政略結婚した無口な騎士団長様が、毎朝一輪だけ花をくださいます。花言葉を調べたら、全部『嫌い』でした
初夏の柔らかな朝日が、大きなアーチ窓からグランツ伯爵邸の朝食室へと差し込んでいる。
庭の青葉がさらさらと風に揺れ、豪奢な部屋には爽やかな光が満ちていた。けれど、私と夫の距離は、この十人掛けの長いテーブルの端と端ほどに遠い。
上座に座る私の夫、王国第一騎士団長ギルベルト・グランツ伯爵は、すでに席について冷めた横顔で紅茶を口に運んでいた。黒の短髪に琥珀色の瞳。左頬に古い小さな傷があり、黙っていると歴戦の騎士の威圧感が部屋じゅうに漂う。
そして、私の前に置かれた朝食の皿の横には――今朝も、一輪の花が添えられていた。
淡い黄色のフリルを重ねたような、可憐なカーネーションだ。
結婚式の翌朝から数えて、今日で十日目。ギルベルト様は毎朝、私より先に席につき、こうして一輪だけ花を置いていく。
私は田舎の子爵家の三女だ。着飾ることも知らず、社交界でも目立たない地味な娘だった私のもとに、名門グランツ伯爵家から突然縁談が届いたのは、ふた月ほど前のことだ。
会ったこともない騎士団長様からの求婚で、理由は聞かされていない。政略結婚に違いなかった。
結婚して十日、夫は極端に無口で、朝の挨拶すら「……おはよう」の一言で終わる。
それでも、毎朝の花がうれしくて、私は自室の小さな花瓶に全部挿して飾っていた。不器用な旦那様からの歓迎の印なのだと信じていたのだ。
だが、昨夜のことである。
私の侍女のミーナが、息を切らして一冊の本を買ってきた。王都で流行中の『王国花言葉大全』だ。
私の斜め後ろに控える赤毛のミーナが、今朝の花を見て顔面を蒼白にしている。彼女は手元の辞典を覗き込み、私の耳元で震える声を落とした。
「奥様……黄色いカーネーションの花言葉は、『軽蔑』だそうです」
……軽蔑。
「あ、あのね、奥様。昨夜、これまでの花も全部調べたんです。最初の朝の黄色い薔薇は『嫉妬』、マリーゴールドは『絶望』、ロベリアは『悪意』……。ほかの花も、どれも似たような意味でした!」
嫉妬、絶望、悪意、軽蔑。見事なまでの悪口のフルコースである。
「でも、どれもきれいなのに。花束に入れてもらえない花って、なんだか放っておけないのよ」
思わず本音がこぼれた。
三日前、ミーナと市場へ買い物に出かけて華やかな花屋の前を通ったときも、並んだ花はどれもきれいだった。
けれど、花自体は好きでも、毎朝選んで置いているのは旦那様だ。胸がちくりと痛んだ。
それでも、落ち込むより先に考える。嫌われる理由があるなら、突き止めて直すか、円満に身を引くか決めればいい。
私はすっと背筋を伸ばし、遠い席の夫へ思いきって声をかけた。
「旦那様。今朝のお花は、どちらで?」
ギルベルト様の手が止まった。
彼は紅茶のカップを置くと、私の目を一瞬だけ見た。そしてすぐに、皿の横のカーネーションへと視線を移す。
「……市場の角の店だ」
低く、ぼそりとそれだけ答えた。
(今、一番どうでもいい情報でした……!)
