ペットニナリナサイ
注意:このお話は弱めの暴力表現がございます。閲覧の際はご注意ください。
体に、強い痺れが奔った。
立っていられなくなって、彼は古い畳に倒れ伏す。
せめて上半身を起こそうと、右手に力を込めて踏ん張ろうとするが意味もなく。
ただ右手への痺れが、余計に増しただけだった。
苦し紛れに上を睨み上げる。
楽しそうに笑っているその男が、憎らしくてたまらなかった。
人間とトラの半人半獣――ジンは、日本から遠く離れた場所からやってきた。
もともとジンは、双子の兄オーガ、元飼い主の女神ネルと共に日本へ転がり込んだのだ。だがその兄とネルはいない。
ゆえあって、ネルはオーガを連れて日本を出た。それが半月ほど前のこと。
日本――の死者たちが集う黄泉の国に、ジンはいる。そしてその黄泉で二番目に大きな古びた屋敷に居候している。
屋敷の主人はヒノカグツチ。火を司る神ゆえに生まれてすぐ母を殺し、父に殺された男神だ。
今、自分はその死んだ男神に見下ろされている真っただ中だ。
奴は自分に毒を盛った。「まー茶でもお飲みよ」とさりげなく出されたやたらと苦い緑茶を、何の疑いもなく飲んだ自分は救いようもない馬鹿だった。それに口をつけた瞬間、ごとんっ、と湯呑を畳に落としてしまった。
全身がびりびりとしびれてうまく力が入らない。
畳に体を横たえて、必死で呼吸を落ち着ける。手足を動かそうとするとまたびりびりした。
「んぅ、っく……」
「はっ、いいざまだねえ」
赤銅色の不揃いな髪と、錆びた鉄のような目は何処か褪せていて生気が感じられない。赤茶の羽織や下に着ている衣服はほつれていたりくすんでいて薄汚いのに、首や額に巻かれた包帯だけは真っ白で綺麗だった。
病的に青白い肌をしたその男は既に死んでいる。死体が動くのは、八百万の神々の間ではとくに珍しいことではない。
「カグツチ、てめぇ……!」
「おー、威勢のいい目ですこと。いいツラできるんじゃん? その方がいじめがいがあるってもんだけど」
「何を仕込んだ……」
「毒じゃないから安心していーよ。即効性の麻痺薬をちょいっと盛ったのさ」
すっとしゃがんで、カグツチはジンの無様さを楽しんでいる。こんな失態、普段のジンなら絶対にしなかった。
多少の付き合いもあったからそれなりに信頼していたため、カグツチから出された飲食物を、何の疑いもなく飲み食いした。信じた俺がバカだった。
信頼を罠で返したこの男を、できることなら噛みちぎってやりたい。人間でもありトラでもあるジンは、トラに変化すればそれも簡単だった。だけれど全身をひどい痺れで縛られている現状では無理だった。
「万全な状態のキミ相手じゃ絶対叶わないってわかってるからねー。こうでもしないと勝てないもんな、私ただの死体だし」
「よく言う……。てめー、今まで背後をとらせた、こと……なかっ、……た、だろ」
「ありゃバレたぁ? 私もまだまだなのかもねぇ」
言うやカグツチは、立ち上がってジンを蹴り飛ばす。
「が、っは……」
足蹴にされた脇腹がじんじんと痛む。その痛みを必死で掻き消す暇さえ与えられなかった。
「体が重いだけならまだ何とかなったかもねえ。でもさあ、麻痺ってもっと厄介だよねえ? ちょっと触れられただけで痛いんだから。……ほらこんな感じに」
血の通わない奴の足が、ジンの右手を踏み潰した。やわくぐりぐりとにじっているだけなのに、痛みとたちの悪い痺れが襲ってくる。
「うぁあぁッ!!」
「あっははは! 神獣っつっても大したことないねえ? ただの死体に玩具にされる気分はどうよ?」
「っ、最悪、だな……!」
「へぇ、まだ虚勢はれるんだ? 半分とはいえ、神獣だから簡単に矜持は捨てないんだね。その方が楽しいけど」
カグツチはけらけら笑ってジンの肩をぐっと掴む。利き腕を庇うように倒れ込んだジンを無理やり引き起こし、うつぶせに倒した。
「ぐ、ふぅ……」
