No.0006
階段の辺りは電気がついていなかったので、窓から差し込む淡く青い光が頼りだった。
それと階段の縁に取り付けられた緑色の蛍光色が発色している。その滑り止めがあるおかげで二人は安全に二階へと上がる事が出来るのだ。
二階へと上がるとすぐにタバコの臭いが漂って来た。その臭いをかき消すような鈍い換気扇の音が天井から聞こえてくる。でも少年はそれに険悪感を感じるという事は一切無かった。むしろこのようなタバコの臭いは、どこか懐かしいような気さえ感じていた。
「タバコの臭いが残ってる。嫌じゃない? ママが吸うんだけど」
少女が心配そうな顔をしながら問いかけてきた。
「全然大丈夫だよ。なんか懐かしいような感じがする」
少年は言った。
「そう? なら良かった」
彼女は、安心したかのような顔になった。そうして
「こっちだよ」
と、少年の手を握って案内した。
少女の手のひらは少し冷たくて気持ちよかった。この家に来た時に最初に見た彼女の絵にも、同じように白い手が描かれていたが、実際に自分の手を握られると夢見心地になってしまう。
遠慮がちに手を引く少女に連れられて少年はさらに足を進めた。
力加減が分かっていないみたいで、彼女の足取りは少年に合わせようと必死だった。その必死さに彼はすごく微笑ましい気持ちになった。
そうして少女がこちらを振り返った。
「ここが私の部屋なの」
大きな茶色の扉に、金色のドアノブが取り付けられている。少女がドアノブを引くとそこには彼女の部屋が広がっていた。長い夜を一人で過ごすために存在する彼女だけの空間だった。外を取り巻くタバコの臭いはこの部屋にはまだ侵入してきていない。純粋な布団の匂いを嗅ぐ事ができるのだ。
「広いね」
「ありがとう」
お互いの顔を見つめてまた「ふふふ」と笑った。
「今日はここで寝るの」
少女は自分のベッドの方へ向かってそう言う。
「いつもは一人で寝るの?」
少年が問いかけた。
「そうだよ。でも、今日は二人」
その声は少年の胸を躍らせた。少女は少年を誘っているのだ。その心情を彼が汲み取った時、彼の心の中で再び情熱が暴れた。
「そうだね。今日は二人」
少年は彼女の言葉を反すうした。目の前にいる少女はその可憐な瞳に微笑みを浮かべている。
彼は、ふと窓の方向へと目を向けてみた。
外は紺碧で月明りの元に樹々がゆらゆらと、ざわめいている。
「ベランダに出てもいい?」
少年がそう問いかけたのは一度、外の空気を吸ってみたかったからである。風の音を聞いて、少女と空を眺めたかったらである。
「いいよ。一緒に星を見よう」
彼女はベランダの方向へすたすたと足を進めると、すぐに大窓を開け放った。
直後、澄んだ空気が部屋に流れ込んで来た。
その空気は二人の意識の内側に大きな足跡を残して行くような感覚に陥れた。それは初めて感じる壮大な宇宙の始まりであり、常に今この時、この瞬間こそが自分たちの生命の始まりでもあるという気付きの訪れでもあった。
「いい匂い。外の空気っていい匂いがするんだね」
彼女がそう言ってきた。実をいうと少年も同じ事を言おうと思っていた所だった。
なので、目の前の少女と同じ事を考えて、同じような感覚を共有しているのだなと思った時、少年はさらに彼女に親近感をおぼえた。自分と少女の距離がぐっと縮まるような気がして、嬉しい気持ちになった。
「清々しい夜の風だね。ああ、最高だよ」
少年はその場で大きく深呼吸した。
上空には紺碧の空がある。澄んだ空気は何処までも続いていて、繊細に輝く星たちの点々に二人はうっとりと空を眺めた。
彼らの目も徐々に研ぎ澄まされてきた。月明りのみの暗闇に目が慣れてきたのだ。
その慣れた瞳がハッキリと捉えたのは、天空に敷かれた壮大な天の川銀河だった。
