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合田はいつもなつめさんと呼ぶ

なつめは母親のベッドの枕元のイスに腰かけ、スプーンを手に取ると、慣れた手つきでプラスチックの食器から、おかゆをすくった。おかゆといってもほとんど重湯で、すっかり冷めてしまっているそれは、見るなり食欲がなくなりそうなものだった。

「母さん。さあ、食べて」

 と、口元まで運んでいっても、母親はうつろな表情を天井に向けるだけで、何の反応も示さなかった。

なつめは自分が着せたばかりのパジャマを汚さないよう、わずかに開いた唇の間からねじ込むようにおかゆを含ませたが、すぐ口の端からこぼれてきて、あわててティッシュで拭った。

「ちゃんと飲み込んでよ。ね」

 もう声も聞こえなくなったのか、うつろな表情のまま、仰向いているだけの母親に、なつめは小さく息をついた。母親の症状が最末期のものであることは間違いのないことだった。しかし、日々ほんのわずかしか変化しないため、あるいは一生このままの状態が続くのかと、時々勘違いしそうになる。

また、スプーンですくったおかゆを口元まで運ぶ。

「母さん、ほら。…お願い、早く食べて。私、もうすぐ、次のバイト行かなくちゃなんないの」

 泣き声で懇願しても、まばたき一つしない母親に、思わずスプーンを叩き付けたくなる。それを堪え、立ち上がった時、ふいにめまいを感じた。思わずよろけそうになって、ベッドを仕切るカーテンを掴みかけた時、背後から誰かに支えられた。

「危ない…!」

 振り返ったなつめは、片腕を背中に回して、自分を支える主治医の合田と顔を合わせて、あわてて身を引き、深々とお辞儀をした。

「す、すみません…!」

「大丈夫ですか、なつめさん」

「は、はい」

 もう夜だというのに、おろしたてのように真っ白な白衣を着て、紙袋を提げた合田は、心配げな顔でなつめと母親の顔を交互に見ている。

「どうしました」

「あの…母さんがご飯を全然、食べてくれなくて…」

「そうですか。診てみましょう」

「は、はい…」

 なつめはうなずくと、合田に枕元の場所を譲った。合田はなつめに代わって母親の枕元に立つと、やさしく声をかけた。

「川上さん、どうされましたか」

 母親の手首に指先をあて、脈拍を測る合田から目を背けると、なつめは無言でその場を離れた。病室を出て、廊下を歩き、非常階段の近くにある休憩室のベンチに座ると、天井を向いて、ふうっと息をついた。

 疲れていた。

 朝から何も食べていなくて、両足に力が入らず、ここに歩いてくるだけで息が切れかけていた。何か口にしなければと思うが、なぜか食欲がわかなかった。

 仰向いたまま、天井の薄汚れた蛍光灯をぼんやり見つめていると、ふいに横から声がかかった。

「あの…」

 ぼんやりしたまま声のした方向へ顔を向けると、Tシャツとスウェットの短パン姿の若い男が、少し緊張したような顔でこちらを見つめ、廊下に突っ立っている。よく見れば、目鼻立ちの整った、それなりのイケメンだった。右足にはギプスをはめ、松葉づえをついている。

「あの…これ、食べてください」

 と、病院の地下にあるコンビニの袋を差し出してくる。

「はあ?」

 眉間にしわを寄せ、思い切り睨みつけるなつめに、男は少しひるんだ後、思い切ったように言った。

「あの…下のコンビニで売ってるシュークリームです。時々、買ってますよね?よかったら食べてください」

「いりません!」

 言下に断るなつめの膝の上に、何も言わず男がコンビニの袋を載せた。

「ちょ、ちょっと…!」

「もう買っちゃったんで、食べてください。袋の中に、自分の連絡先書いた紙入ってます」

 目を見ひらくなつめの前で、男は少し照れたようにまばたきをしながら言った。

「川上さんって、言うんですよね?自分、田中っていいます。プログラマーやってます。バイクで事故って、2週間前から入院してました。川上さんのこと、下のコンビニで見かけてから、ずっと気になってました」

「あの…」

「明日退院するんで、思い切って…」

 男が言いかけた時、休憩室に白衣の合田が顔をのぞかせた。

「なつめさん」

「あ、先生…!」

 立ち上がったはずみで、コンビニの袋が床に落ちた。床に散らばったシュークリームの袋をあわてて拾い上げ、また袋に詰め込むと、なつめは男に向かって、怒ったような顔で突き返した。

