No.0010
《四》
史郎が学校へ着くと、生徒たちは普段以上に賑やかになっていて、騒がしい。新学期からまだそう日が経っていなかったからである。
史郎は大人しい性格だったけれども、生徒たちの雑踏を悪くは思っていなかった。彼にとっては、生徒たちの騒いでいる音も、都会を走る車の音も、公園の猫の鳴き声も、電車の中で意味もなく騒いでいる老人の声でさえ、自然に生きる自然・・・そのもの(・・・・)の(・)音・・だと考えていたからである。
「よう、史郎」
彼はクラスメイトの男子から声を掛けられた。声を掛けてきた男子は、史郎を見下すような雰囲気で、彼の机の上にお尻を乗っけてさらに足を組んだ。
小柄で色白なこの男子は、黒ぶちの眼鏡をクイッと直す。
「翼か。どうしたんだい?」
史郎は聞く。津島つしま翼つばさ、彼は史郎の親友だった。
「こういうソシャゲがあるんだけどさ、どうよ、お前こういうゲーム好きそうだからな」
翼は、相も変わらず頬にうす笑いを浮かべている。そうして制服のポッケからスマホを取り出して画面を見せた。
「人類の覚醒者における宇宙の真理」
とタイトルがある。
「何? 流行っているの?」
史郎は聞いた。
「いいや、昨日俺が見つけた。マイナーなアプリなんだ」
「へえ、面白いの? 俺の頭はつまらないと判断しているみたいだけど」
「残念だけどその判断は間違っている。内容はこうだ。ある一人の高校生が授業中に悟りを開く。いきなり」
「悟りを……授業中に? 中々ぶっ飛んでるじゃないか」
「ああ、そうだよ。主人公は悟りを開いたままの頭で、いろいろ思考するんだ。にんげん(・・・・)の意識について、世界について……そうしてある一つの真理にたどりつく……全人類はゴミクズだ。だから一人残らず殺さなくてはならない……もちろん自分自身も含めてね」
翼はニヤリとうす笑いを浮かべた。それからまた真剣な顔に戻った。
全人類を…………殺さなくてはならない。
翼のその表情を見て、史郎はヒットラーの事を思い出した。
作業的にユダヤ人を殺しまくった彼は、べつに、ユダヤ人が憎くって殺した訳じゃなくて、そうしなくてはならないというある種の義務感を持って撤去をしたのだろうと感じた。
「異常心理か……サイコパスというヤツだ」
「世間ではそう呼ばれているのかもしれない」
「で? それでどうなるんだ」
「主人公が全人類を殺すまでの過程を楽しむゲームだ」
「なるほど」
史郎は素っ気ない返事をする。
「主人公はね、人を殺したいという願望があった訳じゃないんだ。人間という穢れで汚染されてしまったこの星の歴史を、白紙に戻したかっただけなんだ」
「へえ」
「で、お前は興味なさそうだな」
翼が言う。
「興味あるも無いも……俺はこれだから」
そう言って史郎はスマホを取り出した。画面はバキバキに割れていて、細かい破片が散り散りになっていた。それを見た翼は
「えっ、お前、それどうしたんだよ」
と驚く。それでもやはり顔には笑みを浮かべている。
「自分で割った。こういうツールは俺には必要ないものだと思ってね。SNS上の交流も、ゲームも、なんか必要ないんだよ。それは俺自身の問題なんだ。俺は人とは違う。」
と、史郎が言う。
「どうして?」
「俺はたまに、思い悩む事があるんだ。夜中に、とても大きな悲しみがやってくる」
「お前にも、そういう日があるんだ。意外だよ」
と、翼が言った。それから
「じゃあ、覚醒者の真理はできない訳だ」
と茶化してきた。
「無論、進められてもするつもりは無かったけどね。そんな物騒なゲーム」
「でも、また気が変わるかもよ」
「変わらないよ。多分」
史郎は言う。
「しかしまあ、しばらくはお前に連絡はつかない訳だ」
「そういう事になるね」
史郎は他人事のように返事をした。
「じゃあ、LINEの代わりに連絡は手紙を使うよ。住所はこの前の年賀状で調べる」
