№0016
雪が戻って来たのは、史郎が三匹目のスズメを見かけたすぐ後だった。
彼女は白いカーディガンに、デニムのスカートという格好で、肩からやや大きめのポーチをぶら下げている。
「ごめん待った?」
と彼女は気さくに声を掛けてくる。史郎は、
「待ったけど、さっき、もう一匹スズメが来たんだ」
と話をする。すると雪は「きっとこの場所が好きなんだよ」と微かに微笑んだ。史郎はそんな彼女の頬笑みが好きだった。ふわりと場の空気が柔らかくなって、優しさで包まれるようなそんな笑顔だ。
「どうしよう? 史郎、もう出発するの?」
「そうしようと思う」
彼は言った。しかしながら、彼が今手に持っている情報というのは、年賀状に書かれてある住所だけであって、実際の所、史郎は翼の家がある場所を知らなかった。
だから、そんなよく分からない土地に、幼馴染の女の子を連れて行くというのは抵抗があった。
「住所、分かるの?」
そんな史郎のいささかの不安を読み取ったかのように雪が尋ねる。
「住所自体は分かっているんだ。ただ、少し遠くてね。翼の家には行った事がないから、少し時間がかかるかもしれない」
史郎は、なにか苦言を言われるのかな、と思っていたが、彼女は思いのほか優しく頷いた。この状況を受け入れているとでも言うかのような、そんな表情で。
「うん、そうなんだ」
「まる一日、付き合ってもらうかもしれない」
「うん。大丈夫よ」
彼女がそう言ってまた微笑むので、史郎は少し安心した。こうして二人は、マンションの外へ出る。まず初めに向かうのは最寄り駅だった。
東京都北区は、史郎たちが住んでいる場所から少し離れている。湘南新宿ラインで、はじめに赤羽まで行かなくてはならない。そこから京浜東北線で数駅離れた場所まで乗り継いで、またしばらく歩く。
ハガキの住所と、電柱などに張られた住所を照らし合わせながら、翼の家を見つける過程を踏むのである。
「調べないの?」
と、彼女が言う。
「ん?」
「グーグルマップとか、使わないの?」
「ああ」
そう言って史郎は、この前壊してしまったスマホをリュックの中から取り出した。これはいつでも持ち歩いている。それを見た雪は、苦笑いを浮かべた。
「どうしたの? これ」
「自分で壊した。SNSは、あまり使いたくない」
「ふうん」
彼女はそれから深く詮索をするという事はなかった。
「そうだ」
雪は、突然何かを思い出したかのように、ポーチの中から一冊の本を取り出した。
「そういう事なら、電車の中で暇になるでしょう? 君が好きそうな本持ってきたよ」
彼女がそう言ってふと笑ったので、史郎はその本にちょっとだけ興味を抱く。自分が好きそうな本をわざわざ知っていて、そして持ってきてくれたのである。ぜひとも見たい衝動に駆られた。
「ちょっと拝見させて」
史郎が言う。そして彼女から本を受け取った。
「カバー外していい?」
本には、赤紫色のブックカバーが付けられていたので、史郎はその本のデザインを確認したかった。
「どうぞ」
彼が、その本のデザインを一目見た時(ん? どこかで見覚えがあるぞ)と思った。本は比較的薄くて、表紙には、何かよく分からないオバケみたいな絵のデザインがされている。作画がどこか翼の描く絵に似ていたので、既視感の正体は、これかな、と思う。
タイトルを見る。
『ゼロ月の豹変』
説明を見る。どうやらデビュー作らしい。
「読んでいい?」
と史郎が聞く。
「すごい長いよ? 今読むの?」
「まあ、気になるから」
彼はページを開く。『目次』と、『まえがきにかえて』は飛ばして次のページ。
「気になるから、少し読ませてもらう」
「どうぞ」
こうして彼は、暫くの間、短編小説の中にのめり込むのである。
『ゼロ月の豹変』
『第一章 その色白の少年について』
◦宇宙がキミの体を使って、世界を感じられている間に、ボクは外側の世界を過ごす。
◦君が宇宙の一部を使って、世界を感じられている間に、この世はふたたび豹変する。
◦少女はその小さな体で、世界を仰ぐ。
◦ゼロ月、始まった君は、すべてをボクに見せてくれた。
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そのとき、部屋の中にあるオレンジ色の電灯は、少年と少女を柔らかく照らしていた。時間は、夜の八時ごろである。もう窓の外には星が点々としていて、天の川がこの広い紺碧の空へと見事に立ち塞がっていた。
「見て……これで、絵は完成」
七歳か、八歳くらいの色白の少年は、そう言って自分が描いた絵にサインを入れた。絵は、今いる目の前の少女をモデルとした水彩画で、力強い魅力をとき放っている。
「じょうずに描けたねぇ」
と、その切れ長の目の美しい少女が微笑んだ。
「俺が、上手に描いたわけじゃないよ。君が可愛いから、絵の君もそりゃあ可愛いんだよ」
「えっ。照れちゃう」
少女は俯いた。二人は水彩画を描いていたのである。
四つ脚の、小さなテーブルを床に広げて、そこに絵の具とパレットを並べて、少年は少女の姿をジッと見つめながら、淡々と描き上げたのである。
「すごい」