なぜその花を選んだのかを聞きたかったのに、これでは話が進まない。
旦那様に、どうやら私は相当嫌われているらしい。――ならば、理由を調べるまでだ。
◇
その日の午後二時。初夏の強い日差しが照りつける、王国第一騎士団の訓練場。
私は「差し入れ」という名目で、料理長に焼いてもらったスコーンのバスケットを抱え、訓練場の外周にある低い石垣の陰にしゃがみ込んでいた。目的はもちろん、夫の観察である。
そっと覗こうとすると、石垣のひび割れた隙間に紫のアザミが一輪咲いていて、私は思わずそれを見つめ、数秒ぼんやりとしてしまった。
はっと我に返り、訓練場の中央へと目を向ける。
そこには、上着を脱いで木剣を振るうギルベルト様の姿があった。
無駄がなく、静かで、怖いほどきれいな剣筋だった。汗に濡れた黒髪が陽の光を浴びてきらめき、琥珀色の瞳が冷徹に光っている。
思わず見とれてしまい、慌てて「観察、観察」と自分に言い聞かせた。
そのときだった。
ギルベルト様の動きがぴたりと止まり、鋭い視線がまっすぐこちらを射抜いた。さすがは第一騎士団長、一瞬で気配を悟られたらしい。
彼は木剣を団員に預けると、大股で石垣へ歩いてきた。
「お、お仕事のお邪魔をするつもりは……!」
私は慌てて立ち上がり、バスケットを抱きしめて頭を下げた。
見下ろしてくる長身の影が私を覆う。
「……邪魔ではない」
頭上から硬い声が降ってきた。
顔を上げると、ギルベルト様は私の目を一瞬だけ見た。それから、私がさっきまで見ていた石垣のアザミへ視線を移し、数秒そこをじっと見つめる。
(隠れていた場所を確かめているのかしら。それとも、私の顔と目を合わせたくないの?)
相変わらず目は合わない。ギルベルト様は短く「……感謝する」とだけ答えてバスケットを受け取ると、訓練場へと戻っていった。
その背中へ、副団長のカイ様が笑いながら近寄っていくのが見えた。
「団長、奥様が来るとほんっとわかりやすいっすね」
金髪の青年がくつくつと喉を鳴らしている。何がわかりやすいのか、私にはさっぱりわからない。
帰り道、私は馬車の中で訓練場でのやり取りを思い出していた。
朝食のときも、さっきもそうだ。私と目が合うと、すぐに机の花や石垣のアザミへと目を逸らしてしまう。
(旦那様はいつも、私の顔ではなく、私の視線の先を見る)
私の顔など見たくもないほど避けられているのだとすれば、いよいよ立場は危うい。
――翌朝。皿の横に置かれていたのは、紫のアザミだった。
◇
翌朝、朝食室。
皿の横に転がされたトゲトゲしい植物を見て、私とミーナは息を呑んだ。
昨日、石垣の隙間に咲いていた紫のアザミそのものだった。
上座のギルベルト様はいつも通りの無表情で紅茶を飲んでいる。私の背後で、ミーナが震える手で辞典をめくった。
「奥様……アザミの花言葉は、『報復』です」
報復。
私は青ざめた。昨日、訓練場を勝手に覗き見したことへの報復だ。お邪魔ではないと言いながら、内心では怒り心頭だったに違いない。
恐る恐る上座を窺うと、カップを持つギルベルト様の指先に、細かい赤い引っかき傷がいくつもあるのが見えた。騎士だから剣の稽古で傷を作ったのだろうと納得し、私はそれ以上深く考えなかった。
それよりも、早く謝らなければ。
「昨日は勝手に訓練場へ伺って、申し訳ありませんでした」
私が深々と頭を下げると、思いがけない返答があった。
「謝ることはない。……来たければ、毎日来ればいい」
「……え?」
顔を上げると、ギルベルト様は静かに私を見ていた。怒っている気配はなく、むしろ声は低く穏やかだった。
毎日来ればいい? どういうことだろう。
混乱する私を残し、ギルベルト様は出仕のために席を立った。
玄関ホールへ向かうと、迎えに来ていたカイ様が立っていた。ギルベルト様が「剣を取ってくる」と奥へ下がった隙を狙い、私は小走りでカイ様に駆け寄った。
「あ、あの、カイ副団長様。旦那様は、花言葉にお詳しいのでしょうか? 毎日お花をくださるのですが……」
