お姉さんの冷たい手
僕の一番古い記憶は、近所に住んでいたお姉さんの冷たい手の感触だ。
たぶんあれは僕が小学校に入る前の事だった。お姉さんは大学生で、暇を見つけては僕の相手をしてくれていた。
その日は近くで何かのイベントがあったんだと思う。
どうゆう経緯でそうなったのかは分からないけれど、僕はお姉さんと二人で出かける事になった。
「おてて繋ごうね」
そう言って手を差し出して貰えた事が、凄く嬉しかったのを覚えている。
その時にギュッと握り締めたお姉さんの手はとても冷たかった。
「冷たいね」
たぶん僕はそんな事を言ったんだと思う。
その言葉が悪戯好きのお姉さんの何かを刺激したらしく、ほっぺや背中にお姉さんの冷たい手を押し付けられた。それを僕は口では嫌がってたけれど、本当は凄く楽しくてゲラゲラと笑ってたんだ。
じゃれ合いがひと段落した後で、お姉さんは少しだけ真面目な顔をした。
「手が冷たい人は心が温かいんだよ」
せっかく教えてくれたけど、その時の僕はまだ幼すぎたんだと思う。
「心が温かいってどうゆう意味?」
お姉さんが変な表情をしてたような気がする。今思えば、たぶん苦笑いしてたんだろうな。
「とーっても優しいって意味だよ」
これでわかるでしょ?って顔をしていた。
その顔を見たらちょと意地悪したくなって。
「怒ると怖いよ?」
みたいな事を言ったんだ。
「生意気な」
お姉さんにでこピンを食らった。
それが僕の覚えているお姉さんとの唯一の会話だ。
お姉さんが死んでしまったのは、それからすぐの事だったと思う。
交通事故だったらしい。
お姉さんが死んだ。
死ぬという事自体は知っていたはずだけど、きっと理解は出来ていなかった。
両親に連れて行かれたお姉さんのお葬式。
たくさんの人が泣いていたのが印象的だった。
お葬式での事はいまいち覚えていないけれど、皆でお姉さんの棺桶に花を入れた事は覚えている。
「あの子は仏様になったんだよ」
順番待ちをしている時に、近くにいたお婆さんが教えてくれた。
でもその時は意味が分からなかった。
少しして自分の番になった。
棺桶を覗き込むと、綺麗な顔をしたお姉さんがいた。まるで眠っているみたいだった。
僕は花を置きながら、こっそりとお姉さんの手に触れた。
その手からは、前に繋いだ時とは違う冷たさを感じた。その時僕はお姉さんから教えて貰った言葉を思い出した。
『手が冷たい人は心が温かいんだよ』
その意味が分かった気がした。
お姉さんは仏様になったから、いつもより手が冷たいんだと僕は思ったんだ。
あれから色んな事があった。
僕はいつの間にか、あの時のお姉さんよりも年上になっている。
こうしてお姉さんのお墓に来るのは何度目だろうか。
あの日からずっと、僕にとっての仏様はお姉さんだ。
小さい頃、何かある度に天国のお姉さんに向けて手を合わせていた。色んなものがごちゃ混ぜになってしまっていたような気がする。
お姉さんの死をちゃんと理解した時には、すでに手遅れだった。もう僕の中では、神様仏様お姉さんってくらいに信仰心が出来上がってしまっていたんだ。
死んだ人に対してこんな気持ちでいるのは罰当たりだと思った事だってもちろんある。
でもたぶんお姉さんは笑って許すどころか、もっと崇めろって言うような気がしたんだ。
だから僕は今日も今日とて、こうして参拝に来ている訳だ。
もちろん隣にいる彼女には、大切な人のお墓参りだと伝えている。
そう言えば彼女はどことなくお姉さんに似ているような気がする。
色白で線が細い身体と真っ直ぐで長い黒髪はあの時のお姉さんのイメージと重なる。今さら気付いたけれど、お姉さんが僕の理想になっていたのかもしれない。
だけど彼女が日に焼けたり、ちょっと太っちゃたり、髪型を変えたりしてもきっと変わらず好きなんだと思う。
その事をお姉さんに報告に来たのだ。
僕は彼女と結婚する。
報告を終えて顔を上げると彼女と目が合った。
「随分長く手を合わせてたね?」
短く済ませたつもりだったけど、それでも長かったらしい。
ここに来るとついつい長居をしてしまうのだ。
帰り道。
隣を歩く彼女の手を握った。
突然だったからか、彼女は少し驚いた顔をした。
でもすぐに、その手を握り返してくれた。
繋いだ手は、とても冷たかった。