音
電話がかかってきたその夜は、ひどい雨で、
桜もすっかり散ってしまった。
私はパスタをくるくるとフォークに巻きつけて、ふと動きを止めた。
お皿の上には食欲を誘うトマトの赤と補色のバジルが綺麗なコントラストを描いている。
オリーブオイルの香りはパスタを口に運ぶのに十分だ。
もしも喉が渇いたとしても、お皿の斜め前に置かれたミネラルウォーターが潤してくれる。
それなのにも関わらず私はふと手を止めてしまった。
理由は簡単だ。
私は何をしているのだろう、と思ってしまったからに他ならない。
その現況もはっきりと理解している。
今目の前には桜並木で出会った男が座っているからだ。
男はスプーンを使って食べる私と違い、起用にフォークだけで巻きつけて食べる。
巻きつけては食べる、その繰り返し。
時折顔を上げては綺麗に晴れ上がった青空を見て、
「今日はいい天気だね」
といったような取り留めもないことをいうだけだった。
ああ、私は何をしているのだろう。
男は電話口でこんばんはも早々に『高木修悟』と名乗った。
はぁそうですかと、はっきりしない返事をすると当然のように名前を聞かれた。
私は淡々と記号を読み上げるように「小川瑞穂です」と答えた。
「ミズホ、ね、語感の良い名前だ」
あの男の声が綴る自分の名前が驚くくらい私の鼓膜を揺らした。
携帯電話ごしでさえこんなにも揺さぶられるのに、
通信機器を通さずに呼ばれたらと思うだけで頭がぐらぐらとするのを抑えられなかった。
しかし私はその混乱を心地よくさえ感じてしまうのだ。
金属バッドで殴られたような強烈さだった。
「高木さんは」
「修悟ね」
言葉を続けるまもなく男は私の呼び方を訂正した。
別にどっちだって良いではないかと思ったが、口にしたところで
きっと綺麗に言いくるめられてしまうのだろうなと思って
私は口にパスタを運んで黙った。
「でなに?」
「いや、職業は何をしているのかなって」
常々疑問として抱いていた。
私が聞かれて大学生だとしか答えられないように別に大した内容でもないのだ。
しかしこの男のペースに飲まれていたためか、聞くタイミングを逃していた。
そもそもにおいて当初から眺めているだけで良く、
親交を深める気もさらさらなくて聞かなかったということもあるのだろうが。
「ピアノ講師」
「へーお似合い」
「気持ちのこもってない返事ありがとう」
頬杖をつきながら口元ににっこりと美しい弧を描いて、毒づく。
なんて嫌味な男なのだろう。
話せば話すほど、美しいだけではないのだと思わせる。
ベタだ、ベタだけれど、美しい花には棘があるといった古人に強く共感する。
「本当なのに」
子供のような言葉を返してしまった。
私の頭の中には「こんなはず」という言葉が木霊している。
話すたびにこの男のイメージは書き換えられていく。
黙っていれば、硬質ながらに果敢なげなのに
一度開けば、差し詰め煌びやかな薔薇のようだ。
小さな棘でちくちくとせめて、困り果てる私の様子を見てきっと内心笑っているに違いない。
「そう」
男はミネラルウォーターを口に運んでゆっくりと嚥下した。
ごくりと動く喉仏と首筋の形が恐ろしいほどに芸術的で、
また魅入られてしまう自分が悔しかった。
「上手いんですか?」
挑発するような言い方、自分らしくない。
今日はそんなことを考えてばかりだ。
私が私だと思っていた私はもっと人間に対して興味が薄く感情が希薄なはずだ。
争いごとをこのまず、とりあえず上手くすめば何でも良いと思っていたはずなのに。
「どうだろうね、いつか」
男はくすりと笑った。
窓から差し込む光が彼の輪郭をぼんやりとさせて、
少しだけ大理石の彫刻を思わせた。
「来週、ドライブにいかない?」
またしても唐突な誘いだった。