と、少女が言う。その目は清らかで、そして輝いていた。
「君もすごいよ」
少年が言う。
「えっ。どうして私がすごいの?」
「……そりゃ、俺を……こんなに暖かい気持ちにさせるからぁ」
「……暖かい気持ち?」
「うん」
少年は、少し顔を赤らめたまま、それから話すのをやめた。彼は無言のまま立ち上がって、砂刷りの壁に掛けられている絵画を眺め始めた。
「赤い靴が二つ。靴の絵なんか描いて、面白いのかなあ」
「それはお父さんが描いたの」
少女は悲しそうな瞳をしていた。
「君のお父さんは、絵が上手なんだね」
「ありがとう。でも…………」
「……でも?」
「何でもない」
少年はこれ以上、少女にいろいろな質問をする事はしなかった。気を使った訳ではない。ただ、目の前の可愛らしい少女と共にこの幻想的で芸術的な絵画を眺めていたいと思うだけだった。
「ねえ。この絵、がくぶちに入れない?」
「がくぶち? いいの? あるの?」
「ある! パパの部屋」
少女はそう叫んで「パパの部屋」へと向かったので、少年はその後を追いかけた。
二人はその「パパの部屋」の前に来た。トビラには幾何学模様みたいなのが描かれていて、その中に鏡が取り付けられてある。
部屋の、オレンジ色の電灯の光が、隙間から差し込んでいるものの、辺りはそんなに明るくは無かった。今の時間は夜なので、明るい日の光は全く無い。
「ここがパパの部屋だよ」
少女は嬉しそうな表情をしながらそんな事を言う。
「へえ。そうなんだ」
と、少年が答える。
彼女は、すぐにトビラを開いた。電気がついていなかったので、部屋の中は真っ暗だった。壁のところに、赤く光り輝くスイッチがある。少女はその細く白い指で、そのスイッチを押した。すると電気が付いた。
「おお、すげぇ」
少年は驚きの声を上げた。
それは部屋の中一帯に、カフカとか、ドストエフスキーとかの本がたくさん並べてあって、壁にはあらゆる種類の絵画が掛けられていたからだ。
抽象画もあり、具象画もあり、その中間もあった。リアリズム絵画もあって女の人の裸も描かれている。
「あっ」
少女はびっくりした声を発した。何だろうかと思って彼は少女の顔を覗き込んだ。
「またいる」
彼女は、そんな事を言って部屋の奥にある机の上を指さした。少年はその場所をジッと見つめた。そこに居たのは二匹のスズメだった。そのスズメは、チュンチュンと、机の上を軽快に歩いていた。
「スズメだ……何でここにいるんだろう」
と少年は聞いた。
「たまに遊びに来るの。どこから入ったか分からないけど」
「ほんとだね。どこから入ったのか」
しばらく二人はそのスズメを眺めていた。
「ねえ、例えば、道で出会ったスズメに餌をあげるの」
少女が話し始めた。
「そしてそのスズメは私の手のひらから餌を食べてね、嬉しそうに外へと飛び立つの。でもね、その後はもう私とそのスズメは、二度と出会う事がないかもしれない」
「うん」
少女のお話に少年は頷いた。
「私も、そのスズメも、ちゃんと生きていて同じ町に住んでいる。でも、会えない。それは、私とあのスズメが同じ街に住んでいるけれど、違う世界を生きているからだと思うの」
「へえ」
少年は話を聞き流していた。
と言うのも、自分には少し難しい話だと感じていたからだった。
「でもね、それでいいの。例えば私がそのスズメを捕まえて、ずうっと、ずうっと可愛がるのはダメな事なの。それはね、そのスズメがね、本当は、広い世界へ旅立つはずの運命だったからなの。それを私が捕まえるのは、運命に「反れ」てしまっているの」
「へえ……「反れ」てしまっている、ねえ」
色白の少年の中に、その言葉がいつまでも反響している。とてもいい響きだな、と彼は感じ取った。
「スズメ」
少年がそう声を発して、少女と共に机の上を振り返って見た時、もうそこには二匹のスズメはいなかった。その気配だけを残して、足跡も残して、広い街へと消えて行ったのである。本来の世界へ、飛び立って行ったのである。
「ところで、がくぶちは見つかった?」
と少年は問いかけた。すると少女は、机の方へ向かって行って、引き出しを開けた。
「ここだよ」
彼女が取り出した額縁は、あまり大きいサイズでは無くて、非常にシンプルな物だった。無駄な装飾はされていないけれど、さっき描いた絵を入れるのには最適であると思えた。
「いいね」
少年は少女から額縁を受け取った。
「ここへ入れよう。そして壁に飾るんだ」
そうして二人は部屋に戻ると、先ほどの絵を額縁へと入れた。型にはまるとより神々しさが増して見える。絵は、これで完成したのだ。
「すごい、綺麗」
と少女が言った。少年はそんな彼女の事を眺めて、すごく幸せな気持ちになった。
「どこへ飾ろうか」
少年が問いかけた。
「玄関がいい。お客さんが来た時に、真っ先に見てもらえる!」
「そうしよう!」
こうして、少女が描かれた水彩画は、玄関の所に飾られる事になった。ピクチャーレールがもう取り付けられてあって、ワイヤーにも数本の余りがあったので、まだ背の低い少年と少女でも、簡単に絵画を取り付ける事が可能であった。
その絵の少女の美貌は永遠に薄れない。