するとカイ様は目を丸くし、それから吹き出した。
「団長が、花言葉? いやいや、あの人が知ってる花なんて――」
「カイ」
奥から戻ってきたギルベルト様の低い声が落ちた。
カイ様はぴたりと口を噤み、引きつった笑みで敬礼した。ギルベルト様は私に軽く一礼し、二人はそのまま屋敷を出て行った。
扉が閉まり、ホールに静けさが戻る。
私はその場に立ち尽くし、頭を抱えた。
毎日来ればいいと、優しい言葉をかけてくれた。カイ様は何かを言いかけて、黙らされた。
言葉は優しい。なのに花は『報復』。――旦那様の本音は、いったいどっちなの。
◇
その日の夜、私の自室。
少し開けた窓から初夏の夜風が入り、ランプの灯りが揺れていた。
窓辺の小さなガラスの花瓶には、これまでもらった花がぎっしり挿してある。黄色い薔薇、マリーゴールド、ロベリア、カーネーション、そして今朝のアザミ。
寝台に腰かけた私に、床で辞典を広げるミーナが尋ねた。
「奥様、旦那様と結婚前にどこかで会ったことはないんですか?」
「ないと思うわ。一度だけ出た一年前の王宮の夜会でも、私は壁際で花瓶の黄色い薔薇を眺めていただけよ」
「それだけですか?」
「隣にずっと、背の高い騎士様が立っていらしたけど……警備の方だと思って、お顔は見なかったわ」
田舎者の私は恐縮して、三十分ほどの間、一度も見上げなかったのだ。
「じゃあ接点はないんですねぇ」
ミーナがため息をつき、頁をめくる。その手が最後のページで止まり、甲高い悲鳴が上がった。
「奥様、これ!『口下手な騎士は、想いが強すぎるとき、あえて逆の意味の花を贈った』ですって!」
「……え?」
辞典の隅の小さなコラムには「騎士と逆さ花言葉」とあった。昔の口下手な騎士は、想いが強すぎて言葉にできないとき、わざと逆の意味の花を贈る作法があったという。
「これですよ! 言葉は優しいのに花が冷たい理由!」
ミーナが興奮して身を乗り出す。
「黄色い薔薇の『嫉妬』も、アザミの『報復』も、全部『好きすぎて言えない』の裏返しだったんです!」
「そ、そんな……」
カアッと顔が熱くなった。
嫌われているどころか、好かれすぎていた?
胸が猛烈に高鳴る。それなら私も、同じ作法で気持ちを返さなくては。
「じゃあ、お返事は……一番ひどい意味の花にしなくちゃ」
逆さなら、ひどい意味ほど強い想いになる。辞典を調べると、一番ひどい意味はクロユリの『呪い』だった。呪うほど好き、という最大の返事になるはずだ。
私はランプを持って庭の北の隅へ出た。日陰に咲く黒紫色のクロユリをしばらく眺めてから、一輪摘み取る。
ふと見上げると、二階の書斎の窓に灯りがひとつ点いていた。旦那様はまだお仕事中らしい。
旦那様は、どんな顔をしてくださるだろう。
明日の朝、私は旦那様に『呪い』を贈ることにした。
◇
翌朝、午前六時半。いつもより早い朝食室に、初夏の朝日が差し込んでいた。
私は先に来て、ギルベルト様の席の皿の横に、昨夜摘んだ一輪のクロユリをそっと置いた。黒紫色の花が白い布地によく映えている。
そこへ、カチャリと扉が開いてギルベルト様が入ってきた。
私とギルベルト様は、立ったまま向かい合った。
そして次の瞬間、お互いにぴたりと固まった。
ギルベルト様の手にも、まったく同じ花――一輪のクロユリが握られていたのだ。
ギルベルト様は自分の皿の横のクロユリと、自分の手の中のクロユリを見比べた。同じ花が二輪。扉の陰からミーナが息を呑んで覗いている。
私は恥ずかしさで真っ赤になりながら、懸命に口を開いた。
「あ、あの……逆さ花言葉のお返事です! 私、ずっと気づかなくて……毎朝の花が全部ひどい意味だったので嫌われていると思い込んでいたのですが、逆さ花言葉を知りました。だから、私も一番ひどい意味の『呪い』の花を、お返ししようと……」
一気にまくしたてると、ギルベルト様は長く沈黙した。
そして、ぽつりと呟いた。
「……すまない。花に、意味があるのか」
