六話㉕
「そっかそっか。引っ越しとかなら忙しいよね。電話番号は?」
「…………。電話も、ほら、引っ越しだから」
「あ、そっか。え?健ちゃんどうやって連絡してるの?大学で会う子?」
「えぇと、大学?いや、道端……、とかで、会います」
「健ちゃんあのさぁ、もし無理だったら無理で良いんだけど、明日とかってその子達会えないかな?できたら早く会いたいんだけど、さすがに無理?」
「明日?まあ、じゃあ、明日で」
「明日で良いの?健ちゃん道端とかで会う時間って決まってる?あとさ、仮住まいのところって都合悪いんだよね?できたら健ちゃんの家とかで待ってて貰って僕が行くのってダメかな?」
「ああ、そっちの方が、調整しやすいと思います。時間どうしますか?」
「じゃあ、お昼過ぎくらいでどうかな?」
「じゃあ、お願いしときます」
「うん、了解了解。ありがとう。もし明日無理だったらまた電話してね。じゃあまた」
「はい。じゃあよろしくお願いします」
面接についてはおそらくミーシーも知っているだろうし、こうなってしまえば面接がどうなろうと採用自体はほぼ確定だ。都合の悪い質問が来る可能性はあるが、そこは相手が店長であるし、俺もミーシーもフォローに回れる。
居間ではちょうど、アンミがミーシーから面接についての説明を受けていた。簡単に自己紹介してあとは相槌打つなり自由に話していて大丈夫ということだった。
俺から補足するようなことも特になかったので、ミーシーの説明の通りだろうなとだけ伝えて自室に戻ろうとした。途中ミーコから「ポニョのビデオ忘れてるニャ。お土産二人に渡してないニャ。お風呂今日健介の当番ニャ。そして夜外出るから首輪に名前書いて欲しいニャ」と指摘を受けた。
置き去りになっていた袋からポニョを取り出して、アンミとミーシーにはもう「大したものじゃないが」とだけ言葉を添えて袋ごとお土産を渡した。風呂の準備を始めて、ミーコを連れて自室に戻る。
細いペンで首輪に『高橋ミーコ』と書き入れて、ついでに下の方に自宅の電話番号も記入しておく。数字が若干ひしゃげたが、これでようやく、今日の仕事はお終いだと、言いたいところだったが、
上着のポケットに携帯電話が入っていることにはっと気づいた。
ミーコがベッドの下に潜ったのを確認してから、ベッドに半身で体を預け、ちょっと布団を引き寄せながら恐る恐るポケットをまさぐる。
まず、電源を切らないとならん。間の悪い電話がなかったことが救いだった。
いつ電話が掛かってこようと間は悪いわけだが、その辺りはさすがに配慮されたんだろうか。
電源ボタンを、押し込めて、電源を、切る。という、行為のつもりだったが、画面はそもそも真っ暗だった。切れたか?それとも元から切れてたのかも分からん。
最後電源を切った状態で手渡されたのかも知れないし、俺が喫茶店を出たタイミングで無意識に電源を切ったのかも知れない。画面を突ついてみても反応がない。とにかく電源が切れてるなら、まあ良いことにしよう。
「よし、風呂の様子をちょっと見てくるか」とわざとらしく独り言を呟いて立ち上がり、万引き犯のように腕組みしながら上着で携帯を覆い、「そういえばペンは、ポニョはどこに……、よし」と更に机の引き出しを開ける正当な理由を述べてから、完全に無音を心掛けて携帯電話をそっとしまい込んだ。
一安心、なんだろうか。電源が勝手に入ったりしなければ大丈夫だろう。引き出しを閉めて、一度階下へ下り、居間でアンミとミーシーが自己紹介の練習をしているのをちらりとだけ確認して、お湯の溜まり具合を覗いてみる。
全然足りないのは分かりきっていたが、ゆっくり体洗いながら一番風呂しながら待とう。割と慌ただしく、時間が過ぎていくものだな。服だけ脱いでシャワーを被りながら足回りを撫でてみる。
