No.0005
その間じゅう時間は律儀に流れていく。
そのうちに、二人に睡魔が襲い掛かった。いや、襲い掛かるというよりも覆いかぶさるように確実でのっしりとした眠気だった。
少年と少女は、その眠気を歓迎していた。最高の時間つぶしだったからだ。
二人は自然とお互いの体に覆いかぶさり身を寄せ、抱き合って、ゆっくり目を閉じた。
少年は、自分の体にくっつく少女の体に微かな命の流れを感じて、その芸術を眺めて、外の世界にひしめくあらゆる苦しみをも忘れた。
少年と少女が目を覚ました時、外の世界では数時間が経過していた。
今は、何時なのだろうかと少年が考えて、風呂場にあったデジタル時計に目をやると18時15分となっているのを確認した。
「もう夕方だね」
少女がまだ寝ぼけた口調でそう言った。その少し頬を赤らめた少女の表情が少年にとってたまらなく好きだった。
「そうだね。夕方だ」
「大丈夫? お腹すいていない?」
彼女が心配そうに聞いてくるので、彼は
「いや、あんまりお腹すいていないよ」
と答えた。事実、少年は全然お腹などすいていなかった。少女のあどけない初々しさで胸が一杯だったからである。
「そう? ならよかった。そうだ。私の服は乾いたの。どう? アナタの服は乾いた?」
彼女に問いかけられて、少年は自分の服の裾を触ってみた。
乾いていた。あまりにも服が簡単に乾いてしまった事に拍子抜けした。
この後、少女と共に二階へと上がる事が出来るのである。彼は想像した。目の前のキレイな瞳をした少女と共に布団へ入って、夢の中へと旅をするその光景を鮮明に想像する事ができたのだ。
「僕の服も乾いているよ。これからどうする?」
少年が少女に問いかけた。答えはもう決まっているようなものだった。
「じゃあ、このお風呂場から出て二階へ向かおうよ」
「いいよ! そうしよう」
彼女の提案に少年は快く承諾した。彼女とずっと二人きりになれるというのは非常に嬉しかったのである。
少女はお風呂場の扉を開いた。開くと、洗面所からは柔軟剤の匂やかな香りが漂ってきて、その匂いが少女の髪をかすめて少年の肺に吸い込まれた。
その芳香を感じると彼はクラリと目眩を起こした。彼女のふわりとした髪の匂いに陶酔したからである。そうして、これから少女と共に夢の世界へ行ける事に期待していた。
「ねえ。着いてきて」
「うん」
彼女に言われた通りに少年は少女の後について行った。
この家の中は非常に広く、壁は黄土色の砂刷りで、廊下の壁には銀色のワイヤーで吊るされた絵画がいくつもあった。
その殆どの絵画が抽象画で、丸とか四角とか線が交差してその重なる部分の色が変色しているのだ。
抽象画であるのにも関わらずセロハンを透かした時のような色の変色を見事に描いているので、その一部に垣間見える具象の連鎖こそがアートなのかなと少年は考えてみた。
でも違う。彼女の家に吊り下げられた抽象画にはもっと深く、もっと本質的な何かが存在する。
その本質を少年はまだ理解する事が出来なかった。そうして、今後もこの芸術の本質は理解する事はできないだろうと直感していた。
ナンセンスは、意味がない事。それ自体に意味があるのだ。
「ねえ見て」
少女はその時、一つの抽象画を指さしてそう言った。
「この絵は私が描いたの」
美しい抽象画であった。
白と黒のコントラストで描かれた毅然としたペンの走りは、大胆にも空間と空間どうしのニッチな狭間を縫うように引かれ、少女の見出すイデア界の描写が、その平面へと映し出されているようだった。
「すごい」
少年は言葉を失った。
その言葉を失った原因とは、少女の絵が上手だったからというのもあるが、何よりも彼女が描いたという事それに意味があった。そこに何が描かれているか、というのも重要であるが、誰が描いたかというのもまた非常に重要になってくるのである。
「ほんとう? どこら辺がずごいの」
彼女が興味深そうに聞いてくる。
「どこがって聞かれると分からない。でも君が描いたのなら僕は好きだよ」
少年は少女の瞳をジッと見つめた。彼女の頬が少し赤くなっている。上目づかいをする少女に見つめ返されて少年の心はさらに洗われるような気分になった。
「ふふふ」
と嬉しさのあまり笑いが込み上げてくる。
そうして二人は足を進めた。