№0017
史郎はこの一話目を読んで、パタリと本を閉じた。そして雪の方を見る。
「……いや、凄かった。ていうかこの女の子、頭良すぎだな、と思った。よくこんな本を見つけたね」
「ええ。この間偶然。古本屋さんで見つけたんだ。初版はかなり前みたいだけど、絵柄を見た時……なんか志賀崎の顔が浮かんできて」
雪は少しだけ、うす笑いを浮かべている。
「へえ。俺の顔ね」
「ま、そろそろ」
「うん。行こうか」
こうして二人は外に出る。自動ドアを出てから、外へ通じる重いドアを史郎が開いた。
道は開けていて、最寄りの駅までは二十分くらい時間が掛かる。線路沿いの道だったので度々、電車が走る。その轟音は周りの空気を埋め尽くす。駅前近くの交差点は、いつも混雑しているけれど、今日は朝が早いのでそれ程でもなかった。
史郎と雪は、歩いている間ほとんどの会話が無かった。でもそれは決して気まずいものではなく、沈黙と沈黙の間に存在するある種の音を感じていたのである。彼らにとってその音は心地の良いものだった。
そして、少し歩くと駅に着いた。小さな駅ではあるけれど、人は多かった。
改札を通って、ホームに出る。彼らは、特に電車の時刻表を見て調べた訳では無かったけど、目的の電車はもうすでに到着していて、ドアを開いて待ってくれている。
「ちょうど良かったね」
雪が言う。
「うん。そうだね」
乗車すると、席は思ったよりも空いていて、二人はすぐに隣どうしで座る事ができた。
史郎はリュックを膝の上にのせて、暫くぼうっと窓の外を眺めていた。移り変わる景色を眺めているのが好きだから、彼は電車の窓に張り付けられた広告が邪魔だな、と感じていた。
「ねえどこで降りるの?」
雪が聞いてきた。ここで電車が発車する。反動で二人は揺れた。
「赤羽。それからまた少し移動する」
「そう。じゃあまだ時間がかかるね」
「うん」
そうして暫く会話が途絶えて、窓の外を流れる景色だけが、移り変わる。外は晴れ。快晴とまではいかないけれど、絵の具のような空に、絵の具のような雲が塗られている。
湘南新宿ラインが出発して、まだそんなに時間が経っていなかった。
でも何故か、史郎はふと眠りに落ちていた。
うつらうつら……史郎は今、自分が電車の中で眠っているんだな、という事を自覚していた。
確かに意識は遠のいてはいるけど、まだ脳みそが活発に動いている。
そんな時、夢と現実の境目にいる時、決まって彼の身に起こる現象があった。
彼はここで、本日二度目の幻聴を聞く。
じゃあ、アナタが振りかざしたその長い棒に乗っていれば、織姫と彦星も一瞬で会う事ができるんだね。
その幻聴を聞いて、史郎は不思議な感覚に陥った。そうして、こんな事を思った。
(僕が振りかざした長い棒? この電車の事かなあ? いや、どうだろう。それは違うのかな。織姫と彦星? 誰の事だろう。まあ、良いか。世の中には相対性理論ってやつがあるんだ。万事オーケイ。大丈夫だって事だろう)
実を言うと、まったく大丈夫などでは無かった。
何故か。
彼は、雪と一緒に電車に乗っていたはずなのに、どうしてだか、タクシーに乗車していたからである。そうして、隣を見ても雪はいなかった。なので、これは夢ではないな、と思ってしまう。夢というのは、現実を生きている人間にしか見る事ができないからだ。非常に不合理で……それでいて曖昧な幻想なのだ。
その幻想の中に、史郎はいた。
曖昧さの中にある、ある種の「反れ」の渦の中に、おのずと身を任せていた。
ゆらりゆらりと、景色が変わって行くのを、史郎はただぼうっと見ていた。タクシーのあの独特の匂いも、座席のシートの感覚も、シートベルトはまだ締めてはいなかった事すらも感じる事ができた。
「お客さま…………やっと会えましたね」
史郎はいきなり、そのタクシーの運転手さんに話し掛けられた。彼はどのように受け答えをすれば良いのか分からなくて。少し口ごもる。
「あ、はい」
運転手は若い女性だった。少し意外だな、と彼は思ったけれど男女平等が叫ばれる現代において、まあ女性運転手というのも珍しくないのかな、と思った。
「志賀崎様」
運転手はそう言って、こちらの方を振り向いた。非常に綺麗な人だった。なので彼は思わず息を飲む。
その清らかな切れ長の目は、まるで全ての物語を悟っているとでも言うような……そんな、ある種の危険な眼差しであった。その瞳の奥を覗いて、史郎は直感的に懐かしさを感じた。デジャヴとか既視感とかいうありきたりな物ではない。もっと壮大な過去の物語を秘めているのである。
