桜
春が来たというのです。春は桜というのです。
誰が言ったのだろう、桜の下には死体が埋まっていて、薄紅色は血の色だと。
皆は薄気味悪いというけれど、なんて素敵なんだろう。
こんな綺麗な花の養分に慣れるのならば、
今すぐに並々に注がれた毒の小瓶を仰いだって何の悔いも無い。
東京に来て3度目の春を迎えた。
カフェの窓越しに移るのはそれはそれは見事な桜で、見入ったまま数十分。
手に持ったカフェモカの熱が徐々に失われていくのを気にしながらも、
口にできずに呆けることしかできなかった。
春は好きだ。
暖かいのはもちろん、街の雰囲気も一気に華やぐ。
暗めの色が並んでいたショーウィンドーも、それこそお花畑みたいに
いろいろな色彩に埋め尽くされる。
人々の気配も何があるということもないのにどこかお祭りめいてて浮かれる。
それに乗じて、普段行かないような2駅先までふらりと赴いてみれば
春の装いをしながらもこじんまりと落ち着いた街の空気に一瞬で心を掴まれた。
東京は狭いのに本当に色んな顔を見せるものだ。
電車で30分も行けば大都会から田舎じみた場所へ変わってしまう。
都会の雑踏は嫌いでないけれど、元々人のそれほど多くない街で育った私にとって
懐かしさを孕んでいるように思えた。
そんなとりとめもないことを考えながら、駅から5分もしないうちに桜並木に行きあたった。
その桜並木はあまりにも見事だというのに私の横をすれ違ったのは、
部活帰りらしい運動服の中学生や腰で手を組んで背中を丸くする老人だけだった。
「なんて贅沢」
大体、桜の名所というものは人がごったがえしてゆっくり楽しむこともできない。
それを一瞬でも自分のものだと錯覚させる風景が広がっている。
満開の桜の間にのぞく晴天の空はただ青く澄んでそこにあり、
立ちすくみただ見上げる、それだけで私を満たすには十分だった。
桜を堪能していると、どこにでもあるようなカフェが目に入る。
しかしながら、都心のように騒がしい様子もなく、
私は何気なく自動ドアのセンサーの下をくぐっていた。
均質的な妙に愛想の良い笑顔でもって「いらっしゃいませ」をいう店員の女の子は
私と同じ年くらいに見える。
だからと言って何の親しみもなく、私は客で女の子は店員というだけの関係。
淡々と注文をし、それを受けて出されたカフェモカを受け取ってぐるりと店内を見た。
席は心配する必要もないくらいにがらがらで、勉強に勤しむ学生がちらほらいる程度だった。
レジの横には2階へと繋がる階段があったので、
客の割合に対して無駄なような気もするが2階に行くことにした。
躓かないように俯いていた足元からふと視線をあげて思わず息を飲んだ。
桜は陽光を自らの内側に閉じ込めて薄く白光し、
窓のフレームが額縁の代役をなして、単純な賞賛だけを私に許した。
とりあえず席について落ち着こうと思い、
窓側の席に腰かけ、温かいカフェモカを二口三口含んですぐにやめた。
私にはそのカフェモカを温かいうちに飲み干すことよりも、
限りある美しいその光景を一分一秒でも長く視界に留め続けることの方が
何百倍も重要に思えたからだ。
それから何分眺めていただろう。
ひとしきり鑑賞を終えて、使い慣れた時計に目を映すと
ふと目の端に見慣れぬものを捕まえた。
店に入る前にはいなかったが、桜の根元に設置された黄色いベンチに
1人の男と一匹の犬がいる。
男は縦縞の入ったシャツと細身の黒いパンツを身に着けており、
腕を組んでベンチに深くもたれかかってすやすやと寝ていた。
どことなく清潔感があり、ナチュラルパーマの髪は柔らかく風に揺らいでいる。
彼の足元で伏せている犬はゴールデンレトリバーらしく、
綺麗に手入れがなされているようで、毛がふさふさでお布団の匂いがしそうだった。
心引かれて、店を後にした。
黄色いベンチは道を挟んで店と反対側にあり、
私は少しだけ立ち止まって1人と1匹を見た。
声をかけるつもりもないのに、私は彼らの方に向かって歩を進めた。
犬は敏感だ。
足音に気付き、耳をひくひく動かすと伏せたまま目を開く。
こちらが立ち止まる様子を見せなかったためか、少し警戒するように顔をあげた。
それに伴ってリードがひっぱられたのが、男性の方が少しうなり声をあげる。
「何してるんですか」
本当に話しかけるつもりはなかったのだろうか。
店に出る前から決めていたかのように台詞は口から零れた。
寝起きにいきなり知らない人から声をかけられて錯乱しているのか、
男は私の顔をみると目をぱちくりさせて一度頭をふった。
綺麗な男だ。窓から容姿までは判別がつかなかったが恐ろしく丹精な顔立ちだった。
それに加えて、黒い瞳の印象の強いことといったらこの上ない。
「お昼寝」
見て分かることをつらりとのべる唇が描く弧の形の美しさに不意に魅入られる。
こんな男の死体を養分にできるなら桜もさぞや美しくさけるだろう。