「駄目だねえ、もっと抗ってごらんよ。君は戦士なんだろ? こんなひょろい死体に遊ばれてちゃあ、一族の恥さらしもいいとこだ」
「その無駄に回る舌……引き裂いてやろうか……!」
「わあ怖い」
精一杯、目の前の死体を睨み上げて見せる。いつもなら、目つきの悪さと常に浮かべている不機嫌顔のせいで、誰もが萎縮する。だが今はそれがただの虚勢であると見抜かれてしまっている。
「まあ、その虚勢がどこまで続くか見物だね。長く続いてくれればそんだけ私が楽しいだけだけど」
その後もジンは、カグツチにいいようにいたぶられた。
痺れはいつまでたっても取れない。指先でつつかれるだけでそこがばちばちと感電したかのように痺れ、ジンを震わせた。
この麻痺は痛みだけじゃない。痛みよりも厄介な感覚がついてまわる。
がくがくと足がすくみ、手がびくびく痙攣してはカグツチに弾かれる。
胴を爪先でつつかれれば息が詰まり、情けない声が漏れるだけ。
挑発するように嗤う奴の声を耳にするたび、奴をかみ砕ければいいのにと葛藤する。
そうして遊ばれ続け、時間を浪費してもジンから痺れは離れてくれなかった。よほど強い薬を調合したらしい。
強情を張っていたジンにもさすがに限界がきていた。
顔が赤らみ瞳が少し潤んでいる。手足の指先がぴくっと痙攣し、ぽかんと開いた口はひたすら空気を求める。
目から生気がほとんど奪われ、それでも最後の一線だけは頑なに保ち続けた。
「はー……はー……」
「ふ、っくくく……。無様だね、ジン」
カグツチは微笑んでジンの前髪をひっつかんだ。
「ぅく……」
「楽しかったよ、虎坊や。もう苦しいのも終わりにしようか」
「なに、を」
「これなーんだ?」
カグツチの左手に持っていたのは、黄緑色の首輪だった。飼犬用のそれには、黄金の鈴がついている。
その首輪の意味するところを、ジンはよく知っていた。知っているからこそ、青ざめた。
「まさか」
「そうそのまさか。君を私の眷属にしようと思ってねえ」
眷属――ペットと呼ばれるその契約は、主に人知を超えた力を持つ獣や妖怪と半強制的に主従関係を結ぶものである。
必要なのは首輪とまじないの力のみ。ペットにしたい者に首輪をあてがい、たったひとこと、飼い主と眷属としての主従関係を結ぶための言葉を吐きだせばいい。
やけに簡単なこの契約は、一度結ばれれば解くことは難しい。飼い主が契約を破棄しなければ、ペット側は飼い主に一生を鎖で繋がれることになる。
――冗談じゃない。誰がこんな奴と。
体を動かそうにも、麻痺のせいでままならない。
カグツチはそんなジンを嘲笑うように、からかうように、その顎を撫でてやった。
「いいカッコだよね、虎坊や」
「……っ!!」
睨み上げてやっても、結局カグツチを煽るだけだ。
カグツチが馬乗りになってジンの自由を奪う。ジンの両腕をやんわり除けて、焦らすようにゆっくりと首輪を開いた。
「やめろ……いや、だ……嫌だ……!」
強気であった目に怯えがにじみ出て来る。眷属契約は、ジンにとっては耐え難い屈辱だ。誇り高きトラが、こんないっぱしの死体などに従わされるなど。
「やめて、カグツチ……!」
「だーめ。もう遅い」
カグツチが、ジンの耳元に絶望を吹き込んでやった。
「私のペットにおなりなさい」
首輪の鈴が、りんっ、と澄んだ音を立てた。
「――とかなったりして」
「ねえよ!!」
ジンはばしんっ、と朽ちかけのちゃぶ台を思い切りたたいた。
向かいには目を輝かせながら今までの作り話を語る女神――クシナダ姫が座っている。その隣には、必死に笑いをこらえて腹を抱えるカグツチがいた。
「えーっ? だってカグツチ様とジンさんですよ? そりゃひと悶着あったっていいじゃないですか」
「残念だがあんたが期待してるようなことは何もないからな」
「なーんだ、つまんない」
