雲
夏が取り立てて好きだという訳でもないけれど、
秋の風感じて季節の移り変わりを嗅ぎ取ると少し寂しい気持ちになる。
目を閉じて夏の空を思い浮かべるのが好きだ。
絵の具で塗りつぶしたように単純な一色に見えるが、
本当はいろいろな濃淡と色味を持つまっさらな青空に輪郭の厚い入道雲が流れる。
その景色を思い浮かべるだけで、蝉の鳴き声や木陰の涼しさが瞬時によみがえってくる。
修悟の家の庭は黄色い向日葵で埋め尽くされている。
ピアノ教室に通う子供が種をくれたそうで、何気なく蒔いて水をやっていたら
いつの間にやらそうなったそうだ。
彼は時々風で流れてくる水飛沫を心地よさそうに浴びながら、
彼の背丈よりも大きく成長した向日葵にホースを使って水をくれる。
向日葵は頭を重たげに垂らしているが、
浴びた水の光がキラキラとして、どこか嬉しそうにも見えるから不思議だ。
私は縁側に腰かけながら、用意された麦茶を片手にその光景を眺めている。
「これだけの向日葵の種はどうするんですか?」
こちら側に背を向けたまま彼は返事を続けている。
「他の子たちにでも配ろうかな」
「そうしたらどこもかしこも向日葵だらけね」
確かに、と笑う彼の笑顔も日の光を反射する水滴のきらめきで
いつも以上に明るく感じる。
私の足元には彼の愛犬が伏せっており、少し暑そうにお腹を上下させる。
なんて、和やかな夏の午後だろうか。
眩しいくらいに幸せな光景なのに、胸を締め付ける感覚に涙が出そうになった。
水を遣り終えた修悟は私の右隣に腰かけてから麦茶を受け取り、
一気にごくりごくりと飲み干していく。
その嚥下していく喉元の動きを私は見つめた。
夏だというのに然程日焼けをしていない白い喉元から、
汗が嚥下と同時につっと首筋を伝って鎖骨のお皿に溜まる。
最後の一滴まで飲み干された麦茶は
薄く、血色の良い唇を瑞々しく潤して名残惜しげに離された。
かつりと、お盆の上に空っぽになったグラスを置くと、
切り分けられたスイカを一切れ手に持つ。
その折に赤い汁が指先を流れて、ぽたりと手の甲から雫を垂らす。
少し豪快に被りついて、シャクリシャクリと咀嚼した。
その姿を見て、どこを噛み付いても美味しいのかしらと想像してしまった私は
きっと暑さにやられているのだ。
それくらいにやはり、この男の体のパーツは美しかった。
相変わらず読めない人では有ったが、
何度か会って話しをするごとに少しずつ彼の安らぐ顔を見るようになった。
鋭利な輝きを放つ硬質な宝石みたいに人をぞっとさせる笑みは
相変わらず熱病のように私を苛むというのに、
夕焼けみたいに蕩けそうで甘いオレンジ色になる瞬間の笑みに心震わされる。
この人の本質はどっちなのだろうか。
私はこの人の「男」にひかれているのか「人」にひかれているのか分からなくなる。
私は青空に手を透かしてみる。
夏特有の大きくて輪郭のはっきりとした雲がのろのろと私の手の平の裏を通過した。
「“手の平を太陽にすかしてみれば”って歌詞あったね」
「よく覚えてますね」
幼稚園の頃によく歌った童謡だった。
今では題名も思い出されないが、先生がオルガンに空気を送りながら鍵盤を打つ姿や
半分怒鳴っているように張り上げられた声の大きさは妙に鮮明に思い出された。
「“真っ赤に流れる僕の血潮”」
小さい頃は血潮という言葉の意味がよく分からなかった。
血という単語が付いているのだから、体を流れている血にまつわる物だろう
くらいにしか思っていなかった。
今はその言葉の躍動が恐ろしいくらいに実感された。
修悟の、鍵盤を叩くすらりと長い指を持つ手が私と同じ様に青空に翳される。
「本当は血潮なんて見えるわけないのにね」
骨ばった手は彼の言うとおり、筋も骨もはっきりと見て取れなかったが、
太陽の光を受けてオレンジ色のぼんやりした光を皮膚に取り込んでいた。
「もう8月も終わりか」
聞こえるか聞こえないかくらいに呟かれた言葉に、
「暑さもこれで最後でしょうか」
と、独り言のように返した。
西の空の端から夜の気配がする。
特に理由もないのに、
来年もこの人は私の横にいるのだろうかと不思議な感情に浸された。