二次元幽霊
新里新太郎は若手のテレビアナウンサーである。バラエティ放送時にリスナーから「シンシン」というネックネームが付けられた。時折報道を担当する。
「声が良すぎてニュースの中身が頭に入らない。」という苦情とも称賛ともつかぬ声が寄せられるぐらい人気を博している。
ある日、新太郎は朝のニュースを担当するために早朝から放送局に詰めていた。
「新里君、お疲れ。」
山田ディレクターが新太郎に声をかけた。
「山田さんお早うございます。」
「お早うございます。」
新太郎と同期の小川春乃アナウンサーがアナウンサー室に入ってきた。沈着冷静、淡々とした仕事ぶりが高い評価を受けている。
新太郎は朝のニュースに読む記事を選んでいた。外国のニュース、日本のニュースと仕訳をしている。記事の優先順位を考えながら原稿を並べ直しているうちに、新太郎は手を止めた。
「新里君、どうした?」
山田ディレクターは記事を手にしたまま固まっている新太郎に近寄った。新太郎が手にした記事を目にした記事を見て、眉をひそめた。
「新里君、その記事を読むのはつらいだろう。今日は他の人に読んでもらおう。」
「いいえ、大丈夫です。もうすぐ朝のニュースが始まります。自分の仕事ですから。」
山田ディレクターはもう一度引き止めたが、新太郎は聞かなかった。
「それなら親父さんの記事は最後に読むのがいいと思うよ。」
「はい」
新太郎はニュース原稿の束をまとめると、放送室に向かった。
「お早うございます。朝のニュースをお届け・ます。初めに、台風情報からです。…」
「新里君、どうした!」
新太郎は、原稿を手にしたまま、身じろぎもせず座っていた。首筋に汗をかいている。
「新里君の様子がおかしい。小川ちゃん、代わりに読んで。新里君、小川ちゃんにカメラを切り替えるから、戻ってくるんだ。」
小川アナが放送室に入り、新太郎から原稿を受け取った。モニタで自分にカメラが切り替わったのを確認してから、ニュースを読み始めた。
新太郎は控え室に入ってきた。
「何故だか、原稿を見たら胸が圧迫される様で、声が出なくなったんです。」
「ここでもそうなるのか?」
山田ディレクターは先日のニュース原稿を新太郎に渡した。新太郎は記事を読み上げようとしたが声にならず、息が漏れるばかりだった。
「それでは、記事を読まなくていいから、原稿を見ながら声が出るか確認しよう。まずはア行から。」
「アー、エー、イー、オー、ウー。」
かすれ声で、声量も普段の半分くらいであるが、どうやら発声できた。
「次はカ行。」
「カー、ケー、キー、コー、クー。」
「よし、次はサ行だ。」
「サー、セー、●●、ソー、スー。」
シの声を出そうとした途端、喉がギュッと締まって、息を吐き出す事もできなかった。新太郎自身が驚いた。
「●が出ない!●の音が出ない!」
「山田さん、終わりました。」
小川アナがニュースを読み終えてアナウンサー室に入ってきた。
「●が出ない!●の音が出ない!」
頭の中がシの音で一杯になって、新太郎は目を覚ました。寝汗をグッショリかいている。
「またこの夢か…」
一月に一回はこの夢を見る。今日は寝違えも起こしたようだ。
顔を洗った後、鏡を見ながら掛け算九九の2の段を唱えた。
「ニイチガニ、ニニンガ●、ニサンガロク、ニ●ガハチ、…、」
今日も言えない。
新太郎は身支度を終えて家を出た。
「山田さん、お早うございます。」
「お早う。今日は午前中は『沖縄ナウ』を収録して、2時から第一スタジオで新番組の打ち合わせをするから忘れないでくれ。」
新太郎は腰に下げていたメッセージボードにスケジュールを記録した。ボタンを押してメモリーに保存した。
午前中の番組は特にアクシデントもなく収録ができた。昼食を取って、2時に第一スタジオに向かった。小川アナが先に来ていた。
「新太郎君、遅いよ。ADなら5分前には来ないと。」
「ごめんよ。」
山田ディレクターから新太郎に連絡が入った。
「申し訳ないが、1階駐車場に来てくれ。」
「春乃ちゃん、1階駐車場だって。」
「何かしら。」
駐車場に山田ディレクターが待っていた。
