二話⑤
「よろしくお願いしますニャ」
「…………。ああ、まあ、慣れるかな?しばらくしたら……、もしかすると、慣れるもんだったりするかな?お前らは特に感想もなさそうだし……」
「名前をどうするかという問題だったでしょう。で、どうするのよ」
「そうだな、ミーコで良い、らしいから、それでいこう。ミーコ……、で、良いんだよな、お前は」
「ニャーって返事した方が良いかニャ?まあ私のこと呼んでるみたいだったらなんて呼ばれてても返事するニャ」
語尾のニャが、耳に残る。加えて一人称は『私』なのか……。それにしても何かこう、得体の知れない知性を感じさせる。ペットというのはある程度、阿呆っぽい方が癒される気がするのに……、下手な人間よりまともそうだ。
猫は……、ミーコは、俺に近寄るのを遠慮しているのか、じりじりと円を描くように俺の右側に、距離を保ちながら回り込んだ。一挙一動にちょっとビビるが、お利口というレベルを遥かに超越して、俺を気遣っている。
俺をビビらせないようにちょっと距離を取っている。急に飛びついてくるということはなさそうだ。むしろ俺の方が子供っぽく拒絶しているようにさえ感じられる。また深く呼吸して、一歩近づいて、しゃがみ込んだ。手を差し出し、ミーコが近づくのを待つ。
「ニャーン」
ミーコは俺の目の前まで来て、手に触れる直前にコロンと転がって腹を見せた。もぞもぞと動いて尻尾をうねらせている。
「こんな感じかニャ?」
「……やめろ。突然真顔になるのはやめろ。……ビビるから」
「じゃあもう帰りましょう。ミーコ?これからはちゃんと言うこと聞きなさい。悪いことしたらお仕置きするわ」
「……ニャ、わ、ニャ。……ニャ」
「さあ、アンミも。いじくりたいのは分かるけど、我慢しなさい。餌やってたらその内ちょっとは懐くでしょう」
「うん」
アンミもミーシーも、俺やミーコを待つつもりはなさそうで、さっさと公園から歩き出してしまった。ミーコはその場にまだ転がっていて、俺もそれを眺めていた。
「……変な猫を、飼うことになってしまった」
「気持ちは分かるニャ」
「分かるか、そうか。お前の方が二人よりまともかも知れん。お前が唯一の理解者とは……。本当にあれか?ちょっとお利口になっただけか?人の魂が乗り移って猫の人格が消えて、前世の記憶があったりしないか?」
「そういうことはないニャ」
「どうやって、人語を、学習するんだ?もうなんかそれは元から猫の段階である程度語彙があるのか?」
「……?まあインターネットからダウンロードする感じニャ」
「ジョークまで言うのか。まあ、どうせ、なんだろう。説明をされてもしょうがないことは百も承知だ。受け入れざるを得ない。俺は事故に遭ってあの時死んだのかも分からんな。並行異世界に旅立ってしまった可能性があるぞ、魔法が存在する……、そういう世界に」
「難しいことは考えても仕方ないニャ。普通の猫のつもりで扱ってくれたら良いニャ」
「いや、……なかなか割り切れないものだ。悪いが、お前とも……、しばらくはちょっと距離を感じさせてしまうかも知れない。悪気はないし、お前が善良な猫だということはなんとなく分かっている。だがな、心の整理というのが、……ここまで大規模な整理となるとどうしたって時間が掛かるものだ」
「意外とすぐ慣れるんじゃないのかニャ?オウムとかも喋るニャ」
「…………。まあな」
俺も諦めて家に帰ることにした。足元を見て、歩き始める。俺の少し右後ろをミーコも歩いてついてくるようだった。猫を相手に、どんな話題を持ち出せば良いものなのか。足音もないものだから十歩も進めば本当についてきているのか気になって後ろを振り返る。
その度にミーコは顔を上げて目線を合わせた。これを無言で続けるというのも気まずくて、何かそれらしい会話でもしようと思った。良い天気だな、とか、寒い季節だな、とか、そんなつまらない話題を振っても会話に詰まることになる。
