い回しではあったものの、一言でまとめるなら、『陽太と、話がかみ合わなくて、ケンカになってしまいました』ということなんだろう。
俺が陽太のことかと確認すると、ミナコも諦めて素直にあらましを話し始めた。
「陽太は僕が知らないと言うと……、すぐに嘘を教えてきます。そうでなくても間違って覚えているであろうことなどもあります。それはともかく、あのですね……。嘘をついたり間違ったりしてる部分については問題にならないのですが、時折……、いや?結構な頻度で?陽太の話は悪ふざけであろうと思われることがあります。ただそれが……、本気で言ってるのか、冗談で言ってるのか、顔をよく観察しても全く判別がつきません。冗談で言ってるんだろうと思って適当に受け流していたら、どうやら今日は……、本気で、僕に説明をしてくれていたようで……。怒らせてしまいました」
そんなことをどうして、こんなふうに思い悩むのかはさっぱり分からなかった。確かに陽太は、悪ふざけで話していることもあるだろう。そうじゃない時との表情の差など、ほとんど見分けもつかないものだろう。
それは元々、陽太がそういう人間というだけのことだ。俺にとってはむしろこいつの方がよほど難解に日々を過ごしている。
真面目に話していることに気づけなかったとして、仮にそこで言い合いになったとして、陽太相手でどんな問題があるんだろうか。
「なるほどな」
「僕はこれでも仲良くしようと努めているというのに……」
どうせ大したことじゃないなと思いながら、一応どういう経緯なのかは聞き取りしてみた。案の定、大したことじゃなかったし、その程度のことは今までもいくらかあったんじゃないだろうか。
今回、陽太はゴジラについて話していたらしい。まあ当然ミナコは映画のことなど何も知らないだろうし、陽太はそんなこと気にせず嬉々として巨大怪獣の歴史を語るだろう。
そこでだ、……ミナコがどうやら、怪獣の体長設定にケチをつけてしまった。陽太がそれに怒って帰ってしまった。
こうして話を一区切り聞き終えてみても、やはり俺の感想は変わらない。……大したことでケンカしてない。
「……映画見てないから分からなかったというだけだろう。まあ、ただな?フィクションの話をしてるんだから、そこに超常現象が起きててもそういう設定なんだと素直に受け入れてやれたら良かったな」
「設定?原理ではなくて?……で、で、でもですが、いきなり恐竜の話になったら現実世界に重点を置くものなのでは?それが違うなら違うと言ってくれれば良い」
「大人というのはな、本読んだり映画見てる時に、これがおかしいあれがおかしいとは言わないものだ。気づかず楽しめるのが小学生で、気づいて言っちゃうのが中学生で、大人は……、何かがおかしいと思っても黙っている。子供向けの映画なんかはそりゃ現実に重点を置いてない部分もあるだろうけどな、別に大人もたまには頭空っぽにして小学生気分で子供向けの映画を楽しんでて良いだろう。まあ、映画の設定にケチつけられて怒って帰っちゃうというのは、一度大人になれよとは言いたいところだが……」
「その作品を見たことがないというだけで、まさか中学生扱いを受けているのか?ケチをつけたわけではない。そういう、映画の常識というのを全く教えて貰っていないのに、いきなり恐竜が放射線受けて最終的にどれくらい巨大化したかなど推測できるはずがありません。僕は全く知らなかったわけではなく、もちろんタイトルは知っていた。けれども、どんどん大きくなるのだと陽太は説明していました。大きくなるのが嬉しいのだろうなと思いました」
「……ケチをつけたと言ってたと思うんだが。陽太が意地悪なクイズでも出したのか?」
「どちらとも言い難い……。最初は小さい恐竜だったそうです。それが大きくなったそうです。どのくらいだと思うのかと聞かれました。千メートルくらいではないでしょうかと伝えました。この時点でかなり、陽太は失望しているようでした。僕は慌ててクジラがせいぜい三十メートル程度なので、それくらいなら実際性があるだろうと補足しました。ジャイガノトソアという恐竜がその半分くらいの大きさだというの本に載っているのを見たことがあったので、恐竜にしてはかなり大きめには言ったつもりだった。陽太は更に失望した様子であった。それよりもっと大きい恐竜がいたのかも知れない。その後もう適当な数字を何度か言ったら陽太は怒って帰ってしまいました」
「ちょっと前に、俺も陽太と同じ話をしてたんだけどな……。その話は多分、こう、ちゃんと着地点があってな……。平成ゴジラの設定資料を読んだことのある人間しかついていけないわけだが、……なるほどな。話したいことの前に腰を折られてということなんだろう。また今度ちゃんと聞いてやれ。ちなみにゴジラは一番最初でも五十メートルある。デストロイアと戦ってた時のゴジラは百メートルだ。サイズを知ってるとな、あんまり面白くなかったゴジラ2000ですら感慨深いものだ。映画も見せて貰うと良い。喜んで解説してくれるだろう。何日かは必要になるかも知れんが」
「百メートルか。……そうだったのか。しかし、今更見せてくれと言って、引き受けてくれるでしょうか。もう、僕は適当に話を聞く奴だと決めつけられてしまっていませんか?……僕だけなんにも知らなくて、どう答えたら良いか分からない。仮に陽太が引き受けてくれたとして、また僕が陽太を失望させるかも知れない」
今度映画でも見にいくか、というのは、もしかするとこんな出来事がきっかけだったんだろうか。陽太の家で映画を観るようになったのはこれ以降のことだったし、それをミナコがそこそこに気に入ったようだった。
女の子が普通どういう映画を観たり本を読んだりしてるかなんて知らないが、ミナコはこの時、ゴジラのマニアックな知識がどうこうではなく、本当に映画のことを何一つ知らなかった。