「新番組の名前を決定した。『コロコロレポート』にする。」
「コロコロ?」
「サイコロを振って、出た目の地域のレポートをするという番組だ。」
「なるほど。」
「小川ちゃんに、レポーターをやってもらう。」
「分かりました。カメラマンはどなたですか。」
「ああ、もうすぐ来るよ。実は、この番組ではウチの局で初めて、ビデオロイドを使うことになった。」
「ビデオロイドって?」
「ビデオカメラの機能を持ったアンドロイドだ。報道班との間で取り合いになったが、こちらが使えるようになった。…あのプロペラ。」
山田ディレクターが顔を向けた先から、ドローンにつかまってアンドロイドが飛んできた。やがて一同の上空に来ると、ドローンのプロペラの速度をゆるめてゆっくりと降りてきた。アンドロイドはふわりと着地した後、ドローンに付いていた脚を広げて、地面に立てた。
「遅れてすまぬ。玉城のもとより参つたチチチュラぢや。前の仕事が押したので、『ジンジン』で飛んで参つた。」
「チチチュラさん?」
「そちらも紹介してくれぬか。」
「自分が代表して紹介しよう。ディレクターの山田です。レポーターの小川ちゃんです。それからADの新里君。皆からシンシンと呼ばれているから、チチチュラさんもシンシンと呼んでくれ。」
新太郎はメッセージボードに
「シンシンです」
と書いた。
「入社時はアナウンサーとして入つて、リスナーから『シンシン』と言ふ名前をもらつたとデータにはある。何故ADをして居るのか。」
「ちょっと体調不良になってね。アナウンサーを辞めるというのを引き留めて、ADとして働いてもらうことにしたんだ。」
山田ディレクターが説明した。
「チチチュラって、どこの国の名前ですか?」
小川アナが好奇心を抑えきれずに聞いた。學學
「琉球王國ぢや。月に清らと書いてチチチュラと讀む。沖縄を撮るために付けられた名前ぢや。一つ質問させていただきたい。ウチナーンチユとはどういふ存在か?どう思はれるかな?」
「沖縄に、住んでる人です。」
小川アナが答えた。
「沖縄に住んで居るのがウチナーンチユか。それでは沖縄以外の土地で生まれて、沖縄に移り住んで來た者はどうなる。何年経てばウチナーンチユになるのか。沖縄から海外に出て行つた者はどうぢや。ハワイや南米で一世ばかりでなく、二世三世に至るまで、『自分はウチナーンチユだ』と宣言する、その根拠は何ぢや。」
「分かりません。」
「ウチナーンチユとは、沖縄の文化を愛する者の事ぢや。文化とは何か。文化とは、『生活の仕方』である。ウチナーンチユが文化をどの様にして受け継いで來たか。『歌と踊り』によつてである。」
チチチュラは両手を下から上に差し上げて、こねり手を返した。
「歌と踊りを通して、ウチナーンチユは理想の生き方といふ物を學んで來たのぢや。沖縄の文化を記録し、保存し、伝達する。それがこのチチチュラの使命である。伊達に王國の姫君の名前をいただいては居らぬ。」
「沖縄の色々な土地のレポートを撮るとき、チチチュラさんの知識は役に立つと思うよ。」
「山田殿、一回目のロケ地の候補は用意されて居るのですか。」
「自分の方で六箇所選んでみたよ。」
山田ディレクターはチチチュラにリストを見せた。
「ふむふむ、この中では六番目の『アニメの幽霊が出るスポツト』と言ふのが最もニユースバリユーが高さうぢや。これが良からう。」
「幽霊ですか!」
新太郎は叫んだ。
「人間は通常、人間の幽霊しか見ない者ぢや。ここに書かれた噂によると、近頃返還された基地跡の住宅地に、アニメキャラが踊つて居るのが見える家があると言ふ。映像に納めることができれば、『世界初』であらう。行くべし。」
「六の目が出るまでサイコロを振り続けるんですか。」
「六の目が出るサイコロを使へば良いではないか。良いではないか。」
「幽霊のレポートとなると、深夜の仕事になるかも知れないけど、小川ちゃん大丈夫?」
山田ディレクターは小川アナに尋ねた。
「やります。プロですから。」
その家は、区画整理された住宅地の中に、一軒だけ建っていた。夜の八時を過ぎて、周囲は暗くなっているが、昼の暑さはまだ残っている。
