二話⑥
「暴れん坊よりよっぽど躾は楽になったでしょう?悪いことしたらちゃんと叱ってあげるのよ。甘やかすとその子のためにならないわ」
「もうほとんど……、躾いらないんじゃないかとは思うけどな。ほら、ミーシーにお礼言っておけ」
「ニャー。ミーシー……。ありがとうニャ」
俺の後ろから進み出るということはしなかったが、頭を下げるような動きをしてミーシーへのお礼を口にした。ミーシーはやはり別に関心もないようで、一瞬だけミーコに視線を向けたもののまた興味なさそうにソファに深く腰掛け直した。
「どういたしまして。ちゃんと栄養摂って体力作りなさい。猫がそこら辺の人間より体力ないとか笑えないわ」
「はい、……ニャ」
そこまでキツイお叱りではないんだが、今回の失敗の件もあってだろう、ミーコはしょげて頭を下げていた。声も俺と話していた時とは違って弱々しくなった。反省しているようだ。
「あと、基本的にはあなたの部屋に置いときなさい。自由にうろちょろさせてて良いけど、定住場所は選んであげた方が良いわ」
「ああ。それはまあ、そうしようか。それはどこでも別に良いんだが……、ちょっと聞きにくいこと聞いて良いか?」
「どうぞ。これからは単に質問だけしなさい。聞かれたくないことだったら答えないだけよ。聞いて失礼だと思うならそもそも質問しないでちょうだい」
「失礼には当たらないと思うが、お前らは、アンミもだが、少なくともちょっとの間はここに住むということに、なったんだよな?」
「ええなったわ」
「そうだよな。だとすると、それこそお前らの居住区域というか、定住場所をな、猫もそうかも知れんが、お前らの住む部屋というのも決めた方が良い気がする。というかな、都合良く二つ、二階に空き部屋がある。そこを掃除して使ってくれて良いぞという提案なんだが、……どうだ?」
「…………。そうね。じゃあ遠慮なく使わせて貰うわ。アンミ、昼から掃除もしましょう」
「うん。ありがとう健介」
「どういたしまして。まあ掃除は大変かも知れん。なんならもう一日やそこら俺は下で寝ても良いし、片付け終わらなかったら言ってくれ。ああ、そうだ。俺はちょっと昼から出掛ける用事があるから、悪いんだが掃除は二人で始めてくれると助かるな。帰ってまだ終わってなかったら手伝うことにするから」
「うん、分かった」
「ええと、じゃあ俺はもう自分の部屋使ってて大丈夫か?」
「遠慮なくどうぞ」
一人一部屋となれば、同じアパートの住人くらいの距離感にはなるだろうか。
「じゃあ遠慮なく。ほら、ミーコ、お前との同居生活の始まりだな。クッションの一つくらいなら分けてやろう、何個かあるから」
実際のところ、これは問題を先送りして引き延ばしているだけかも分からん。ちゃんと元いた家に送り返してやるのが結局のところ正解で、そこにもし問題があるのなら、助力をしてやると提案すべきだ。
二人が俺の家に住むというのは、単なる保留的決断に過ぎないだろうから、俺が本質的に役立てる場面があるとすれば、部屋を与えることなどではなく、二人が安心して、一生過ごせる場所を見つけることだったろう。猫と比較するとその辺りは余計に際立つ。
布団を片付けて、自室に戻った。そういえば、シーツは洗ってるんだったか。別に気にならないといえば気にならないが椅子に腰掛けることにした。
「じゃあ私はベッドの下に住むことにするニャ」
「ホコリ溜まってないか?俺も掃除しようかな……」
「多分?掃除してあるニャ、アンミが掃除したんじゃないのかニャ?」
「ああ、……そうか。朝の内に片付けて……、くれたのか。ぱっと見る分には分からんな。床掃除を、してくれてるのか。そんな気を使わなくても良いのにな」
「じゃあここにいるから、用があったら呼んでくださいニャ」
「まあ……、用があったらな」
ベッドの下が住処なら、部屋が狭くなることもない。ミーコは一度ぴょこんと顔を出してからベッドの下の奥の方へ潜っていった。
さて、一度落ち着いて読書でもしていようか。ゆっくり頭を休ませて、体をリラックスさせて、堂々とした振る舞いで、二人と向き合う、ための、準備が必要だ。まず本来の自分の生活サイクルに戻ってみるのが良い。ドアを閉めて、猫を隠せば、穏やかな日常に立ち戻ることができる。
