20年ぶりに会った母さんはやはり
第一章
1
呼び出された病院は、JRの環状線の駅を中心にして広がる、ごみごみした街の外れにあって、想像以上に古ぼけていた。
患者やその付添たちもそろって貧しげで、ぼさぼさの長い髪を無造作に後ろでくくり、よれよれのTシャツに穴開きのジーンズ姿のなつめには、そういう意味では気楽な場所だったが、病院の事務室の外の廊下で待つ間中、貧乏ゆすりをしたり爪を噛んだり、1秒も落ち着けなかった。心臓もドクドク音を立てて鳴りっぱなしだった。
「お待たせしました。さあ、行きましょうか」
ふいに呼びかけられ、なつめは顔を上げた。一昨日連絡をした、事務室の島田という女性スタッフだった。あわてて立ち上がろうとして、よろけるようにソファに座り込んだなつめの青ざめた顔に、島田が気遣わしげな表情をした。
「大丈夫?緊張してる?」
「ちょっとだけ。でも、大丈夫です」
全然大丈夫ではなかったが、なつめはすぐに立ち上がって、無理に笑った。
「そう?」
「ほんとに大丈夫です」
「そう。じゃ行きましょうか」
「はい」
とうなずいてはみたが、島田の後について事務室を出て、エレベーターに乗っている間も、心臓は痛い程鳴っていて、いまにも胸を破って飛び出そうだった。
ポロシャツを着た、背の低い、小太りの身体つきの島田は、緊張しきった様子のなつめをあらためて見上げた。
「それはそうよね。お母さんとは20年ぶりに会うんだもんね。緊張しない方がおかしいよね」
「はあ…」
「でも、やっぱり娘さんね。川上さんに本当によく似てる。お母さんに負けない大した美人さんだわ」
「…」
黙り込むなつめにほほ笑みかけると、島田は止まったエレベーターから、なつめを促して降りた。
内科の病室のある3階は、平日の昼下がりということもあって、見舞客の姿はあまりなく、廊下を歩いていると、開けっ放しの病室のドアから、それぞれベッドの上で昼寝したり、イヤホンをしてTVを観たり、編み物をしたり、思い思いに過ごす入院患者の姿を見ることができた。
島田はその中の1つのドアから、6人部屋の304号室に入っていくと、ベッドを仕切るカーテンが引かれたままの、窓際のベッドの横に立った。
「川上さん、事務室の島田ですよ。ちょっといいですか?」
声をかけながら、少しだけカーテンを開き、頭だけその中に突っ込むと、小さな声で何か話し始める。なつめは自分でも気づかないまま、Tシャツの胸のあたりを右手でぎゅっと掴んでいた。しばらくやり取りがあって、島田はなつめを振り返ると、「お待たせ」とカーテンを開け始めた。
瞬間、息が止まった。
心臓が跳ね上がった。
なつめの目の前に、開け放されたカーテンの中から姿を現したのは、力なくベッドに横たわり、観念したように、仰向けのまま目を閉じる女の姿だった。白髪まじりのざんばら髪に、やせこけた身体を汚れたパジャマに包み、まだ40代のはずなのに、顔はしわしわに萎んでいた。
なつめは呆然と立ち尽くした。これがあの母さんなのかと思った。本当に、あの誰よりもきれいだった母さんなのだろうか。
「川上さん、娘さんが来てくれたわよ。…川上さん、川上さん?」
島田の呼びかけに、母親はゆっくりと目を開き、その目だけ動かして、島田の後ろに立つなつめをちらりと見た。
「!」
立ちすくむなつめの前で、母親はすぐ顔を背け、目を閉じた。
「どうしたの、川上さん?…娘さんよ。わざわざ来てくれたのよ」
その声が聞こえていないかのように、母親は顔を背けたまま、気絶したように身動き一つしなくなった。島田は血の気の失せたなつめを振り返りながら、周囲を気にして、小さな声で必死に女に話しかけている。
「川上さん…川上さん?」
その様子を見つめる、なつめの視界がふいにぐにゃりと歪んだ。
島田の声が遠くなった。
心臓の音も止まった、ような気がした。
頭の中がぐるぐる回って、何も考えられなくなった。
足元がぐらぐらし、視界が回り始める。
視界が傾き、身体が傾いた瞬間、その身体が宙で止まった気がした。
「…合田先生!」
遠くからそんな声が聞こえてくる。
ぼんやりした意識の中で、なつめは自分をのぞきこむ誰かの顔に向かって、「だ、い、じょ…です」と、声にならない声でつぶやいていた。