スサノオと共に暮らしているというこの女神は、どういうわけかこの手の話が好きなのだ。ジンやカグツチにだけではなく、武神とうたわれている建御名方や卑怯者とそしられる建御雷、果てはイワレヒコやその部下大久米、かつての天敵(現在は友人らしい)ナガスネヒコにも同様に話を聞いて回っているとかないとか。
「何度も言うようにだな。俺はこの通りの半人半獣で荒くれだったから両親に捨てられて、世に仇なす妖怪に堕ちかけてたのをカグツチに拾われて眷属としてすくいあげてもらったんだっつの。何度言えばわかんだよ」
「よくわかっておりますわよー。でもでもっ! カグツチ様といえば抜け目のなさとにじみ出る妖艶さでその界隈では有名なのですよ! そしてジン様、あなたも結構有名ですっ! ぶっきらぼうで口が悪いけど世話焼きで何だかんだと面倒を見てくれて、それでいてたまに見せる色っぽさがもうたまりません、とは世の乙女がたの評判です……!!」
「アホか!!」
ジンは大人ですら萎縮するその不機嫌顔で必死にクシナダの言葉を否定する。
それを聞いていてもう限界がきたのか、カグツチは隠しもせず盛大に笑い転げた。
「ぶっ!! ひゃーっはっはっははははははは!! ひーひー腹いてぇ!」
「カグツチ……」
「っつーかクシナダ嬢最高! そのネタすっごいツボ……!」
「えっ、お気に召してくださいました?」
クシナダの顔が輝く。
「うんうん。でも誤解しないで。私そこまでサドっ気ないから……。現実の私はいたって穏やかに契約したからね……。ひー……もうだめ、腹割れる……」
「存じておりますとも」
「うん。ならよし」
「よくねえよ……」
「何言ってんのさジン。クシナダ嬢は現実と空想の区別くらいついてるよ。君がヘタレだなんて思ってないって」
「わかってても想像するだけで嫌だわ。っつーか俺そんなにヘタレに見えたのか?」
「いえ、めっそうもない。いつも強くて揺るぎないお方が、だんだんと堕ちて行くというしちゅえーしょんにときめくのですよ」
「もう俺のいないところで好きに想像でも空想でも何でもしろ……」
ジンは脱力して席を立つ。
「おや、ジン? お出かけかい?」
「夕飯の材料買ってくる。クシナダ、お前もうそろそろ帰った方がいい、逢魔が時になる」
「あら、もうそんな時間。では、わたしもそろそろおいとましなくては」
ジンがクシナダを送る形で、カグツチの屋敷から去って行った。
ひとり部屋に残されたカグツチは、ふうっと息を吐いた。
ジンの言葉には嘘がある。いや、ジンには嘘を言っている自覚がない。
ジンが言った眷属契約の背景は、カグツチが塗り替えたにせものの記憶である。
本当は、ジンは遠い異国からやってきた。ネルという女神と、彼の双子の兄であるオーガと共に、ここへ転がり込んできた。
そして、ネルとオーガはジンを残して日本を発った。ジンにとって、その二人はかけがえのない家族だった。
その家族との別れの悲しみを癒すため――といううわべの良心と、彼らを追いかけて日本を捨てるということがないようにという悪意的な下心で、カグツチはジンの記憶を意図的に塗り替えた。塗り替えと同時に、自分の監視下から離れないよう、契約を結んだ。――さすがにクシナダ姫が考えているような手は使ってはいないけれど。
このことはジンにもクシナダ姫にも、そして母であり黄泉のボスであるイザナミにも言っていない。心を許し合った経津主にだって打ち明けていないことなのだ。
いつかネルとオーガが日本へ戻って来るその日まで、カグツチはこの記憶の塗り替えを自分ひとりが抱えて行こうと、温んだお茶を飲み干した。
『カグツチ、トラを飼う』からちょっと経った頃のお話です。実際は一服盛ったり退屈しのぎにジンを踏んづけたりとかそういうことはしてません。我が家のカグツチはつかみどころのない変態だけど抜け目がなくて怖いというイメージです。そんなカグツチからつかみどころのなさと変態をとったらこうなるという……。