No.0009
《二》
アア君ハ、命ヲ僕ニ
タクスノダネ
彼女ヲ思イ出シタ時ハ
僕ハ、少ナカラズ
ゾット、身ノ毛ガヨダツ
思イヲシタヨ
スゴク小サクテ
可愛ラシイ
幼クテ、ケナゲデ
ソンナ彼女ハ
今マデ、ドンナ苦シミヲ
受ケテキタノダロウカ
《三》
志賀崎しがざき史郎しろうは窓の外を眺めていた。
長い夜が終わりを迎えようと、空が水色に変わって行く。涼しい明け方だった。
彼は机の上のデジタル時計に目を向けた。
緑色に光るその数字は『4:44』を記録している。
その時間を目にした史郎は「…………早く起きちゃったな」
と独り言をつぶやいていた。彼は制服のズボンに着替えて、財布をポッケにしまって、部屋のドアを開けから台所の方へと向かった。炊飯器がブクブクと音を鳴らし水蒸気を噴き上げている事を発見した。まだ台所はうす暗い。
もうすぐ母親が起きる。そうしたら母親は先ずトイレに向かって、手を洗って、歯を磨き、化粧をする前に台所に立って朝ごはんを作るのだ。その光景を史郎は何度も見ている。
けれども今日は、母親が起きる前に一つだけやっておきたいことがあった。だから両親がまだ布団から起き上がらないうちに、史郎は忍び足で玄関に向かうのだ。そうしてサンダルを足に引っかけると、音を立てないように扉を開けた。ゆっくりと。
扉を開けてすぐに感じたのは、日の光ではなくて、匂いだった。
風の匂い。空気の匂い。でもそれは少しうす汚れていて、鼻をかすめる時どうしてか悲しいため息が出るのである。
「……はぁ」
エレベーターの前に立って、「→」のボタンを押すと、すぐに稼働音が鳴り響いて史郎の元へとやって来てくれた。彼はマンションの9階に住んでいる。
都心から少しだけ離れたひっそりとした住宅街の一角である。その摩天楼の景色を彼は毎日見る事ができるのだ。特に、下の自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、町を見下すのは、彼のお気に入りの日課だった。
史郎が缶コーヒーを買って九階に戻り、しばらく風の匂いや空の色を感じていると、ふと自分が今やるべき事に気が付いてハッとした。
「そうだ」
史郎はポケットの中にあったスマートフォンを取り出して、メッセージが届いていないか確認した。その結果、一件の通知も確認できなかった。彼はそれを見て少し安心する。
「よかった。さて」
そう言うと、彼はスマホを思い切り地面へと投げつけた。バシャリと画面が割れる音が響いて、それきりだった。彼は躊躇なくそれを踏みつけた。何度も、何度も。スマホが可哀そうに思えるくらいに無慈悲な様子で破壊の行為を繰り返す。そこに怒りの感情は全くなく、ただ面白そうに繰り返す。
しばらくすると彼は、スマホを拾い上げて電源が入らない事を確認すると、安心した表情になってこう言った。
「これはもう二度と直らない。でも、エントロピーは君を見逃さない」
彼は深呼吸をした。そしてまた地面へとスマホを落とした。
朝日が完全には昇っていない幼い空は、まだ濃い水色に覆われていてる。低い位置に月が見えた。夜中の輝きをまだ残している月は黄色く鮮やかに。
「…………この景色に乾杯」
彼は静かに缶コーヒーのプルタブを起こした。ぷしゅり。
窒素が含まれていたのであろうか、コーヒーの小さな飛沫たちが飛び散って、史郎の親指の先にひっついた。彼はそれを舐める。そうしてズボンで親指を拭う。
「しくじった」
そうして彼は、缶コーヒーを味わう。
「美味い」
それから彼は、また大きなため息をついた。別に嫌な事があった訳ではない。ため息は史郎にとって癖のようなものなのだ。あるいは、都会の汚れた空気を吐き出すための儀式的な行為だったのかもしれない。
外の景色をただボケっと眺めていた。しばらくの間、彼は動かなかった。
史郎は、この場所で景色を眺める時にはいつも、自分の過去の経験について振り返るのだ。自身が今まで何をしてきたのか、何を考えて、何を感じて来たのか。
思い起こせば七年前にふと記憶が消えている箇所はあるけれど、それを除けば自分は比較的、真っ当に生きて来たなあと彼は思った。十四年。史郎の人生は十四年と数ヶ月を生きて、これまで一度も犯罪に手を染めた事が無かった。当然と言えば当然かもしれないけれど、彼にとっては不思議な事である。
例えば六法全書を片手に、史郎が過ごした一日一日を照らし合わせて、軽犯罪に触れている行為を一瞬でもした事が無いのかと問われれば自信が無くなるかもしれない、という程度だ。それなのに、彼はその事を気にかけて必要の無い罪悪感に襲われ、そして法律を心底恨んだ。
(どうして自分はこんなに法律に縛られて、苦しまなければならないのか)と。
そうしてまた思考する。
