No.0011
朝礼では長い校長先生の話の後に、取って付けたかのような、こぢんまりした表彰式が行われた。「津島翼」と名前を呼ばれた彼は「はい」と大きな返事をしてから、ゆっくりと壇上に上がって行った。
体育館はややひんやりとした空気に包まれていて、独特の木の匂いがした。
校長の声が、広い空間に反響している。
生徒たちの反応はまちまちだった。眠っている人もいれば、史郎のように目を輝かせている人もいる。中には「彼が賞を取るのなんて当たり前じゃないか」と言わんばかりにつまらなそうな表情を浮かべている人もいた。
体育館の後ろの方には、新聞記者と数台のカメラがあった。
まだあどけない中学生が大賞を受賞するというのは、業界にとっては異常な事態であり、選考の質さえ問われてくるような例外的な事例だった。それがどんな状況かという事を理解していた先生たちは感無量というような晴れやかな表情を浮かべている。自分の業績では無いのに……まるで自分たちの評価が上がる事を喜んでいるようにも見えた。
朝礼が終わると翼に対して、新聞記者からの取材があった。
記者は、翼にコンタクトをはかると、どこか座れる場所に移動するでもなく、その場で色々話を伺い始めた。
翼がどんな話をするのか聞きたかった史郎は、さっそく取材に耳を傾ける事にした。
史郎は翼の隣まで行く。
「なあ史郎。ちょっとこれ、持ってて」
翼は彼に大きな賞状を手渡した。取材を受けるあいだ、預かっていて欲しいという事だ。
史郎は賞状の文字を眺める。学校の名前と、校長の名前が書かれてある。それは、区や委員会から表彰された名誉あるものでは無くて、学校側が善意で彼に送ったものだとすぐに分かる。
体育館の倉庫近くには、史郎の他にも数人の生徒たちが翼の方へやってきて、話に聞き耳を立てた。
記者は、三十代半ばの男性で、髪が少し薄くなっていた。ベージュのズボンにチェック柄のシャツを着て、申し訳程度のネームプレートを首からぶら下げている。
彼は白い出っ歯をのぞかせながら翼に問う。
「ねっ! 賞、受賞したけど。どう? お気持ちというのは?」
記者はだいぶ馴れ馴れしく聞いてきた。やせ細ったその体は、小刻みに舟をこいでいる。
「うーん。嬉しいですね。それは間違えないっす」
翼はそう答えた。
「うんうん。そうだよね、やっぱり。これからも、絵は続けていくのかな?」
「はい。そのつもりです」
「そう。それは良かった。ところでぇ……今の君にとって絵ってどんなものなのかな」
記者はニヤニヤしながら聞いてくる。記事にしたら面白そうな言葉を翼の口から聞きたいようである。そういう渇望した欲望がまる見えなので、この新聞記者はあまり優秀とはいえないなと、近くで聞いていた史郎は思った。
「そうですね……俺にとって絵は、別の世界の物語なんです」
「物語?」
「俺が絵を描くと、その中で時間が流れ出すんだ。例えば賞を頂いた『不思議な思い出』この作品の中で幼い少年と少女は、生きているんです。ちゃんと意識があって、周りの世界を見る事だってできるんです」
「へえ。面白い事を言うんだね」
「何ていうんでしょうか? そう思って描かないと……稚拙になっちゃうじゃないですか」
「さすがですねぇ。じゃあ、ちゃんと自分の中でテーマとかも決まっているんだ」
「はい」
体育館は、だんだん人の数が減って来た。数人の先生と、もう少し話を聞きたいと思っている生徒がごく少数、そこにいるばかりである。少し静かになったこの広い空間には、ちょっとの物音も反響するようになってきた。だから翼の声が壁や天井に反響する。
「テーマについて聞かれたので、少し語りますね」
翼が言う。
「どうぞどうぞ。語っちゃってください」
「物語の中には、テーマに隠された大テーマが存在するんです。それは俺自身でも気が付けなかった、深い深い深層心理の奥にある、核のようなもので…………つじつまの歯車を狂わせる情熱、のようなものでもあるんです」
「へぇえ。なんかよく分からないけど。すごいね」
「ありがとうございます」
そういう事で、十分くらいの取材は終わった。
本当にこぢんまりとした取材だった。
史郎と翼が教室に戻ると、もう朝学活が始まっていた。先生が大声を張り上げて、生徒が静まるようにと怒っているのだけれど、彼らはずっと騒がしいままだった。聞く耳を持 たないし、怒鳴られてもぜんぜん動じない。
立ち歩いている生徒、スマホゲームをしている生徒、机をくっつけて腕相撲をしている生徒などがいる。その大半は男子生徒で、恐らくこれは、授業中もずっと続くのである。
それに引き換え、女子たちは非常に物静かだった……いや、物静かというよりは、希望や情熱を失ってしまったある種の廃人のように見える。