本当ならバイト先で掃除でもしてる方が気は紛れるんだろうが、……現実を、少し麻痺させてくれるような、娯楽を楽しむのが良い。椅子に背中を押しつけて、首をうなだれる。逃避をせいぜい楽しもう。背を起こして本を手に取る。クリップ留めのページを開いて目を落とした。
努めてじっと、活字を眺めて頭の中ではしっかりと音読をする。少しでも頭を音で満たして、余計なことを考えないように努力してみた。ただ……、前に読んだ時に意識が混濁状態だったのか、まずすんなりと物語に入り込むことができなかった。
寝る前に読んでいて、寝る間際まで読んでいて、寝つく直前の辺りなんかは頭に入ってなかったんだろう。やむなく何枚かページを遡って章の始まりから読み直すことにした。これが普段のサイクルなのかと問われると正直なところ、まあ上手くはいってない。
心の中で音読というのが向かないのか、段落を読み切る度に、また前の段落へ目を向けて話の流れを確認することになった。余計なことを考えないように努めると、本を読んで情景を浮かべることすら困難になるほど制限が掛かってしまうようだ。
あるいは、心の片隅でやはり色々なことが頭の中をかき混ぜて本が読めなくなっているのかも分からん。眠らなきゃと思えば思うほどに眠れなくなり、落ち着かなきゃと思えば思うほど焦りが募るのと同じように、文字を楽しまなくちゃならないと自分に言い聞かせ続けると、もはや何が面白いものなのか分からなくなってくる。
何気なくさっと、読んだつもりになって文字を流すべきだ。実際これまで他の本ではそれができていて、なんならそんな読み方でも読後の満足感は十分にあった。なのに、……文字を読んでも、誰が、話しているのか、すとんと胸に落ちない。
「木目が……、なめらかな、コンクリート、彼?誰が……。ああ、船長が……」
はっきりと、ヤバさを自覚した。文字を指でなぞらなければ、視線があちこちに飛び、そんなことになれば当然物語の内容なんて分かるはずがない。なのに気づけば、俺はまた指を離していて、そしてまたページの最初に戻る。
全てのページでそうなったわけでないにせよ、どうやら俺はまともに、本を読むことさえできなくなっていた。俺の……、家に舞い込んだ問題に、落ち着いて取り組むために、読書を始めようと思ったのに、そもそも読書をするための落ち着きすら、失われている。じゃあ一体俺は何をどうすれば良いんだ。
まずは……、記憶を辿って、この物語のあらすじを頭の中に用意しなくちゃならない。それはまあ至極単純なものだ。客船が海を出て、ガラス張りの植物なんかが生えてる船内の休憩室で、殺人事件が起きた。そこは密室になっていて、殺された人物がガラスに血文字を書いた。
凶器はおそらくナイフで、ただし見える範囲では見つけられていない。鍵は船長の知らぬ間に盗まれていた。現場である休憩室は鍵が掛けられていて、その鍵は見つかっていない。しかし密室のはずの現場の光景が、少し変わっていることに少年が気づいた。
そういうふんわりとした伏線さえ覚えておけば、まあおそらく探偵が丁寧に、事件を解決してくれる。解決のためのヒントを勝手に探し出して、勝手に組み立てて、俺に教えてくれるはずだ。だから俺はたったそれだけ覚えていれば良い。
何も船のパイプの質感なんかにこだわる必要はない。モブであろう人物の正確な名前や発言内容など記憶しなくてもいい。一つ俺の精神状態以外にケチをつけるとすれば、どうやら章が切り替わったタイミングで三人称視点から一人称視点に切り替わっているようだった。それがまあ、混乱を引き起こしているというか……、物語に没入するためのハードルを上げている。
大丈夫だ、焦らなくて良い。別になんなら本を読めなくてもリラックスさえできれば問題ないんだ。後にこれが試験に出題されるわけでもないし、感想文を提出しなきゃならないわけでもない。多少読み飛ばしたところで不都合なんてありはしない。だから気楽に、時間を掛けても良いから、まずは指でなぞって先に進めよう。
「…………」
てなことを、おそらく一時間くらいやっていたんだろう。少しずつ少しずつ、読書力というのが戻ってくる感覚があった。シーツがないお蔭でふて寝しなくて済んだし、徐々に感覚が戻ってくるとそれに伴って自信も回復してくる。良かった、俺は本を読むことができるぞと、当たり前といえば当たり前の説得をして、リハビリ気分で取り組み続けることができた。
そしてだ。コンコンと、ノックの音が聞こえてきた。
「ああ。どうした?」
「うん、ご飯できたよ」