「本当に幽霊って出ますかね?」
新太郎はつぶやいた。
「出ないと番組になるまい。」
チチチュラが答えた。
「念のため塩を持ってきました。」
小川アナがポシェットから折畳まれた紙包みを取り出した。
「良い心配りぢや。」
「チチチュラさんは、幽霊は本当に出ると思いますか。」
新太郎は今度ははっきりと聞いた。
「何事につけ思ひ込みで行動するのは良くないぞ。」
「男の僕でも幽霊に会いたくないですよ。チチチュラさんは幽霊を見たことあるんですか。」
「良くある。」
「「えっ」」
さすがの小川アナも驚いたようである。
「ロボツト同士が、互ひの位置情報を遣り取りする為に、電波で通信する事がある。建物の壁で電波が回り込むと、データを二重に受け取つて、余分な影が見えたりもする。これをゴーストと言ふ。人間は人間の幽霊を見るが、ロボツトはロボツトの幽霊を見るのぢや。」
取材班は家の裏手に回り込んだ。周囲には未だ家が建てられていない。ぬるい風が弱弱しく吹き、人の吐息の様だった。
「あの家は住人が居る様ぢや。幽霊が出るのは住人が居る時か居ない時か。」
「明かりが点いてます。」
小川アナが気づいた。
「新太郎君、ADなら先に偵察ぐらいしてよ。」
「うう、ごめん。」
二階建ての一階だけ明かりが点いて、二階は真っ暗である。
「噂では、この時間帯に目撃されて居る。」
チチチュラが言い終わるとほぼ同時に、二階の窓にぼんやりとした影が浮かび上がった。やげてアニメの少女キャラが走っている動きになった。
「出た-。」
「皆、お、落ち着いてください。」
「シンシン、お主が一番落ち着け。誰か鏡を持つて居らぬか。」
「これで良いでしょうか。」
小川アナはポシェットからコンパクトを取り出した。
「鏡にあの少女は寫るか。」
「はい。」
「鏡に寫ると言ふ事は、あれは幻覺ではなく物理的な映像なのぢや。正體をはつきりさせる為に、ジンジンを飛ばさう。」
チチチュラは新太郎に運ばせたカバンから、『ジンジン』と名付けられた照明用ドローンを取り出した。
「すーり。」
チチチュラの手を離れたジンジンはふわりと空に舞い上がり、二階へ近づいてアニメキャラに照明を当てた。アニメキャラは強い光に当たって姿を消し、窓の内側にあるロールスクリーンだけになった。窓が開けられ、中から女の人が顔を出した。
「ちょっと、何するんですか。止めて下さい!」
「わあ、人が居た。」
新太郎は一歩後ろに下がった。
「思つた通り、中に人が居たな。このまま取材交渉をしよう。」
チチチュラはジンジンを通して女の人に話しかけた。
「すみません。『コロコロレポート』と言ふ番組を作つて居る者ですが、貴女の上映して居るアニメについて取材させていただけますか。」
「どうしてですか。
「この附近で、アニメキャラの幽霊が出ると言ふ噂が立つて居ますが、さうでは無い事を説明していただいた方が、ここの治安が良くなりますので。」
「外から見えてたんですね。分かりました。表にお回りください。」
しばらくして、女の人が玄関のドアを開けた。
「どうぞ。散らかっててごめんなさい。」
取材班は家の中に入った。
「紅茶でいいですか。」
「お構いなく。それより、二階で上映されている物についてお聞きしたいのですが。」
小川アナが尋ねた。
「あの絵、見覚えありません?」
女の人が逆に聞いてきた。
新太郎は思い出した。
「分かった!あれは、『レディ・』」
メッセージボードに「シーサー」と書いた。
「僕らの入社と同じ時期のアニメだ。」
「最終回どんなだったかな。新太郎君、知ってる?」
「最終回は放送されていません。スポンサーが撤退して途中で打ち切りになりました。」
女の人が答えた。
「お名前を教へていただけますか。」
チチチュラが女の人に尋ねた。
「上地日出美と申します。」
「お仕事は何を。」
「漫画家です。」
「小川殿、質問を続けて。」
「何故二階でアニメを、真っ暗な中で映していたんですか。」
「あれは、兄の発明品です。」
日出美は、二階へ一同を案内した。窓に掛かっているロールスクリーンに、アニメキャラが歩いたり、走ったりする様子が映っていた。部屋の明かりを点けると、ロールスクリーンに小さなビデオ再生装置が取り付けられていた。