「返します!」

「あの…」

 言いすがる男から顔を背けると、なつめは合田へ歩み寄った。

「先生、すみません!」

「なつめさん、どうしました」

「なんでもありません!」

 合田の問いかけにそっけなく答えると、なつめはそのまま後ろも見ずに、母親の病室に向かって早足で歩き出した。その後を追って歩き出した合田が、休憩室の男をちらりと振り返って言った。

「なつめさん。あの患者さんはなつめさんに何か用事があったのではないのですか。よろしいのですか」

「知らない人です!」

 怒ったように言うなつめへ、合田が後ろから声をかけた。

「行き過ぎましたよ」

 その声に、なつめはハッとして立ち止まった。いつのまにか母親の病室を通り過ぎ、廊下の端のエレベーターホールまで歩いてきていた。

「す、すみません、先生…!」

「なつめさん、お疲れではありませんか」

 なつめのそばに立った合田が、心配げに顔をのぞきこんでくる。合田はなぜかいつも、なつめを下の名前で呼んだ。

「大丈夫です、全然疲れてません。…それより先生、母さん、おかゆを全然食べないんです。…あの、大丈夫ですか?」

「栄養は点滴で補っていますので心配いりませんよ。さっき眠られましたのでしばらく様子をみましょうか。看護師にも注意をするよう言っておきますから安心してください」

「…わかりました。すみません」

 頭を下げるなつめに、合田は「大変ですね」とやさしく言った。義理ではない、心のこもった言葉だった。

「いえ、そんなこと…」

「そんなことはありますよ。お1人で本当によくやっていらっしゃいます。…そうだ、これをお渡ししようと思っていたんです」

と、提げてきた紙袋を差し出した。中を見ると、リボンと包装紙できれいにラッピングされた箱が入っていた。

「退院された患者さんからいただいたお菓子です。なつめさんが食べてください」

「あの…」

「さあ、どうぞ」

「は、はい」

 念のため辺りを身回し、他の患者が見ていないことを確認すると、なつめはお辞儀してすばやく受け取った。

「いつも、もらってばかり、すみません!」

「いいんですよ。僕は甘いものは苦手ですから」

「はあ…」

 合田はなつめを見るたび、患者からのもらい物だと言って食べ物をくれようとする。最初は断っていたが、何度も繰り返されるうちに、なつめさんという呼び方とともに慣れてしまった。困ったように伏し目がちになるなつめへ、合田が言った。

「やはり疲れた顔をされていますね。本当に体調が良くないのではないですか。少し休まなければなりませんよ」

 と、頬に触れられそうになり、思わずなつめは身を引いた。手足の長い、細身の身体つきといい、色白で品の良い端正な顔立ちといい、優雅な物腰といい、王子というあだ名がぴったりの合田だが、なつめには親切を通り越してかまい過ぎる程だった。やたら心配されたり、さりげなく触れられたり、戸惑わされることも多い。

 なつめは合田を見上げて、恐縮して言った。

「大丈夫です。休んでます」

「でもなつめさんは、もう少し食べないと身体がもちませんよ。ちゃんと食事をとっていますか」

「はい」

「本当に」

「はい」

「…そうですか」

「はい」

 なつめが笑顔でうなずくのを、心配げに見下ろしていた合田は、小さく息をつくと、気を取り直したようにほほ笑んだ。

「今日もこれからアルバイトですか」

「はい」

「大変ですね。行き帰り、くれぐれも気を付けてください」

「ありがとうございます、先生」

「ではまた明日」

「はい、失礼します」

 にっこりとほほ笑み、診察室へ戻っていく白衣の後姿を見送って、病室に戻ると、窓際の母親のベッドの周りにはカーテンが引かれてあった。そっとめくると、ベッドの上に横たわり、眉間にしわをよせながら母親が眠っていた。

 なつめは音をたてないようにカーテンを元に戻し、バッグを肩にかけ直すと、そっと病室から廊下に出た。毎日のように通っている病棟の中は、今はもう目をつぶっても歩ける程だった。

 エレベーターで1階に降りると、昼間は雑多な人が行きかう待合室も、夜も更けた今は人影もなく、時折看護師が通り過ぎるだけだった。そこへ小さくうなずいて通り過ぎると、そのまま夜間通用口へと向かった。


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