No.0012
《六》
三時十五分まで続いたつまらない授業が、やっと終わった。その後はちょっとした学活があって、放課後の教室はすぐ、がらんとした状態になった。
「史郎。俺は先に帰らせてもらう。ちょっと新しい油絵に取り掛かっていて、もうすぐそれが完成するんだ。多分『不思議な思い出』よりも、もっと凄いと思う」
翼が言う。史郎にとって、翼のその言葉は少しだけ疲れているようにも感じられた。理由は分からない。でも翼は少し、悲しい瞳をしていた。
「お前、描きすぎでしょう。またどこかの賞に応募するのか?」
「いいや、応募はもういいや。賞は取ったし」
「そうか。頑張れよ」
「ああ」
翼はそう言ってから、帰ろうとしてスクールバッグを持ち上げた。でも、持ち上げてから、何かに気が付いたかのように、机にそれをどんと置いた。
「ふと思った事があるんだ」
「どんな事?」
「…………人ってさ、変わるんだよ。良い意味においても、悪い意味においても。俺の絵も、昔とはだいぶ変わった。昔はもっと純粋であどけない絵が描けたんだ」
彼は遠い目をしながら言う。昔、とはどれくらい昔の事だろうかと史郎は思った。
「なんか、翼らしくないな。そう悲観するなよ」
「別に悲観している訳じゃないさ」
「ならいい。翼は、自分が思うように描けばいい」
史郎の言葉を聞いて、彼はニヤリ、うす笑いを浮かべた。
「じゃあな」
彼はバックを肩にかけて帰っていく。白いポロシャツに赤い絵の具汚れが目立つ。
彼の描く絵は、上手いのだ。
史郎は本日、二本目の缶コーヒーを飲んでいだ。
学校の建物の中には自販機は無かったので、一度外に出て缶コーヒーを買ってから、教室に戻って飲んだ。
史郎は本日、二本目の缶コーヒーを飲んでいだ。
学校の建物の中には自販機は無かったので、一度外に出て缶コーヒーを買ってから、教室に戻って飲んだ。彼が父親から受け取っているお小遣いは三千円なので、一日に三本以上はコーヒーを飲まないようにしている。彼はそれくらい、この飲み物が好きだった。
「志賀崎ィー。またコーヒー? ホントに好きね」
声を掛けて来たのは、同じクラスの雪だった。
夢ゆめ島しま雪ゆき。彼女は史郎の幼馴染で、同じマンションの四階に住んでいた。学校が無い日でも、図書館に行く道でばったり出会ったり、一階のエントランスで鉢合わせたりする。
黒髪のセミロングで、色白。少しだけ釣り目をしている。背丈は史郎よりだいぶ小さい。150センチくらいだ。そんな彼女は史郎にとっては、異性というよりも双子の妹のように思えた。
「ああ。そうだね」
と史郎は言う。
「あ。例のアレ、おめでとう!」
雪は何かを思い出したかのように、史郎を祝福した。
彼女の手が、拍手をする時の形になった。
「ん?」
「津島くん。表彰されたじゃない」
そんな事を言いつつ、彼女は、史郎の隣の席にあるイスを引っ張ってきて、そこに腰を掛けた。うす緑色をしたプラスチック製のイスだった。そこに座ってから、史郎を見つめた。
「ああ。ありがとう…………でも、どうして俺に?」
「だって、志賀崎と仲いいじゃない。いつも一緒にいるイメージだけど?」
雪が当然のようにそんな事を言うので、史郎は「ふふふ」と苦笑いを浮かべた。
「悪かったなあ」
そう言ってから史郎は(翼本人に、直接言えばアイツ喜ぶのに)と思った。あくまでも外見の話だが、雪は、他の女の子たちよりも、可愛いからだ。
「あ! あれ見たよ。何だっけ? 不思議な思い出?」
「おー。どうだった?」
「よかった! でも少しグロテスクな気がした」
その言葉を聞いて、彼は少し不思議な気持ちになった。あの絵は、果たしてそんなにグロテスクなのであろうか? と思考を巡らせてみた。確かに、翼の描く絵というのは少しアクが強くて、ある意味では人を選ぶ画風なのかもしれないな、とも感じたけど、それを差し引いてもグロテスクな要素は無いよな、と考えた。
「えっ。あの絵をグロいと思ったの?」
と、史郎が聞いた。
