七話①
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耳障りな人の声の塊が俺の体の中から湧き上がってくる。俺は折角ミナコとの思い出を夢に見ていたのに、その耳障りな音が俺の体から這い出てきてまき散らされてまとわりついてくる。
俺は仕方なく、それを我慢してやり過ごすしかない。どうやら、俺だけじゃなく、その女の子もこのザワザワとした空気が苦手らしかった。周囲の声を疎ましく思っているのが伝わってくる。
何度も、目を覚ましてしまいたいと思った。
◆
『市倉絵里、十年前の記憶』
…………ザワザワ、ザワザワと。
高医研に、いわゆる年少組の三人目が迎えられるかも知れない。その場に集まった人間の大勢は会の本旨も忘れてそんな噂で大盛り上がりだった。
年少組は二人目ではないのかと驚く人はもちろんいたけれど、意外なことに、入所してからたった一年にも満たない私ですらどうやら彼らの中ではそこそこには有名人のようで、
……「あれが例の、早川に続いた市倉という子だ」と、これ見よがしに何度も指を差されて嫌な思いをした。年少組という言葉は、私にとってあまりに荷が勝ち過ぎる括りであったし、中の事情に詳しくない彼らは、『早川に続く』というおぞましい名声と本来、釣り合いが取れていなければならない私の実力とが、ひどく遠く、まるでかけ離れていることを知りもしないようだった。
私だけは自分自身への落胆を知っている。いわば私は自分が気づかない内に周りからメッキを塗りたくられたような人間で、その中身についてはまるで自信の持てない人間で、……であるから、こんな有り様のこの場にいることすら相応しくはない。
「市倉さん。はは、スーツがよく似合ってる。例の子はもう内定が決まってるのかな?もし高田院長が蹴るなら、ウチに来ないか誘ってみたいんだけどもね」
「お世話になっております。私は早川の代理で出席させて頂いただけですから、……高田からは知っている人に挨拶だけしておけと、そういうお話しか受けておりません。高田がどういうつもりかも存じませんし、その、皆さんがお話されている子というのも、多分外の方の方がお詳しいようですから……」
「そうかい。詳しいといっても話半分の噂話も多いからね。まさか高田院長に声掛けて聞くわけにもいかないし。ところでそうだ、高田院長が早川先生以外連れてこういう会出るのも珍しいよね。ああ、私らの方も市倉さん、市倉先生と呼んだ方が良いかな?いつか挨拶だけはできたらと思ってたんだ。はは、きっと高医研年少組第二世代の名刺見せたらどいつもこいつも羨ましがって仕方ないだろう。とびきりの美少女だと皆口を揃えて言うものだから」
「…………。お上手に仰って頂いて恐縮です。ただ、すみません。名刺もありませんし、早川と違って私はまだ医師免許も、……だから、先生だなんて呼ばれるわけにはいきません」
「そうなんだ。良いよ、こっちだけとりあえず渡しておこう。ははは、そんな恐縮されてもね。高田院長怒ったりするのかい?早川先生にはもうさじ投げつけたって話聞いてたけど、この様子だと市倉先生には厳しそうだ。まだ医者じゃないなんて小さいこと言わない。早川先生の前例があるし、予備試験は通ったんでしょ?それもこないだ話題になってた。そりゃもう医者ってことだ。そこらの医者よりよっぽどできる」
「早川の前例は……。私は……、院長から来て欲しいと言われたわけではありませんし、早川とは経緯も待遇も違うでしょう。年少組なんて言葉も外に出て初めて聞きました。実際はお手伝いどころか、まだほとんどお客様扱いで、なんというか、ここにだって本当なら顔を出せるような資格も……」
「あらららら。まあ、そんな気を張らずに。慰労会っていうのはね、あちら見てくださいな。美味しいご飯を食べる会だよ。ふふ、あれくらい豪胆であっても良い。主役を放っておいて酒飲んで寝てる者がいるくらいだ。たまにはああで良い。疲れを癒すためのパーティーで肩が凝るんじゃ誰も来ない」
「お疲れの方が大勢いらっしゃる中で、ええ、仰ることは分かります。すごく優しく、お気遣いいただいて感謝します。ただ、ああ、いいえ。本当にありがとうございます」