「ご乗車ありがとうございます。志賀崎様。ただいまの場所は、『夢の中』『夢の中』でございます。タクシーは間もなく出発いたします。シートベルトをお閉めください」
運転手さんの透き通るような美しいアナウンスの声を聞いた。その内容を聞いて彼は
(まるで電車の車内アナウンスそっくりだ。)と、思った。
シートベルトを締めろという事だったので、彼はその通りにする。運転手さんは、ミラー越しに微笑みを浮かべている。
「ご準備はよろしいでしょうか。次の停車場所は『不思議な思い出』『不思議な思い出』でございます」
「えっ。不思議な思い出……それは、貴女との思い出という事ですか?」
余程、夢うつつだったらしく、史郎は多少ヘンな質問をしてしまった。
それからハッとして、
「あ、すみません。ちょっと聞き覚えがあったので、不思議な思い出、という場所は、昔俺の友達が描いた絵のタイトルと同じ名前だったもので、つい」
「……うふふ。いいんですよ。誰でもそういう事はあります。お気になさらず」
「……すみません。僕は、少しぼうっと、してしまっているみたいです」
「少しの間の時間ですけど、眠ってしまっても、良いんですよ」
運転手の女性は、やわらかい声で、そんな事を言う。史郎はなぜかその声色に懐かしさを感じていたので、すぐにウトウトしてしまった。
でもそのウトウトは運転手のある一言で、すぐに消え失せた。
「……志賀崎様……あなた、幼い頃の事を、何もかも忘れてしまったのでしょうか」
「……えっ」
彼の心臓の鼓動が強まるのを感じた。理由は分からない。けれどもその言葉は自分にとってかなり重要なメッセージであるな、と直感していた。
「……いいえ。何でもありません」
運転手の女性はそう言ってから、再び悲しそうな目つきをした。その表情を見て史郎は、やはりこの人はどこかで見た覚えがあるぞ、と感じた。
「志賀崎様。おそらくですがこの後、アナタの人生に、進展がございますよ」
「えっ」
史郎はまた驚く。
自分の人生に進展がある。そんな事を言われた彼の脈拍はもういちど上昇する。
「……それは、どういう意味ですか?」
「文字通りだと思いますよ…………あ、見てください。志賀崎様、もうすぐ到着です。世界が見えてきました。ほら、不思議な思い出」
彼女に促されて、史郎は顔をあげてみた。タクシーの窓の外には柔らかな雨が降っている。辺りは暗くて昼か夜かも分からない。ただ、ゆったりとした風の流れを感じる。
所々に外灯の光がぽつりと輝く。史郎は、ここはどこなんだろう、と不思議に思う。
外の空気を確認したかった彼は、タクシーの窓を開ける。小雨は、史郎の顔に降りかかる。冷たくて非常に心地よいと感じた。
彼はもう少し窓から顔を出してみる事にした。やはり外は薄暗くて周りの景色を細かく見る事はできなかった。目を細めてもこすっても、それは変わらない。
彼はふと空を見上げる。その空模様を見た時、史郎はいささか意外に思った。空が晴れているのである。霧雨が辺りの景色を包み込んで、外灯のオレンジ色は、ぼやけてしまっているのに、だ。それでも空には雲一つない。
ここで史郎は、自分の目が暗闇に慣れてきた事に気が付いた。冴えわたったその瞳は、上空に浮かんでいる壮大な天の川銀河を見た。
「……もうすぐ七夕が来ます。そしたら織姫と彦星は、きっと、ずうっと愛し合う事ができるでしょう」
運転手の女性はそう言った。その声は希望に満ち溢れている。七月の七日が過ぎ去ってしまえば、二人はまた離れ離れになってしまうのになあ、と史郎は思った。それでも会う必要があった。また再び出会わなければならないのだ。
「反れ」という社会がもたらした、ある種のいびつな状態は、実際に存在する。現実の世界に立ちはだかって、人間を「オカシナスガタ」へと変えてしまう。
その現状に気が付いた少年たちは、突破口を切り開こうと、各々が持っている長い棒を振りかざして抵抗する。
しかし効果が無いのだ。何故か。「反れ」によってねじ曲がってしまった世界のもとでは、そんな長い棒など、ただの暴力となってしまうからである。
割られた窓ガラスや、汚い落書きのように、全く無意味で価値が無いものへと変えられてしまうのである。
「運転手さん……」
史郎は静かに語り掛けた。
「……俺は、この世界に「反れ」っていう醜悪な現状があると思う。多分、あなたも、「反れ」の現状を経験しているんじゃないですか? この不思議な思い出は、もしかしたら、あなたの「反れ」が作り出した世界なのかもしれない」