「なんだろう? 絵そのものは、ぜんぜんグロとは思わないんだけど……絵に隠された背景? が、なんかそんな気がした」
雪が言った。
「へぇ。よく見ているんだね。絵に隠された背景……かあ。なんか翼も同じような事言ってた気がするなあ。テーマに隠された何とかって」
「だから、グロいと思ったの。何となく」
「ふうん」
史郎はそっけない返事をした。それから、その、そっけない返事をしてしまう自分に違和感をおぼえていた。今、雪が言っていた事はかなり興味深い。どうしてそう思ったのだろうか、どうしてグロテスクだと感じたのか。もしかしたら、翼が描く絵画の本質というのが垣間見えるかもしれないと思って、雪に再びその事を聞いてみる事にした。
「ねえ」
史郎が話しかけると、雪は一瞬おどろいたような表情を浮かべた。
「ん? なに」
「どうしてグロテスクだと思ったの? 分かる範囲でいいから、教えてほしい」
「あっ。ごめん。気を悪くしたならごめんね」
いや、そういう事じゃないんだ。と、彼は思った。「グロテスク」という言葉は別に、悪い意味ではない。それに、翼の絵をとやかく言われても別に気を悪くなんかしない。
だから謝る必要は無いのだ。
「別に、気分なんか悪くしていないよ。ただ、あの絵から、グロを読み取るっていうのはなかなか感受性が豊かだなぁ。と、そう思ったんだ」
「本当?」
雪の瞳が少し輝いたような気がした。
「うん」
と、史郎は返事をする。
「ありがとう」
彼女が答えた。
それから二人は帰り道を、一緒に帰る事にした。同じマンションに住んでいるからという理由もあったし、別々に帰る意味も無かったからである。
そうして史郎はスクールバッグを担いで
「じゃあ、帰ろうか?」
と言った。雪は
「そうね」
と、相槌を打った。
帰りの道は、春の陽気で包まれていた。暖かい風が二人の頬を撫でる。花壇に咲いているビオラやサルビアの花たちが、その柔らかな風になびく。いい匂いがした。
初夏が近いのであろうか、今日は少しだけ暑い。汗がじんわりと滲むけれど、遠くからいきなりやってきた涼しい風が、それを緩和していく。
「うん……涼しい。けど、まだ暑さが残るね」
史郎が言った。彼はこの季節はそんなに嫌いではなかったので、その声色は晴れやかだった。
「うーん。暑いよぉ」
彼女はそう言って、長い髪の毛を耳に掛ける。でもそんなに暑そうではなかった。
二人はマンションの前に到着する。史郎はポケットから鍵を取り出して、オートロック式の鍵を差し込む。軋む音を立てながら、自動ドアがゆっくり開いた。
「ありがとう」
と、雪は言う。
築十年と経過していないこの建物は、まだ真新しい。エントランスに入ると、すぐ横に自販機が見えた。今朝、史郎はこの自販機で缶コーヒーを買ったのだ。
「奢ろうか?」
彼女がいじらしく史郎に尋ねる。
「いいや、悪いよ」
そう言って彼は、断った。女の子に缶コーヒーを奢ってもらう、という事はあまりしたくは無かった。そこまで気を使われるのは嬉しくない。
「そう?」
「逆に、何か奢ろうか?」
「私もいいや」
こうして、二人はエレベーターの前に立った。そして、やがてエレベーターはやってくる。二人は一緒に乗り込んで、雪は四階、史郎は九階のボタンを押した。ロープが巻かれていく低い音が鳴り響いて、二人を上へと運んだ。その間、彼らはとくべつ何も話はしなかった。話題は特に見当たらなかったけど、それは気まずい訳では無かった。
「じゃあね」
四階で扉が開いて、雪が降りた。
「うん。また、月曜日」
と史郎は手を振った。彼女も嬉しそうに手を振り返してくれている。
「後で、LINEするね」
「分かった」
扉が閉まってから史郎は、自分のスマホを粉々にしてしまった事実を思い出した。
「しくじった」
雪には、自分のスマホを壊した事は伝えていなかった。そして、今後も、おおよそ買い替えるつもりはない。
「あとで雪ちゃんのポストへ、手紙でも投函しようかな。ごめん、スマホ壊した。何? って」
彼は、そう独り言を発した。