だが果たして、猫の気に入るトピックなど見当たらない。この猫がどの程度の常識を備えているのか、人間でいうところの何歳くらいの精神年齢なのかも定かじゃない。仮に俺が猫の感性に歩み寄ったところで、ニャーとニャーが会話として成立する気がしない。コミュニケーションはよほど、難しくなっていないだろうか。
「魚とか……、好きか?」
「多分好きニャ。でもどうかニャ。今まで食べたこと多分ないのニャ」
「そうか。好きな魚の言い合いっこみたいなのはできないか。何食べて生きてきたんだ?まあその、生い立ちとかな?言いたくないようなつらいことがあったなら別に言わなくても良いが」
「んん……、ニャ。猫はあんまり昔のこととか覚えてたりしないニャ。けど、普通に餌くれる家とかはそこら辺に一杯あるニャ。キャットフードじゃないのかニャ?生い立ちと言われても、多分そこら辺で生まれてそこら辺で餌貰って生きてたニャ」
「なんとも……、微妙なところだな。つらい境遇だったともいえない加減だ」
「まあ……、飢えて死に掛けということはないニャけど、良かったニャ。外は寒かったりするニャし」
一度立ち止まって、ミーコの姿をちゃんと見てみた。まあ……、そりゃあんまり苦労しなさそうな見た目はしているのかも分からん。庭に迷い込んできたら猫好きが餌をあげそうな顔立ちをしているような気はする。まだ若い猫だろうし、ちゃんと媚びれば飼い主候補には困らないだろう。……喋りさえしなければ、良いペットだ。
「良かったな。じゃあその、待遇とかに要望はあるか?俺はある程度猫が食べちゃダメなものとかそういうのは知ってるつもりだが……、猫の意見とかはちゃんと聞いたことがないし、お前をそもそもどの程度猫として扱って良いのかについては不安がある。まあ、折角協議できるなら、言ってくれたら大概はなんとかできるかも知れん」
「肉とか魚とか食べてみたいニャ。寒い季節は家電に乗ってあったまってても怒らないで欲しいニャ」
「じゃあ飯は用意して貰おう。あんまり生は良くないらしいが、焼いても良いか?」
「健介と同じのが良いニャ。食べちゃダメなのは抜いてくれると助かるニャ」
「そうしよう。倒れるような家電には乗らないでくれ。上に物が置いてある場合はそれは落とさないでくれ」
「大丈夫のつもりニャ」
「他にはなんかあるか?運動不足にならないようにオモチャが欲しいとか」
「あんまりビビらないで、気を使わないで、話し相手になってくれると良いのニャ」
「ああ……。そうだな。ただ、ある程度助走がないと、高いハードルというのは跳べないものだ。今はまだ助走期間かな。お前がまずここまで普通に会話できるということに常に驚き続けている。考えてもみろ、幼児とかがな?ハキハキとな、俺と対等に話し始めたら、それはまあちょっと……。まして猫が。いや、別に猫を馬鹿にしてるわけじゃないが。差別的だとかは思わないで欲しいんだが」
「私は猫相手のつもりで話し掛けて貰っても全然構わないニャ。赤ちゃん言葉で話し掛けられたらその時はちゃんと猫の鳴き声でお返事できるニャ」
「つい、やるかも知れんな。時にはそういうペット的な役割もこなしてくれ。負担にならない程度で」
この短時間で慣れるというものじゃないにせよ、まだどうしても違和感が拭えないものの、……この猫は、どうやらコミュニケーション能力が高いようだった。俺が黙りこくればそれを静かに見守って、俺が話し掛ければ声に温度が感じられるように返してくれる。
目さえ閉じれば、人間よりもよほど人間らしく、俺に合わせてくれている気がする。それはもしかすると猫の造形が、視覚的に働き掛けて柔らかさを感じさせているのかも知れないが、例えばこれが画面越しのチャットだったとしても、……良い友達になれそうだと思った。会話に破綻がない。日本語の文法や文意に不自然さがない。常識水準は俺レベルで、精神年齢は俺と同じか、下手をするともしかして、俺よりも上かも分からん。
偶然なのか、それとも魔法による矯正も含まれているのか、すぅと染み渡るように、聞き取りやすく声が届いた。若干濁ったような声質ではあるが、声量は程よいし滑舌も悪くない。声に一つ感想をつける度に、猫が?と思考に引っ掛かりが生まれるが、逆にいえばそれ以外に悪い点というのを挙げられそうになかった。猫が……、か。もういっそ猫じゃない生物として扱うべきだろう。猫っぽさは薄い。