(もちろんそれは法律に対する逆恨みというヤツだ。事実上、僕は法律そのものから実害を受けたりなんてしていない。その根拠に、僕はまだ犯罪に手を染めていない)と。
そういう考えが頭の中に浮かぶたびに、史郎は人生について思考する。
考えて、考えて、そうした挙句にふと、自分という存在が二人いる事に気が付くのである。
『無意味な考え方をしている自分と、それを客観的に見つめている自分』
この二人がいて、そして大概……後者がほんとう(・・・・)の(・)自分・・である。
認知している自分と、メタ認知。
彼はこういう思想を、だいたい小学校の高学年くらいの頃から抱いており、それを自分だけがたどり着いた境地……他の誰かには理解されない孤高の思考だと感じていた。
でもそれは違った。
1960年代初頭から現在に至るまで、スピリチュアリズム業界で爆発的な流行を続けている『ニューエイジ・ムーブメント』
ニューエイジの思想は、史郎の脳内に漠然と存在するモヤモヤを、まるで鍵と鍵穴のように埋め合わせてくれるのだ。
しかしその事実を、史郎自身は良く思っていなかった。
なぜなら彼がたどり着いた境地は他の誰からも干渉される事は無く、何者であっても足を踏み入れる事のできない孤高な考え方だと思っていたからである。
中学一年生の夏休みに、彼は連日のように図書館に行ってニューエイジに関する資料を読んだ。その度に彼は違和感をおぼえた。険悪感ではない。その思想に対して、漠然と「何かが違う」と感じていたのだ。いったい何が違っていたのだろう。史郎の考えている哲学とニューエイジとの間は、立っている土俵も違うし、本質も根源も何もかも違っていたのだろう。
一例を挙げよう。
例えばニューエイジの思想では、人は霊界に意識のチャンネルを合わせる時に、目の上らへんに銀色・・の(・)グニャグニャ(・・・・・・)が見えるらしい。
でも彼が見たものはそんな銀色のグニャグニャなんかではなく、赤・と(・)か(・)青・と(・)か(・)の(・)無・数・の(・)小・さ(・)な(・)点・々(・)た(・)ち(・)だった。
「今も見えているんだよな」
彼はそう呟いた。
外の景色がだんだんと鮮やかになっていく。月が白くなっていく。手すりの下を見おろすと、車が道路を走っているのが確認できる。散歩している人が小さく見えて、少し足がすくんだ。
そうしている間じゅうも、彼は色の着いた無数の小さな粒々たちを見続けていた。
気にならないというだけで、これが消えるという事は無かった。それは恐らく、生まれた時から今に至るまで休むことなく見え続けているノイズのようなものなので、史郎に取っては、とりわけ気になるという程ではなかった。
だから彼はしばらくの間、空気の香り、コーヒーの香り、風の音、車の音、赤とか青とか無数の点々たち等を感じ続けていた。
それから粉々に割れた自分のスマホを拾い上げると、無造作にズボンのポケットへと閉まった。
彼はこうして部屋の中に戻る。
玄関を出た時と同じように、できるだけ音を立てないように扉を開いた。それでもわずかに軋む音が聞こえてしまう。キィキーと。
部屋に戻って彼は自分の勉強机へ、空になった缶コーヒーをぽとりと置いた。
「はぁー」
彼は再び溜息をつく。
キッチンの方で、ご飯が炊けた事を知らせる炊飯器のメロディーが鳴り響いた。それでも母親はまだ起きなかったので、史郎は布団の中に入ってもう一度目を閉じた。
布団の匂いは、史郎に懐かしさを感じさせた。その懐かしいという感情は尋常なものではなくて、何故かいつもふと悲しい気持ちになるのである。彼にとって布団の匂いはあまりにも懐かしすぎた。
史郎の心の内に、ハッキリと形を残している『幼い心』と『純粋な心』が呼び覚まされていくような気がして、それが溜まらなく泣きそうな気分になった。
「たまぁに……こういう気分になるんだよなぁ」
枕に顔をうずめながら、彼は大きな独り言を呟いた。その独り言は枕に吸収されて、部屋に反響するなんて事は無かった。史郎はたまに、こういう気分になるのだ。
そんな哀愁の漂う懐かしい気分のままでいると、母親が扉をノックしてきた。
「ご飯できたよ」
「はーい」
彼は扉を開いた。
こうして彼は、朝ごはんをしっかりと食べるのである。
炊き立てのご飯と、作りたての味噌汁を口の中に流し入れるのだ。しっかり咀嚼し、ちゃんと味わいながら……でもできるだけ素早く食事を済ませる。
米粒ひとつ残っていない茶碗を、史郎は流しへ持っていく。
「ごちそうさま」
「そんなに急いで食べるのは体にあまり良く無いよ」
母親が言う。
「うん。大丈夫、ちゃんと味わっているから」
史郎が言う。言ってから、部屋に戻る。
彼はスクールバッグを持って、学校へと向かった。
彼の見ている景色が、家の中から、外の景色へと変わる。