「兄は本土の家電メーカーに勤めていて、ディスプレイモニターの開発に携わっています。新しいスクリーンの技術を思いついて提案したけれど却下されました。自分で密かに作成したロールスクリーンを私の所に送って来て、使ってみてくれと言われました。先月は点いたり点かなかったりでしたが、今月送られてきたのは一晩中点くようになりました。でもまだ出力が弱くて、回りを真っ暗にしないと見えないんですよ。」
「外から見えないようにした方が良いでせうな。」
「『レディ・シーサー』を上映しているのは何故ですか。」
「それは、原作者ですから。」
「ああ、『レディ・シーサー』の原作のHIDEMIさんって、貴女ですか。」
「そうです。」
「放映中になって、残念ですね。」
「アニメの作成は全十三話分終わっていると聞きました。新しいスポンサーを付けて、再放映できないものでしょうか。」
「局に戻つたら、検討してみます。山田殿が担当して居たから、詳しい話が聞けませう。」
「チチチュラさん、良くそんなことご存知ですね。」
「サーバーに、50年間の番組表が入つて居る。それを讀んだだけぢや。」
チチチュラは日出美に質問した。
「お兄様の發明品は、特許は取得されて居ますか。」
「未完成だから、取ってないと思います。」
「幽霊商品に映して居ると言ふ譯ぢや。」
「チチチュラさん、この話放送しますか?」
小川アナが聞いた。
「幽霊の話だけでは弱いから、漫画家と言ふ仕事の話を聞く放送にしよう。仕事場を取材させてもらつてもよろしいか。」
「はい。」
「いいんですか。」
「こちらもね、最新のテクノロジーの話などを取材したいという魂胆があるんですよ。」
「なるほど。」
仕事場に案内された。壁一面が本棚になっている。壁の反対側にはボードが貼ってあって、様々なメモが磁石で留められていた。
「小川殿、質問開始ぢや。」
「今は何を描いていらっしゃいますか?」
「携帯電話が人格を持ってしまって、色々なトラブルが起こるという話を思いついたんですけど、SFにするかファンタジーにするか…」
「SFとファンタジーはどう違うんですか。」
「ええと、ええと、何でしょう。」
「幽霊を使つて説明すると、幽霊が出てきて逃げ回るのがホラー、幽霊と話をして仲良くなるのがフアンタジー、幽霊を捕まへて身體測定をするのがSFでございます。」
「そういう基準でしたら、描きたいのはファンタジーですね。何故人格を持つようになったかという理由を考えたりするのは好きでないから。」
取材はその後1時間程続いた。
翌日、放送局は騒然となった。高い人気を誇っていた女性タレントのシンディーさんの不倫スキャンダルが報道され、シンディーさんはこれまで出演していた番組を全て降板した。また次の番組改変期以降に予定されていた番組の出演予定も白紙になった。このままでは番組表に穴が開いてしまうと騒いでいるのだ。
山田ディレクターも机の前で考え込んでいた。チチチュラと新太郎はディレクターのそばに立った。
「山田殿、昨日の取材結果を報告したいのぢやが、よろしいか。」
「ああ、いいよ。」
チチチュラは山田ディレクターの机の上に昨日撮った映像を映した。
「アニメの幽霊が出ると言ふ場所に出かけました。漫画家のHIDEMI先生の御自宅でした。窓に自分が原作のアニメを上映して居ました。山田殿もご存知の『レディ・シーサー』です。」
「ああ、そうか。」
「山田殿、心ここにあらずですな。」
山田ディレクターはチチチュラの顔を見た。
「ごめん。」
「番組の穴が埋まらないのですか。」
新太郎は机の端に寄せられている書類の山を見た。
「もうちょっとだけどね。…急だったよな。好きなタレントだったけどな。シンディーさんの抜けた穴は大きいなあ。」
「心に穴が開いたと言ふ譯ですな。失禮します。」
チチチュラは机の上の番組表を取り上げた。
「我々の番組の時間変更はございますか。」
「いや、それは考えてないよ。とりあえず、来週の『コロコロレポート』の準備をしてくれ。」