「あと、……一応、自己紹介もなかっただろう。俺の家に今あと二人女の子がいる。これはまあ、いつまでいるとかそういうことは分からないが、仲良くしてやってくれ。赤い髪の、いや。単純に背の高い方がアンミで、背の低い方がミーシーだ。分かるか?」
「分かるニャ。できるだけ、……頑張って仲良くできるようにはしたいニャ」
「なんなら俺より喋る猫というのに抵抗はなさそうだ。ミーシーはちょっとお前のことを乱暴に扱うかも知れないが、それは許してやってくれ。あんまりひどいようなら俺に言ってくれれば一緒に頼んでやれる」
「アンミもミーシーもひどいことはしないと思ってるニャ」
「一応、今回のな。お前の救出はミーシーが一番の功労者だ。こういっちゃなんだが、あんまり関心がないかも知れんな。お前にとっては善し悪しというか我慢できる程度というのはあるんだろうが、猫好きだったらもふもふ触りたがるもんだろう。そんな様子もなかったし」
「ちょっとそこら辺は緊張するニャ。ミーシーには頑張ってお礼は言うニャ」
「そうしてくれ」
普通の人間は、どの程度で慣れるもんなんだろうか。ちょっとばかり俺は自分の適応力というのに自信がついた。魔法がどうこうという下地が良い方向に作用してくれた。
俺はもうどうせ超常現象の当事者なんだから、セコイこと言わずに猫が喋ることくらいついでに理解を示してやるべきだ。無理解によって、善き猫を苦しめてはならないという心理が働いている。気味悪がられたら可哀相だ。化け猫扱いだなんてひどい。
そう言い聞かせてみると、……ミーコのことをまた見つめてみた。……でも、喋らない方がかわいい気はしている。
「お前はその……、いや、すまん。なんでもない」
「なんでもなくても話し掛けてくれると良いニャ」
元に戻れるとしたら元に戻りたいかと、ちょっと聞きたくはなった。それは俺が気に入るかどうかじゃなく、どちらが幸せなのかという、そういう問題だが、そもそも元に戻る魔法があるのかは分からない。それに加えて、こいつはもしかすると、俺のために元に戻ると言い出しかねない気がした。
俺のために戻ろうとする、などというのは、根拠もない勝手な想像ではあるが、まっすぐな視線が、そう言い出しかねない危うさを感じさせた。だから俺はそれを聞くことができなかったし、もし戻りたいという気持ちが芽生えたのなら、それは俺が問うのではなく、ミーコが自分から、自分のために言い出すのを待つべきだと思った。
戻せるとして、戻りたいとして、そうするとこの精神性は失われてしまうんだろうか。いざそう考えると、それはそれで寂しいものかも知れない。
「ああ、そうだった。鍵掛けてなかったな。ここが今日から、お前の家だ」
途中立ち止まったりもしたし、随分とゆっくり歩いたような気がした。猫の歩みに合わせていたというのもあるが、いつの間にか俺は、ミーコの声に微かな安らぎを感じるようになっていた。
話し掛けて答えが返ってくることを、少し嬉しく感じるようになっていた。なんなら話題などなくとも、声を掛けたい気持ちが芽生えつつあった。それがどうしてなのか自分でもはっきりと結論が出ない。単に不思議と、声を聞きたい気持ちがあった。ミーシーを追って家を出たから、財布も持っていないし鍵も掛けていなかった。そのまま玄関を抜ける。
「ただいま、ニャ」
「……おかえり、ミーコ」
「靴ない私もそのまま上がって良いかニャ?」
「遠慮するな。猫なんだから仕方ない部分に文句言ったりしない。大して汚れもしないだろう」
ぴょんと飛び乗るのは、やはり猫らしい動きだった。アンミが居間から顔を出して俺とミーコの様子を窺っていた。
「おかえり健介。やっぱりミーコ、健介に懐いてる」
「ああ、取り乱して悪かったな。割と平気になったかも分からん。性格も良さそうだし……」
一般的な懐いてるというのとはちょっと違うが、ミーコは俺のすぐ後ろでちょこんと座っていた。端から見れば懐いてるように、見えそうではある。