その姿はまるで、学校という工場で生産され、社会という市場に出荷されるロボットみたいだった。そこに個性や芸術性は必要ない。要求もされない。
こうした悲しい現状に対して、突破口でも見つけ出すかのように、窓ガラスが一枚、すっぽりと割られている。
その割られた窓ガラスは、まだ修繕されていなくて、風よけにと段ボールを切ったものが張り付けてある。でもその段ボールはすぐ……汚い落書きでいっぱいになった。
汚い言葉、汚い絵。
そして汚い風景と……汚い人生たち。
せめて翼が落書きを行ってくれたら、教室も少しはアートチックになるのになあと史郎は思っていた。
けれども、彼は教室に落書きをすることは無かった。
翼いわく、人の手で造形されたものは、外部の者がヘタに手を入れない方が、よほど美しいのだそうだ。
特に絵画の分野では、本来の在り方というのがあるらしい。その本来の在り方から少しでも反れてしまうと、それは「苦しみ」と表現されるのだそうだ。
彼はその「反れ」というのが現代にはびこる限り、決してその「苦しみ」が払拭される事は無いのだという。
「相変わらずこのクラスは低俗だよ」
翼が呟く。その声色に表情はなくて、まるで「天気がいいね」という感じだった。
「そうかな。俺は自由奔放でいいと思うよ」
「史郎……奴らは、今「反れ」に対抗しているんだよ」
「なるほどね」
「あ、そうだ。お前どうしてスマホ壊したんだよ」
翼は、思い出したかの様に史郎に問いかける。
「前々から壊そうと思っていたんだ。突発的にやっちまった訳じゃないんだよ。何て言うかなあ…………説明が難しいんだけど……俺はこの端末を手に入れた時、俺の中の世界はどんどん広がると思っていた。SNSを通して新たな世界が見つかると思っていたんだ」
「でも実際はそうじゃなかった、か」
彼は史郎のことをあざ笑うかのように言った。
「うん。夜中に、あるコメントを見かけたんだ」
「あるコメント。とは?」
「児童虐待についてだった。虐待の件数はこれくらいで、こういう種類があって……とか」
「ふうん。それで」
史郎の言葉を聞いた翼は、急にそっけなくなった。空中のどこか一点を見つめるかのような瞳に変わった。
「それで、コメント欄で論争が起きてた。不毛な議論がずっと続いていた」
「なるほどねぇ。で、どんな論争だったんだ?」
「知らないよぉ。でも、まったく無意味で価値が無くて、そして時間の無駄を奴らは繰り広げていた」
「なるほどねぇ。じゃあ、お前はもっと有意義な議論が行われるべきだと思っていた訳だ。けれども現実はみんな、相手を論破することばかり考えて、本質がまるで分かっていなかった」
「そういうこと」
「ふうん。そういう現状が嫌になったのか。世界には自分より賢い人たち、自分よりも人間的に優れた人間がたくさんいると、そんな事を考えながらSNSを始めたのか」
「最少はそうだったよ。でも現実は違ったんだ」
「だろうな」
翼はそう言って、なにもかも悟っているかの様な、ぼうっとした目つきをした。
一時間目の授業がすでに始まっていたけれど、先生の話を真面目に聞いている生徒はごく少数だった。
社会科の授業を行っている先生は、なんか気弱な女性で、怒っても怖くなく、授業が授業として機能した事は一度も無かった。
「そこ! 自分の席にもどりなさい」
指をさされた。翼は、史郎の席でおしゃべりをしていたので、先生は翼に席に戻るように言ったのだ。
「…………俺は、絵で食っていくから」
翼は先生に口答えをした。
「でも、社会に出てからも教養は必要なのよ!」
「俺にとって必要なのは、教養じゃない。常識を覆すインスピレーションだ。俺は、志賀崎史郎からインスピレーションを受けている……その最中なんだよ」
その言葉を聞いて、クラスのみんなが史郎の方をふり返った。
生徒たちの視線が、史郎の方へと集中する。
「翼ァ。余計なこと言うなよ」
史郎が言う。
翼は学内の中でも、その名を知らないという人はいないくらいの有名人だった。その有名人がインスピレーションを受けている、という人物にもまた興味が向けられるという訳だ。
「悪かった」
そう言ってから翼は、声をひそめた。
「でも史郎くらいだ……まともに反れ、の現状を理解しているのは」
彼は、顔色ひとつ変えずにそんな事を言った。史郎は実はその「反れ」の現状についてあまり深く把握している訳では無かった。
だだ、その理屈は分かった。
本質から反れている……自分自身が、本来の在り方では無い状態である事。加えて、その状態に気が付かないまま、常識という色眼鏡で世界を見る事である。
そして、みんなはその苦しい状態をずうっと楽しんでいる。
集団マゾヒズムとは、まさにこの事だ。