「『巨大ハンバーガーの店』、『巨大カキ氷の店』、『巨大タコライスの店』特に代り映えせんな。シンシン、出目の偏らないサイコロを用意するのぢや。」
「普通のサイコロですね。春乃ちゃん、大食い大丈夫なのかな。」
「友人を連れてきてもらうか、後でスタツフが美味しくいただくのぢや。ビデオロイドは人間と同じ食事はできぬ。胃袋担当はお主ちや。」
「死んじゃう」と新太郎はメッセージボードに書いた。
「山田殿、以前『レディ・シーサー』を担当して居たさうですね。」
「ああ、そうだよ。」
「番組の抜けた穴を、『レディ・シーサー』で埋められては如何ですか。新しくスポンサーを付けて。」
「え…『レディ・シーサー』?」
「アニメ自体は作成済濟みでせう?」
「いや、駄目だ。あのアニメにスポンサーは付かないし、スポンサーを付けても放送できないよ。」
山田ディレクターはかぶりを振った。
「あのアニメは、実際の風景を撮影して、背景として使うという事をしていた。第七話から話の都合で、ビルの工事現場を背景に使うことになった。スポンサーが丁度その頃、新社屋の建設中だったので、背景として使わせてもらうことにした。ところが背景を撮影しに行く前の日に、工事現場に潜り込んで自殺した人がいたんだ。撮影隊は夜明け前に現場に行き、太陽が昇ったら撮影をして、工事の人が来る前に引き上げた。そのまま画像処理して背景に使ったんだ。迂闊にも、スポンサーが見るまで誰も気付かなかった。二階の左端に、ぶら下がっているのが見つかった。つまりあのアニメは、本当の死体が映っているアニメになったんだ。」
「二次元の幽霊の完成ぢやな。」
山田ディレクターは顔をしかめた。
「縁起悪いから、スポンサーが下りたんだ。そうして放映中止になったよ。」
「だから、あたら…別のスポンサーも付かないという訳ですね。」
「そうだ。」
「しばしお待ちを。」
チチチュラが片手を挙げて、掌を前面に向けた。額の赤いランプが点滅した。
「倉庫係のロボツトに聞いてみた所、完成品だけでなく、製作データも同時に納品されて居ます。背景データのみ差替えすることが可能です。」
「ビルの工事現場なんてそうそう無いよ。」
「市内に八箇所ございます。最近は警備ロボツトが巡回するのが一般的ですから、邪魔されることも無いでせう。」
「分かった。スポンサーを探してみるよ。見つかったら、HIDEMI先生の所に報告に行く。」
一週間後、山田ディレクターはHIDEMIの自宅を訪問した。しばらくして辞去する時、顔に大汗をかいていた。
放送局に戻って、チチチュラと新太郎を呼び出した。
「アニメの再開は喜んでもらえたけど、一つ問題が起きた。」
山田ディレクターは『レディ・シーサー』の出演リストを机の上に置いた。
「このアニメのナレーションを担当していたのが、シンディーさんの不倫相手なんだよ。」
「そんなことが。」
「この仕事の時は芸名を使っていたんだが、それから声優を辞めて、音楽事務所に勤めたんだ。シンディーさんの抜けた穴を埋めるのに、不倫相手の仕事を持ってくるのは具合悪いよ。」
「ナレーターを替えないといけないですね。」
「HIDEMI先生は、新里君を指名したよ。」
「以前君達が取材に行った時、新里君がADをやってるのをご覧になった。『シンシンさんの声が好きだからナレーターをしてください』とおっしゃったよ。」
「受けたんですか。」
「体調不良でアナウンサーを辞めたって言ったんだが、ADやってるなら体調回復してるでしょうと言われた。仕舞いには『シンシンさん以外なら再開しなくていいです』とまでおっしゃられた。過激だね。」
「呑気な事言わないで下さいよ。まだ完全に回復」
新太郎はメッセージボードに続きを書いた。
「してないのに」
「やるしかないだろう。」
「他人事だと思って、簡単に言わないで下さい!」
パン、パン、とチチチュラが拍手を二つ打った。
山田ディレクターと新太郎が顔を向けると、チチチュラは「てぃんさぐぬ花」の一節を歌った。
なしば何事ん
なゆる事やしが
なさぬ故からどぅ
ならぬ定み