「すごい。あれ、天の川っていうんだよ」
少女が語った。少年もまた、彼女と同じように天の川銀河に心を奪われていた。
「知ってるよ。ねえ、織姫と彦星の話は聞いたことある?」
少年は、彼女におとぎ話を聞かせたくなった。織姫と彦星の気持ちを自分たちに投影してみたい気持ちになったからだ。
「聞いたことあるよ。七夕にしか会えないんでしょう」
少女は言う。
彼は、今日が僕らの七夕なのかもしれないなと、少し切ない気持ちになった。
「そうだよ。なんだか可哀そうだよね。天の川が二人の間にまたがって、会う事をできなくさせてる」
少年が言う。彼は織姫と彦星の悲しい宿命を気の毒に感じていた。
「でも七夕が来てくれる日を楽しみに待ってる」
少女が言った。その言葉の内側には、悲しみの中に隠された淡い希望のような柔らかさが感じられた。
「そうだね」
それから暫く沈黙があった。ずっと空を眺めていて、少年は少しだけ肌寒くなっていた。
「ねえ、僕らが星を見ているっていう事は、星たちも僕らを見ているのかな」
少年がふと気が付いたように少女に問いかけた。
「うん。きっとそうだよ。だって、私たちの瞳と星との間には、遮るものが一切ないんだから」
彼女がそう言った。その言葉を聞いて少年の心の中には壮大な清々しさが残った。
それはいつまでも消えずに、彼の内側に張り付いている。
「そうだよね。じゃあ、星が見えるって事は宇宙が見えているって事。青い大空、空に手が届きそうって事は、宇宙の果てを見ているのと同じ事。だよね? だって空の果てと僕たちの瞳の間には、遮るものが一切ないんだから」
彼は興奮した感覚になって少女にそう問いかけた。
彼女は黙ってうなずいてから
「よく分からないけど、きっとそれは本当の事だと思うよ」
と言った。
少年は思った。
例え宇宙ってヤツが、光の届かない漆黒の世界だとしても、そこにはちゃんと果てがあるような気がする、と。もしも仮に、果ての無い無限に続く空間だとしても、僕たちの瞳は限りなく宇宙の果てに近い場所を捉えて、見つめているはずだ、と。
そうして少年は、ある一つの妄想が込み上げてきて、それを少女に語りたくなった。
「ねえ。少しだけ僕の考えた事を聞いてくれる?」
「うん。でも少しだけじゃなくて、いっぱい聞いてあげる」
彼女はそう言って微笑んだ。
「ありがとう」
少年の心が温かくなった。この時、この瞬間をいつまででも噛みしめていたい気持ちになった。彼の妄想は、今、言葉になって少女の心に伝えられる。
「僕はあの星に届くくらい長い棒を持つんだ。そうして、東の果てから西の果てへと、大きく棒を振りかざすんだよ。ブゥウウーーン。棒は一気に空を這うよ、棒の先っちょは物凄い速さで、一瞬で宇宙の端から端へと通り過ぎる。きっと光よりも早いはずだよ」
「すごーい」
彼女は驚いた表情になってそう言った。
「ねえ、光よりも早いってどのくらい早いの? 新幹線よりも早い?」
「うん。速いよ」
「えっ。じゃあロケットよりも速いの?」
「速いよ!」
二人は興奮の面持ちを浮かべながら想像を膨らませていた。
「じゃあ、アナタが振りかざしたその長い棒に乗っていれば、織姫と彦星も一瞬で会う事ができるんだね」
彼女はそう言って、一筋の淡い希望の熱を心に燃やしているみたいに顔を真っ赤にした。
「うん。多分そうだよ。何て言ったってロケットよりも速いからね」
「嬉しいな」
ひとたび二人が想像を語り終えると、また沈黙が流れた。でも決してその沈黙は二人にとって気まずいものではなく、お互いの呼吸を感じられる至福の瞬間であった。
「ねえ、そろそろお布団に入らない?」
先に声を発したのは少女の方だった。時間的にも、もうそろそろだなと少年は感じていた。今から彼女と同じお布団に入って、朝まで心の熱を感じるのである。