翼が言った。彼は本当にどんな些細な報告でも手紙を使いそうな気がして、史郎は苦笑いを浮かべた。たとえば「よう! 元気?」という一文でも丁寧にハガキに書いて、上手な挿絵を添えて、郵送してきそうだ。
「いいけどな、それだと切手代が勿体ねぇぞ」
史郎が言う。
「お前が自分の携帯をバッキバキにするからだろ」
と、翼が返事をする。
それから翼はノートを取り出して、とつぜん落書きを始めた。
彼の落書きは、落書きというにはあまりに次元が違った。あまりに上手だったのだ。
「翼、その描写…………相変わらずの画力だな」
「……ドヤッ! 史郎、お前も相変わらずの誉め上手だな」
翼が笑う。
津島翼の趣味は絵を描く事だった。
授業は、ほとんど聞かない代わりに、ノートにはレベルの高い落書きがぎっしりと詰め込まれている。リンゴの絵、オバケの絵、少女の絵、子供の絵、そしてピカソのような抽象画をこれでもかという程、上手に描くのである。
翼は、彼の所属する美術部でも、もちろん異才を放っていた。
彼は、中学の入学初日に美術部にやってきた。最初は気さくに三年の先輩とお話をするだけだった。三年の先輩は始め、入学したばかりの翼を快く出迎えて、そして沢山おしゃべりをした。絵を描き始めたのはいつ頃か、どういうジャンルの絵が好きか、好きな画家は誰か、そういう当たり障りのない会話を楽しんだ。
もちろん絵を描き始めたばかりの素人として……あるいは初心者だと思って彼と接していた。けれども、ひとたび翼の描いた絵を見ると、先輩たちは仰天した。あっけに取られて、中には笑いだす先輩もいた。それ程まで、彼の描く絵はすごかった。
その評判は瞬く間に学校中に広まった。
それまで周りから上手いと言われていた美術部の女子たちが、こぞって翼の所にやって来て、絵を教えてくれと頼んでくる。他クラスや他学年からも女子たちが来てキャーキャー言う。翼は、まんざらでもない様子だった。
そんな翼の華やかな姿を見て、もちろん他の男子は彼を白い目で見た。男子たちからは激しい嫉妬を受けて、ノートに画びょうを入れられたり机を彫刻刀で傷つけられたり、体操服が盗まれる事もあった。他にも多大な嫌がらせを受けたのである。
けれども翼は動じなかった。もともとイジメを受ける器では無かったのだ。
ある日、数名の先輩から呼び出されて金銭をせびられた事があった。彼は悩んだ。悩んだ挙句に
「二週間だけ時間をください」
とお願いをし、先輩たちはその条件を飲んだ。
二週間後、彼が先輩たちの元に届けたのは金銭ではなく漫画だった。二十ページほどの作品で、漫画専用の原稿用紙に、タチキリ線までいっぱいに描かれた躍動感ある絵は凄まじく完成度が高かった。躍動感がありながら、無駄なコマを一切入れず、細々した背景とかは最小限に控えたシンプルなデザインだった。
おそらく、どの新人賞に出しても申し分ない出来栄えで、あわよくば受賞も夢ではない作品だった。
でもそんな事よりも、もっと凄かったのはその内容である。
彼は、金銭を要求してきた先輩の事を主人公にしていた。先輩を漫画の主人公にして大活躍をさせる事により、少しでも気分の良い思いをさせてやろうと考えていたのだ。
先輩の名前はサトルと言う。
漫画のあらすじはこうだ。
サトルは、関東一の暴走族を束ねる長であった。左派系暴力組織「喪失するロゴス」の団長で、敵対していた暴走族との全面抗争がさし迫っていた。
抗争の引き金となったのはサトルの部下であるマモルが原因だった。彼は、ある失態を犯してしまったのだ。
マモルは、他校の女子学生といい感じの雰囲気となって、強い欲情に駆られて、そして満月の夜……マリファナを吸引しながら、彼女と性行為を交わしたのである。
その性描写はリアルを追求したあまりに過激なもので、中学三年の先輩を夢中にさせるのには十分すぎる程だった。なにせ翼の絵は上手いのだ。性描写のクオリティはそこらのエロ漫画の比ではなかった。
その結果、女子生徒は妊娠する。彼女はまだ十五歳。
そしてあろう事か……彼女は右派系暴力組織「発現するパトス」の傘下で秘書を務める魔性の女であった。