「成せば成る。成さねば成らぬ何事も。シンシン、お主はいつもカバンに『日本語發音アクセント辞典』を入れて持ち歩いて居る。アナウンサーへの復帰を諦めていない事が分かる。HIDEMI先生に期限を設定していただいたのぢや。やるべし。」
「はい。」
新太郎は、山田ディレクターの方を向いた。
「山田さん、さっきはすみません。」
「気にしてないよ。ナレーションよろしく。」
「ナレーションの吹き込みまだ続いていますか?」
「もう少し残っている。」
山田ディレクターは小川アナに答えた。
「シの音を含まない部分は録り終えたが、『レディ・シーサー』と叫ぶ部分がまだつかえている。」
「主人公ですものね。」
「愛と、知恵と、勇気のい●を合わせて、今現れよ、レディー・●●サー!」
三人の少女が、沖縄の守り神から与えられた『愛の石』『知恵の石』『勇気の石』の指輪を合わせてレディー・シーサーを呼び出すという設定である。新太郎の声量は以前の状態まで回復したが、シの音を発音できなかった。
「新里君、『石』の所を『指輪』に変えよう。そうしてレディー・シーサーの発音を頑張ろう。」
「はい。行きますよ。」
新太郎は再び読み上げた。
「愛と、知恵と、勇気の指輪を合わせて、今現れよ、レディー・●●サー!」
上手く行かなかった。
「新太郎君、気分転換に早口言葉はどう?」
小川アナが声をかけた。
「早口言葉。どんな?」
「She sells sea shells by the sea shore.」
「英語で?」
「英語で。」
「O.K. I do it. She sells sea shells by the sea shore.」
「英語ならいいんだ。」
山田ディレクターは興奮した。
「新里君、レディー・シーサーのシーの部分を英語のShe に切り替えてやって見よう新里君。」
「ええと…やります。」
「愛と、知恵と、勇気の指輪を合わせて、今現れよ、レディー・She サー!」
「不She然極まりない。これは駄目ぢや。」
チチチュラは山田ディレクターの方を向いた。
「山田殿、シンシンの昔の放送から、シの音を切り貼りしては如何かな。」
「それは最終手段だ。そんな事をしても新里君の自信は回復しない。」
チチチュラは録音室の中の新太郎に呼びかけた。
「シンシン、シの音が發音できなくなつたのは、お父上がお亡くなりになつてからぢやな。」
「はい。」
「お父上は、病で亡くなられたのか。」
「海外旅行中に、乗っていた飛行機が落ちま、落ちたんです。テロの疑いも有りま、有ったんですが、悪天候の中の無理な出発が、原因となってます。」
「お父上は、お主の仕事について何かおっしゃって居たか。」
「直接何かを言う事は無かったです。家に居るときは自分の放送をねっ●…夢中で聞いていたと後で母から聞きま●…聞いてます。」
「シンシン、お父上はお亡くなりになつたとは言へ、消えて無くなつた譯では無い。グソーに出かけられたのぢや。グソーでお主の仕事を聞いて居らつしやる。良い仕事をせねばな。」
「聞こえますか。」
「勿論ぢや。祈りとは何ぢや。ウートートゥは、グソーの御先祖に向かつて話しかける事である。聞こえるからこそ、話しかけるのぢや。」
「そうですね。」
新太郎は、答えながら、父親の顔を思い浮かべた。斜め後ろからの視線を感じて、振り返った。新太郎の腰掛けていた椅子は、壁にピッタリと付いていて、人が後ろに立つ隙間は有りそうに無かった。
「親父。」
とつぶやいてみたが、特に変わったことは起きなかった。しかし体が少し温かくなった。
「それでは行きます。」
新太郎は再び読み上げた。
「愛と、知恵と、勇気の指輪を合わせて、今現れよ、レディー・シーサー!」
「あ…やった!」
山田ディレクターの口から言葉が漏れた。
「山田さん、『指輪』を『石』に戻しましょう。三人の少女の意思にも掛けていると思います。」
「なるほど、それじゃもう一回。」
「愛と、知恵と、勇気の石を合わせて、今現れよ、レディー・シーサー!」
「完璧ぢや。」
「ようし、もう大丈夫だな。」
「大丈夫じゃありません。」
皆が小川アナの方を見た。
「これを読めるようになるまで、大丈夫とは言えません。チチチュラさん、これを。」