「あー、……市倉先生、どこかへ移りたいって話なら、そりゃもうウチは高待遇で迎えますよ。ご存じかどうか、ウチの方は気分転換に通って貰って構わない学校もあるし。そもそもね、自由に好き勝手して礼儀も何もないようなことしてても許される歳でしょう、実年齢は。キツイってのなら辞めたって良いし、その時文句言う人間がいるならそちらの方がおかしい。もしも何もしてないって場違いだって思ってるのなら、……思ってそうだから言うけど、ここにいる連中は君の歳の頃に何してた?ああ、けれども私がそんなこと言ったというのはまあ高田院長にはさすがに内緒にしといて欲しいけど」
「ありがとうございます。ふふ、けれど、辞めるような予定はありませんし、しっかりお勉強もさせていただきます。…………今日は特に、形だけとはいえ代表で参加していますので、他に恥をかかせないよう気をつけないとならないでしょう。少しくらいは気を張っていないと」
十三歳の私に、スーツが似合うはずもない。代わる代わる話し掛けてくれる彼らの話題のどこかしかには早川が出てきたし、無理をして私を持ち上げる際の決まり文句は、若い、かわいらしい、しっかりしている。せいぜいそんなところだった。
場違いな私がぽつんと立っているのが相当に惨めに見えるのか、慰めるような優しい口ぶりを聞く度に、私の中には無力感ばかりが蓄積していく。早川の作った、早川の論文で、早川の誘いで……。早川忠道と私とでは、そもそも語られる場所すら違う。
それはもちろん当たり前のことではあるけれど、それならばいっそ私は早川のような天才ではないことも、知っておいてくれたら良かった。
元々この会はドイツの医学博士が日本の研究協力者を慰労するために開催したものだった。年少組三人目というのは本来そのおまけのようなものでしかない。というより、本来ならおまけですらなかったわけだけれど、今回は事情が事情であったから、まるでそれがメインイベントのような扱いを受けることになってしまった。
……年少組が、……早川が、……三人目が、という話題も、もはや一番迷惑を被っている私ですら仕方のないことのように思えてしまう。
『この会は当初の予定通りの日時で行うつもりであるが、今回に関しては、私本人は出席せず、代わりに一人をそちらへ行かせて良いだろうか。その子は高田医学研究所に強く興味を持っている。できることならそちらで仕事を与えてやりたい』
実際の文章のほとんどは謝罪と埋め合わせについてではあったけれど、こんな内容の手紙と、代理で参加する人間の簡単なプロフィールが送られてきた。
要するに、まず肝心の主役が不在だった。代理として参加するのは就職希望者で、そのプロフィールというのが、一行目から入力誤りを疑うような代物だった。
普通であれば参加を辞退していておかしくないところを、高田院長はわざわざ一番乗りで参加表明し、こうして現在に至る。
おそらく余所にも同じような文面で連絡が回っていることだろうから、それでも参加する律儀な方々が何を見にきているか、どのような話をするか、そんなことはあまりにも明瞭で、もう各々が自由な振る舞いをし始めても誰も止めようとはしない。
挙げ句飛行機が遅れているらしく予定の時間を過ぎても件の代理は姿を現さなかった。
高田院長がどういうつもりであるのか誰も知る由もないし、私は私で年少組の三人目になるかも知れない人間がまさしく本当の天才なのか、あるいは私と同じ凡人であるのか、せいぜいその程度のことしか気にはしていなかった。
私よりも更に年下で、九歳、まあけれど、歳がどうかは実際のところあまり関係がないのは、早川と私との差で痛感する。年下であるからというのは見下した発想で、それが才能とは無関係だということを、私こそが良く分かっている。
分子生物学分野での研究活動を熱望しているという……、少し変わった志望先も、個人の好き嫌いにとやかく言えるものではないし、目標も展望も漠然とした私よりよほど立派だとはいえる。
「三人目……。年少組の」
ただ、この時、三人目について私に尋ねるいくらかの人は、一つ、少しだけ、私の心を動かすような言葉を口にしていたことを思い出す。
『もし三人目が入ったら、年齢も近いことだし、仲良くなれるんじゃないかい?』
私は少し考えて、もしかしたら、そうかも知れないな、とそんなことを思った。そうなれば良いなと、思った。