この非常な事態を受けて立ち上がったのがサトルである。
そう、ここから三年の先輩の活躍が始まるのである。
「発現するパトス」の輩からは
「指を詰めるか、巨額の賠償金を用意するか」
の二択が要求されていた。マモルの指を詰める訳にはいかないと感じたサトルは、マモルに自分の指を詰めるように言う。「先輩にそんな事はできねぇ」激しく拒否するマモルの目の前で、サトルは自分の指を落として見せる。左手の小指の第二関節から先をバッサリと切り落としてしまったのだ。吹き出す血液……その男気あふれる行為が見せ場だ。
だが、翼の描く漫画の変わっている所と言えば、流血シーンを単なる流血シーンとして描かない事にあった。サトルの指からシャワーのように吹き出す血液には色が無く、その代わりに小さくてカラフルな淡い光が、プリズムのように反射しているのである。透明だったはずの血液の飛沫に淡い色が反射する……この前衛的なシーンはイラストというよりは、むしろ現代アートだった。
それからサトルの指は封筒に入れられて「発現するパトス」の事務所へと届けられた。
……宣戦布告の挑戦状と共に。
こうして数日後、抗争は勃発した。だが勝敗はあっけなく決定する。
ずば抜けた身体能力と凄まじく回転する頭脳によって、サトルは敵から恐れられ、戦乱の最中に、頂点に立つのだ。
「発現するパトス」は「喪失するロゴス」の中に合併され、より巨大な勢力となったサトルの組は、日本じゅうの暴走族たちを震撼させるのである。
めでたしめでたし。
これが翼の描いた漫画であった。
この漫画を読んだ三年の先輩たちの顔は真っ青になった。翼の描写力といったら伝説である。プロが書いている既存の作品にも引けを取らない本当の名作だ。
特にエロシーンは筆舌に尽くしがたいものがあった。
興奮するというよりは、むしろ勉強になる程リアルな性的描写は、先輩たちの頭の中に張り付いて取れなかった。もっと見たい! もっと興奮したい! そういう気持ちでいっぱいにさせたのだ。
「俺に対するイジメをやめてくれたら、もっとエッチなシーンをいっぱい描きますよ。知っていると思いますが、俺に寄ってくる女の子は沢山います。彼女たちの手も借りる事だって難しくありません。もちろん、先輩方が俺の用心棒をして、イジメが無くなれば……の話ですが」
この駆け引きは上等だった。
翼にとっては、自分に対するイジメが無くなってくれるし、先輩たちにとっては、十八歳になるまで拝見する事ができ無いであろう過激なエロティシズムを、心行くまで堪能できるのだ。
一時期、PTAでも話題に上がったほどである。
「彼はすごい実力の持ち主だね」と。
そうして中学二年に上がった現在も、その才能は健在だ。新しく入ってきた一年生が、津島翼の名を訪れに教室に来るくらいだった。
《五》
「翼、展覧会の件なんだけど」
史郎が聞く。
「ああ。そうだね。この後だ……朝礼でたぶん俺、表彰される。ちょっと緊張だよ」
「マジで? じゃあ、例のあの絵は」
「ぶっちぎりの傑作だ。全国から集まった応募作の中で、俺がトップだという証明だ」
「お前、どこまで上り詰める気でいるんだよ」
史郎は感心する。
「ははは。どこまでだろう。恐らく死ぬまでだ」
「強ぉ」
翼が展覧会へ応募した絵画は、当然のように受賞に躍り出た。
全国から数百、数千と集まる作品の中での最高峰を獲得したのだ。
絵画のタイトルは『不思議な思い出』
幼い少年が、少女と一緒に絵を描いている幻想的な絵だった。二点透視図法が使われていて、家の中の様子が詳しく描かれている。砂刷りの壁に、銀色のワイヤーで吊るされた絵がある。窓の外には紺碧の空に浮かんでいる天の川が見える。そういう細かいところまで繊細に描写された翼の作品は、新しく、そして衝撃的だった。
「俺の作品が認められて、嬉しいよ」
「俺も、親友の作品が認められて、自分の事のように感慨深いね」
「言うじゃん」
「おう」
二人は拳を重ねた。