漫画もアニメも小説もドラマも映画も音楽も、何一つ好きなタイトルを挙げられなかったし、かろうじで知っていると言ったタイトルも、タイトルだけしか知らなかった。
芸能人もミュージシャンも、総理大臣もスポーツ選手も知らなかった。
サッカーとは敵陣に置いてある網に、ボールを蹴り入れた回数を競うゲームだ、手を使って大丈夫なのはキーパーだけだ、と教えてやったところ、スローインをルール違反だと嬉しそうに指さしてはしゃいでいた。
本当に、知らないなどとは思っていなくてどん引きしていたわけだが、そんなことですら、説明が必要だったりする。
それはさておいて、俺はそんなこんなをフォローするつもりでこう言った。
「まあ一つ歳が違うだけで興味持つものも、見てるものも違ったりするだろう。大体ゴジラは男の子向けだし、なんなら俺たちが生まれる遥か以前の白黒映画の時代からのシリーズだ。陽太も小さい頃にたまたまテレビの再放送観て好きになったんだろう。俺も小さい頃にたまたま再放送で観た。俺も一年ズレて違う映画を眺めてたら、過去のゴジラシリーズのビデオなんかわざわざ借りなかったろう。知らん映画の話だったら、俺だって的外れなことを言っちゃうだろうし、それはもう仕方ないことだ」
「それは違う……。第一、第一、観ていれば話についていけました。だから、もうそれなら最初に健介と陽太が観てる映画とかを教えてくれていたら良い。健介はそういう甘やかし方をしますが、何かことあるごとに年下であるからという結論で仕方ない仕方ないと……。そんなことはありません。僕にも上手くできるのでは?なんとか失敗しない方法もあるのでは?」
「俺が?そんな年下だ年下だと言ったか?」
「言いましたとも。年下であるからできないと決めつけないで頂きたい。そして一年あれば背が伸びるとか嘘だったのでは?そういう慰めは実際に一年過ぎてしまった時につらいのだと思います。まあ、実際のところ、僕の身長がすぐ伸びるなどというのは嘘なのはすぐ分かっていましたが」
知ってることが偏っているせいで、通常時、ミナコはものを知らないように見える。それに加えて、子供らしい無邪気な振る舞いで子供の遊びを全力でやっていたりなどすれば……、子供扱いされても仕方ない。
女子大生が砂場で膝ついて遊んでたらいくら姿形がどうであれ、政治経済のニュースの感想を求めたりしない。大人向けの映画や書籍を勧めたりもしない。
あっちにブランコあるぞ、あれはやらないのか?だが、危ないからあんまり無理に揺するなよと、そういうことを言ったりする。
「それは何回か言ったが……、お前が椅子が合わないとかジャンプしても届かんとか言うからだ。まだ伸びるんじゃないかという話をしただけで、一回生だからというのは単なるジョークだぞ。お前はついでに大学のことも知らん分からんと言ってただろう」
「新入生だから知らないのだろうと……。けれどもう、それは過去のことです。おおよそ追いつきました。年下扱いをされるような必要がありません。年齢的なことで考えるならば同じように振る舞えて当然である。足りない知識があればそれはもう身につけなくてはならない。身体的に不足するのであれば助けを借りずに解決策を探すべきである。とにかく子供扱いして、その上、子供だから仕方ないなどと言われてしまっては、僕はいつまで経っても子供のままです。普通はこうだって、これはできて当たり前で、これは知っていなければおかしいと、言ってくれた方が良い。同い年なのなのですが……。しかし確かに。同じ年齢になっても今はまだ教えて貰うことしかできない」
陽太と話がかみ合わないことに加えて、俺からの扱いについても不満を持っているようではあった。
三人で話す時、ミナコにも分かるように話してやってくれと言い添えることはある。陽太もそれは理解していて、あくまで親切心からであろうが、『峰岸のために一から説明すると』という枕詞をよく使っていた。
ミナコの場合、本質的な理解が伴っているかは別として、一度説明したことは説明をした通りに覚えている。教えがいというのはある。それが気に食わないと言われるなんて想定していなかったし、直せと言われても確約できるように思えない。
そして今までについて述べるなら、何も俺や陽太が積極的にそうしようと考えていたというより、ミナコが、俺たちへ質問を浴びせていたというのが正しいだろう。
別にこれまで特に問題もなく会話は成立していただろうし、分からないことについては今まで通り素直に分からないと言ってくれた方が安心していられる。
「同い年じゃないだろう。分かった、お前が俺の身長に追いつくことなど一生ない。そんなことは誰も求めてないし無理なものをどうこうしろなどと言う奴もいない。お前にはお前の良いところがあるだろう。特長を伸ばすと良い」
身長と、特長を、……同じ、ほら、上手いこと言ったな。上手いこと、しかも、良いことを言った。
無難に今まで通りで構わないだろう、何故なら、お互い足りないところを補い合えば良い。実際のところ、俺も陽太も語学も数学も素養がない。ミナコも英語には自信がない、数学など最近勉強を始めたなどとは言っていたものの、レポートやテスト勉強では大いに、俺たちを助けてくれている。
時に博識な一面を見せて俺たちを感心させてくれる。なんならそれらは役割分担だと割り切っても良い。
「年相応に見られていないのでは……。健介は何歳?僕はもう既に十九歳になったわけですが、それでも結局、数カ月の差を切り上げだと主張しますか?結局同じ歳になったとしても人間的に対等に見られていない。健介が偉そうにしている」
「…………。十九に?なった?お前の誕生日は一月一日だったろう。しょうもない嘘をつくな」