結局今日一日、午後からの大半は色々あって失われてしまった。文句などを言うつもりはなくて、何かこう、一周巡って今、悟りの境地にいる。残りの時間などもういっそ何に使っても構わない。
なら、暗黒ブックを今日中に読破して、微妙な消化不良感を生活から取り除いておこうか。結局新しい本は買わなかった。あの本を読み終えた時に何も得られないことに薄々気づいていて、読む気力を失っていたが、いつまでもそれがそこに置かれたままだと、きっと引きずる気持ちだけを残して、触れる機会すら失っていくものだろう。
風呂から出て歯磨きして、自室へと戻った。
まあ、やはり苦手意識が腕を重くはしているが、今日一日くらいは、これを乗り越えるために費やすことにする。程よく疲れていて恐怖心も薄れている。であるから今こそがチャンスだと思った。一枚を捲り、また一枚を捲り、次のページを眺めた時に、『あれ?そういえば、もしかして』と、俺は……、何かに気づき掛ける。
「何に?」
いや、もう俺はぼんやりと文字を眺めていただけであったから、文章に何が書かれているかなんてのは、もはやほとんど気にしていなかったし、作中の出来事が俺を納得させてくれるなんて期待はしていなかった。
何より退屈なその作業があっと言う間に俺を、ウトウトさせている。
このままベッドに向かえば俺は間違いなくそのまま朝まで目覚めない。
ところで、何に気づき掛けた?
何に気づいた?
少し前からやり直してみようと思って一枚前のページに戻ってみたが、ぼんやりしていたせいで読んでいないかのように内容を把握できていない。だから、やはり何に気づき掛けたのか、それも分からないままだ。
ウトウトしている。このまま本を読み続けたとしても、どうせ明日になれば、読み終わったつもりになっている部分の内容などすっかり忘れてまた読み直すハメになる。
眠いな……。一度ウトウトし始めると、もう自分一人の力ではどう足掻こうが現実世界には戻れそうにない。俺は本を読んでいて、折角何かに気づき掛けたというのに、でももう、物語のことなどすっかりどうでもよくなって、今日一日のことをゆっくりと遡りながら、思い出している。
丁寧に辿ろうとすると、こういうのは逆再生になるものなんだろうか。家に帰る前のことだ。ミーコを見つけた。その前に、陽太と話している。
俺は「ああ、完成するのが待ち遠しいな。楽しみにしてる」と、言ったんだ。陽太が抱き枕を作るから、その完成が待ち遠しいな、楽しみにしてると、お世辞みたいなことを言った。
……そんなことは、重要だったりはしない。ただ、こうして眺めて見る分には、どうして俺がそこで目を留めるのかがよく分かる。
暗黒ブックがあまりに退屈なせいかも知れない。俺の思考は目の前に並ぶ文字の渦から逃げ出して、まるで関わりのない過去の記憶と繋がったようだった。俺は陽太に掛けた言葉を思い返して、ミナコのことを思い出して、ミナコが昔、俺に何て言ったのかを探してみる。
ああ、思い返して思い出して、ようやく今になって、その時のことを後悔する。ずっと疑問に思っていながら、どうして今こんなふうに気づくのか。今になって気づいたところで、それを解決済みには分類できそうにない。
『楽しみにしている』『期待している』そう言い換えれば良かったのか。暗黒ブックから逃げ出した思考は、どうやら作中の事件などではなく、別の問題を、……もうとうの昔に終わってしまった事件の推理を、始めてしまったようだ。
どうして俺はその時に気づかなかったのか。その時からずっと俺のものだったはずなのに、俺は自分の聞いた言葉さえ、また盗み出さなくてはならない。耳鳴りが少しずつ遠ざかっていく。
それは蚊が耳元を通り過ぎる時の音にもよく似ているのに、どうしてか心地よくすらあった。