小川アナは一枚の紙を渡した。
チチチュラはその紙を読んで、録音室の正面スクリーンに内容を映した。
「これは…」
「さうぢや。あの日、お主が讀めなかつた記事ぢや。あの日、お主のアナウンサー生命を奪つた記事ぢや。あの日、配信されたお主の父上の死亡記事ぢや。二次元の幽霊ぢや。」
瞬間部屋の温度が下がったように感じた。
「春乃ちゃん、どうしてこれを」
「あの事故からもうすぐ一年になるから、当時のニュース記事を集めて特集を作っていたの。」
「それでか」
新太郎は目をつぶった。先ほどチチチュラから言われたことを思い浮かべた。マイクに繋がっているケーブルが遠くのスピーカーに繋がり、スピーカーから聞こえる自分の声を聞いている父親の顔を想像した。父親は自分の死亡記事をどんな顔をして聞くだろうか。驚いた顔だろうか。困った顔だろうか。父親の困惑する顔を眺めると思わず笑みがこぼれてくる。いやいや死亡記事を読む前に笑ってはいけない。
新太郎はふううううっと大きく息を吐いて笑いを腹の底に押し込んだ。そうしてマイクの前に立った。
「十五日の朝、行方不明になっていたバンコク発クアラルンプール着の旅客機が、インド洋上で見つかりました。乗客名簿の中に、シンザトシシオさん56歳の名前がありました。タイ・マレーシア合同調査隊が、事件・事故の両面で捜査を行っています。」
「シンシン、お主の父上はどの様な人であつたか。」
「甘いものが好きでした。冬でもぜんざいを、冷たいぜんざいを食べに出かける人でした。自分が子供の時にシンガポールに連れて行ってもらった事があって、その時食べたココナツ・アイスクリームの白さを、まだ覚えています。」
「シンシン、本日の収録は終了ぢや。顔を洗つて來て良いぞ。」
新太郎がお手洗いから出ると、小川アナが外に立っていた。
「新太郎君、おめでとう。」
「ありがとう。…どうしたの?」
「新太郎君が顔を洗っている間に、山田さんにお願いしたの。私アナウンサーを辞めて、ADになるんだ。」
「何だって。」
「最近、イライラしてるなあと思っていた。チチチュラさんに言われたの。
『小川殿がシンシンを見る時の表情は、以前CMの撮影をした時の子役の少女の表情に似て居る。ウエデイング會場のCMで、シヨウウインドウの中のドレスを見つめる女の子の顔を撮る仕事であつた。憧れの表情を作るため、何か欲しいものを思ひ浮かべるやうに演技指導を受けたその子は、ヘラクレスオオカブトムシを想像したさうぢや。好きなものは人それぞれぢやな。』」
「私は人に薦められるままアナウンサーになった。アナウンサーの仕事が面白くない訳では無いけれど、気付いたの。結局私は、人前で話をするより、番組全体を作る仕事をやりたかったんだって。」
「不慮の事故が切っ掛けとは言え、自分の意思に反してとは言え、アナウンサーからADになった新太郎君を羨ましく思っていたのよ。私の方からHIDEMI先生に連絡して、新太郎君を推すように頼んだの。頼まれるまでも無く新太郎君を推すとおっしゃったけどね。」
「そうだったのか。春乃ちゃん有難う。本当に有難う。」
「自分の為だから。」
二人はアナウンサー室の前まで歩いてきた。
「春乃ちゃん、これもらってよ。」
「いいの?」
「いいんだ。もう使わないさ。」
「…ありがとう。」
春乃はメッセージボードを受け取った。
一ヵ月後、アニメ『レディー・シーサー』の完成発表会が放送局の大広間で行われた。
山田ディレクターは緊張してしきりに咳払いをしている。
HIDEMI先生は穏やかに微笑んでいる。
小川ADは本番開始のキュー(合図)を出した。
チチチュラは司会者に焦点を合わせた。
「皆様、本日はアニメ『レディー・シーサー』の完成発表会に多数お集まりいただき、誠に有難うございます。当アニメは、諸事情により放映中止となっておりましたが、当時のスタッフ、新規スタッフの力を結集して、再編集を行い、装いも新たに放映を開始いたします。申し送れましたが、私は本日の司会進行を務めさせていただく、アナウンサーの新里新太郎と申します。よろしくお願い申し上げます。」