二人はベランダを出た。彼女は大窓をパシャリと閉め、鍵を閉めて戸締りをした。
しばらくの間、外の新鮮な空気を感じていたので部屋の中に入ったら布団の匂いが強く感じられた。
その布団の匂いの中にも、先ほど二人が二階に上がったばかりの時に感じたタバコの臭いが混じっていた。少しだけ二人の鼻をかすめるけれども当然、その臭いには不快感を得るなんていう事はなかった。理由は分からない、でもどこか懐かしい気がした。
彼女はこうして「おいで」と手招をして少年を誘う。
彼は魅せられるようにしてついて行った。少年と少女はすぐにベッドに入って羽毛布団を被った。太陽の光をずっと浴びていたかのような独特な匂いがする。
豆電球の明かりの元に照らされた少女の可憐な眼差しを見て、少年は痛い程胸が苦しくなった。今日はこのままずっとこうして寝るのだ。
それは、少年にとって安らぎであり、癒しであり、心の休まる最高の瞬間だった。
「嬉しい。アナタも嬉しいと思ってる?」
少女が心配そうに問いかけてくる。
「すごく嬉しいよ」
彼は答えた。
本当はすごく嬉しい、なんていう言葉じゃ表現し足りない程に嬉しかったけれど。
「うふふふ。本当に嬉しい?」
「うん! 本当に嬉しい」
「じゃあ、両想いだね」
「うん。両思いだ」
少年はそう言ってみたけどすぐに恥ずかしくなって顔を赤くした。
またそれから沈黙があった。会話がたびたび途切れるけれども、その瞬間も彼らにとって心地良い瞬間である事は必然的だった。
「ねえ。さっき寝ちゃったから、あんまり眠くないよね」
少女は布団の中でそう問いかけた。上目づかいが彼をジッと見ている
「うん。僕も眠くない。でもいいじゃん。朝になるまでお話してようよ」
彼は、すこしワクワクした様子で言うけど、少女は
「それだと少し疲れちゃうよ」
と眉をひそめた。そうして彼女は、何かを思いついたように布団から這い出た。
「どうしたの?」
「本を読み聞かせてよ。交代で読み聞かせし合うのはどう」
少女は本棚の方向へすたすたと歩いて行った。
少年は彼女の後を追いかけるようについて行った。
「ねえ。アナタが本を選んでみて。そして、それを読み聞かせするの」
「えっ。どうして」
「夜寝れないから、アナタの声を聞いていたいの」
「じゃあ。僕が読み聞かせをしたら、君もおんなじ様に僕に読み聞かせてくれる?」
「うん! もちろんいいよ」
そういう事で、二人は本棚の前に立った。それは二人の背丈よりも高くて、一番上の本には背伸びをしても手が届かないくらいであった。
手の届く棚の中にも多くの本が立て掛けられてある。でも、どれも埃をかぶっていて、暫くの間ずっと読まれていないみたいだった。しっかりと並べられたその古ぼけた本たちは少年に、どれも難しそうな内容だなあ、と感じさせた。
そこで彼は目を瞑って一冊だけ引き抜いてみる事にした。そうして引き抜いた本がどれだけ難しい内容であっても、最初の一ページくらいは読んで、大体の内容くらいはイメージとして捉えてたいと思っていた。
彼はすかさずギュッと目を瞑って、指先を本棚の中に伸ばした。手の平が本と本の間に触れる。その隙間に指を突っ込んで、一冊をつまみ出した。
薄い本だった。ページをめくると一枚一枚が茶色く日焼けしているのが分かる。この豆電球の淡い茶色の光の元であっても、それはハッキリ分かった。背表紙とタイトルには『ゼロ月の豹変』と書かれていて、よく分からないオバケみたいな絵が表紙を飾っていた。
彼は、覚悟を決めて、最初の一ページ目を開いた。紙の真ん中に大きく
『ゼロ月の豹変』
と書かれている。さらにめくる。もう一ページ。目次は飛ばして次のページの
『まえがきにかえて』
を読んでみる事にした。必死で一行一行を追う。