「あ、ああ、そうだったか。もうそんな時間だな」
そしてもしかすると、頭が回らないのは朝御飯を食べてなかったせいなのかも知れない。お昼御飯の案内を受けてようやくそれに気づいた。
「今行く、下で待っててくれ」
立ち上がってベッドの下を覗き込んだが、ミーコは丸まって寝ているようだった。手を伸ばして尻尾を握ってみるが反応はない。疲れてるなら無理して起こすのも可哀相だし、そのままにしとくか。規則正しく三食食べるというのは人間の習慣ではある。
ドアを開けると、アンミはその場で待っていた。二人で階段を下りて食卓に着く。ミーシーも居間から歩いてきて椅子に腰掛けた。なかなか形容するのも難しいが、やはりしっかりとした定食屋のメニューのようだ。さすがに昨夜ほどの手間は掛けられていないんだろうが、一つ一つの料理に目を止めて、どれもが物珍しい。玉子焼きが四角い。おひたしが小皿に綺麗に盛られている。
メニュー全体として、色合いなんかにもこだわってるんだろうか。いっそ米の盛り付け具合すら黄金比を保っている気がした。箸を手に取っておかずを一口食べ、米を掬って食べ、料理を堪能する。モグモグモグモグと、時間を掛けて咀嚼した。少なくともここ最近自宅での食事はガッと掻き込むか、サクサクかじるかのか二通りしかなかった。
昨日の夜からこうして、……なんだろうな、これが人間らしい食事なんだろうか。俺は今まで栄養補給はしていたが、人生から、優雅な食事の時間というのを、失っていたようだ。
「美味いなあ……。健康に、良い気がする……。……アンミは一人暮らしの経験とかはあるのか?」
「一人暮らし……?一人、……ううん。どうだろう。ミーシーと一緒に暮らしてる」
「そっか。まあ、そうだろうな。というか……、じゃあ、ごめんな。折角美味しい料理を作ってくれて、楽しい食事の雰囲気を、悪くする、かも知れないんだが、あの……、料理はその、ずっとアンミがやってたりしたのか?」
「ええっと、ううん。昔はスイラお父さんが作ってくれてた。今は私が作ってる」
「一応……、口を挟んで補足しとくわ。お父さんは生きてるし、ある時を境に人が変わって料理をしなくなったというわけでもないわ。単にアンミが当番なだけよ。家族関係も良好よ、病気もないわ。鬱陶しいくらい元気よ」
ちょうど、そういう質問をすべきかと思った瞬間だった。先を見越した答えが出てきたわけだが、それが嘘か本当かは微妙なところだ。家出の理由の第一候補は家庭環境だったが、ミーシーの発言でそれは否定された、ことになってしまう。
アンミはミーシーの発言に対してこれといった反応はしなかった。反論もしないし、無理に調子を合わせようと取り繕うということもない。であれば……、本当にアンミが単に料理当番なだけなんだろうか。
「ああ、適任なんだろうな。俺はな、食材にはあんまり困らない生活をしてたから……、基本的には自炊をしてたんだけどな。自炊が面倒くさくなって、お金も勿体ないからあんまり外食はしなくて、それで、ちょっと遠くまで行くとスーパーがあるんだが、そこの弁当を買って食べる生活をしてたことがある」
「うん」
「近くにもスーパーはあるんだが、わざわざ遠い方のスーパーに行ってな、弁当を買って食ってた。だがな、なんというのか、こう、……もう普通だったら美味しいことが約束されてるような料理というのがあるだろう?焼きそばとか、たこ焼きとか、そういうのは祭の屋台とかですら美味しく作られてるわけだから、スーパーに置いてあるのなんかは少なくともその水準には達していそうなものだ」
「うん」
「けど、そのスーパーのお弁当は、焼きそばですら美味しくなかった。俺はちょっとびっくりしたんだよな。焼きそばが美味しくないなんてことがあるのかってな。麺は変にもちもちしてて、肉はミリ単位のカケラしかなくて、それでも味付けがちゃんとしてれば美味しいだろうにソースもなんかお湯で薄めたんじゃないかというくらい微妙な味だった。でもそれをな、俺は安いから仕方ないか、自炊も面倒だから仕方ないかと思って、我慢して食べてた時期がある」
「そっか。うん」
「今な、それと比べ物にならないくらい美味いんだ」
「うん、良かった。健介これも食べる?」
「いや、……そういうことじゃなくて。自分の分はちゃんと用意されてるから、俺はもうそれで十分だ。美味しいなって感想をな、感動を伝えたかっただけだ」