◆
俺は十分な時間眠っていたはずなのにその大半は夢に埋めつくされていたように感じた。そうでない時間があったのか、それを俺が覚えていないだけなのか、ともかく俺は、ぐっすりと、眠ってはいなかった。
明け方には何度も目を覚まそうとしただろうし、こうして目が覚めてなお頭の中に嫌な後味が残って、どうにも心が休まらない。
最後の最後に見た、おかしな夢のせいに違いなかった。昨日喫茶店に俺を監禁した黒い女の名前が確か市倉絵里で、高田医学研究所というのは、アンミを追っている研究所の名前で、……あくまで俺の想像を交えての結論だが分子生物学の云々という話から察するに、その三人目とやらが、……おそらく黒幕だ。
その黒幕の三人目と、黒い女は、あまり仲良くはならなかったんだろう。そんなことで黒い女が研究所を裏切ったというのはさすがにあんまりにスカスカの想像だし、夢の中の出来事など単なる俺の妄想にしか過ぎないわけだが、夢の内容がどうとかではなく、俺はこうして早朝に汗ばむ手のひらを握って目が覚めるほどに、昨日の事件が心の奥底にこびりついているようだった。
俺はそんな夢を見て、かつそれが妙に現実感を伴っていて、しかも割とその内容をしっかりと覚えているものだから、朝目覚めた瞬間からこんなにも気分が悪い。
もう一度眠ろうものならまた夢の続きを見てしまいそうな予感がして、俺は仕方なしにベッドから起き上がり、首を振って眠気を払う。
目覚ましもまだ鳴らない早朝で、ミーコはベッドの下から頭だけはみ出した状態で眠っている。ギシリと控えめにベッドを鳴らして立ち上がり何か静かに済ませられそうな用事がないかを探した。
「…………」
……机の引き出しにしまい込んだ携帯電話は、簡単に見つからないような場所に隠しておいた方が良いのかも知れない。少なくとも使う予定がない内は。
極力静かにゆっくりと引き出しを開け、携帯電話を手に取って、ミーコが眠っている隙に少しだけ操作してみる。
まあしかし、気が紛れるどころか、ほんの数分も立たない内にどこか地中深くに埋めてなかったことにしてしまいたい衝動が俺を襲うことになった。
まずご丁寧なことに、起動時に俺の手のひら認証が必要だと表示され、続けて英数を組み合わせたパスワードを設定しなくてはならない。もうそれだけでもちょっと嫌な気持ちになったのに、それに加えて、俺のプロフィールは何者かによって……、
というか、黒い女によって、既に埋めつくされているようだった。名前、住所、自宅電話番号、誕生日。それらが全部正解であるし、電話帳の方に目を移すと『俺が連絡をする可能性がゼロじゃない施設の電話番号』があらかた登録されていた。
昨日俺はわざわざ番号をプッシュして自宅に電話したわけだが、自宅の番号はもちろん、大学どころか、俺の卒業した小学校、中学校、高校、小学生の頃通っていた塾やスイミングスクールに柔道連盟、そんなところにまずもって連絡する用事などできるはずないが、高校の頃アルバイトをしていたコンビニ店までもがずらりと並んでいる。
こんなもの俺を襲ってから登録し始めたわけではないだろうから、……つまり、もうあの時点で俺の素性は丸裸だった。暗闇の中でこんな得体の知れない恐ろしさに触れるべきじゃなかった。
幸いなことといって良いのか、それら全て何らかの施設への連絡先として登録されていて、俺の個人的な付き合いに関してまでは踏み込まれていない。
これでまあ、お世話になった人とか仲の良かった昔の友人なんかが登録されていたら震えが止まらなかっただろうが、そちらについては調べる気がなかったのか調べられなかったのか、それとも俺をそこまで追い詰めるとマズイとでも思っただけなのか、あ行から最後までを進めて、俺が知っている個人名の登録がないことは確認できた。
携帯電話の番号は一つだけ『友人その1』とされているものがあるだけで、これがおそらく……、何か間抜けな目立ち方をしているが、市倉絵里への連絡用だろうとは推測できる。
俺の数少ない現在の友人や、あとよく考えてみると今のバイト先についても見当たらない。バイト先がないのは不自然といえば不自然だが……、店長の話を聞く分には正式な雇用契約ではないらしいし、そのお蔭で黒い女の調査を免れた、ということか。