「……はい?」
「花言葉、というものがあるのか」
「えっ……?」
私は目を丸くした。
「だ、旦那様、花言葉をご存じないのですか……? 黄色い薔薇は『嫉妬』で、マリーゴールドは『絶望』、ロベリアは『悪意』で、カーネーションは『軽蔑』、アザミは『報復』だったんですよ!?」
私が順に告げると、ギルベルト様は目を見張り、それから片手で顔を覆った。
指の隙間から覗く耳が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「全部……悪い意味だったのか」
呻くような声だった。
逆さ花言葉などという作法ではなかった。この人は、花言葉そのものを知らなかったのだ。
「では、どうしてこの花ばかり……?」
私が呆然と尋ねると、ギルベルト様はゆっくりと手を下ろした。
耳を赤く染めたまま、いつも無口な夫が、生まれて初めてのように長く話し始めた。
「全部、君が足を止めて見ていた花だ。君は何も欲しがらない。だから、君が見ていたものを贈った」
「え……?」
「一年前の夜会で、君は壁際で三十分、黄色い薔薇を見ていた。私はその隣で三十分、君を見ていた。……君は一度も、こちらを見なかったが」
心臓が跳ね上がった。あの夜会の隣の騎士は、ギルベルト様だったのだ。
「縁談を申し込んだのは、私だ」
告白は止まらなかった。
「結婚式の日、君は教会の窓辺の植木鉢にあったマリーゴールドを見ていた。この屋敷に来てからは、庭の小道でロベリアを見ていた。ミーナと市場へ行った日には、角の花屋の売れ残りのバケツに入っていた黄色いカーネーションに足を止めていた。だから、買いに行った」
息が詰まる。全部、私が見ていたものだ。花束に入れてもらえない、放っておけない花ばかり。だから意味も、ひどいものばかりだったのだ。カイ様が言いかけた言葉の続きも、今ならわかる。
「一昨日の訓練場でも、君は石垣のアザミを三秒、足を止めて見ていた。だから摘みに行った」
「あ……」
私は思わず彼の手を取った。
指先の赤い引っかき傷。剣の稽古ではなく、夜明け前に石垣まで行って、棘だらけのアザミを素手で摘んでくれた傷だったのだ。
「昨夜も、書斎の窓から見えた。君が庭の北の隅でクロユリを見ていたから……今朝、摘んできた」
ギルベルト様は手の中のクロユリを見つめ、ひどくすまなそうに眉を下げた。
「すまない。嫌な思いをさせた。そんな不吉な意味があるとは知らず、君を傷つけた」
「傷ついてなんて、いません……!」
胸がいっぱいになって、声が震えた。
嫌われてなんていなかった。
この人は、私が足を止めて見ていたものを、ずっと覚えていてくれたのだ。
視線を合わせてもらえなかったのではない。私が何を見ているのかを、確かめてくれていただけだった。
それなのに私は、花ばかり見て、この人の顔を一度もちゃんと見ていなかった。
私は溢れそうになる涙を堪えながら、目の前の夫をまっすぐに見上げた。
私はそのとき初めて、旦那様の顔をちゃんと見た気がした。
◇
さらに翌朝。午前七時の朝食室。
テーブルの中央の花瓶には、昨日の二輪のクロユリが仲良く並んで挿してあった。
昨日は一日じゅう、気づけば旦那様ばかりを目で追っていた。
剣を佩く凛々しい横顔も、書類を読む伏せた長い睫毛も、目が合って耳を赤くする瞬間も。花のことはすっかり頭から消えていた。
席に着いた私は、いつものように皿の横を見た。
けれど――花がない。
結婚してから初めてのことだった。理由がわかったあとだけに、私は自分でも驚くほどがっかりしてしまった。もう花は終わりなのだろうか、と胸がきゅっと窄まる。
テーブルの遠い端に座るギルベルト様へ、私はおずおずと尋ねた。
「旦那様。今朝は、お花が……」
ギルベルト様はカップを置くと、耳を真っ赤にして答えた。
「昨日の君は、一度も花を見なかった」
「え……?」
「朝から晩まで、私ばかり見ていた。だから――今朝は、これしか贈るものがない」
ギルベルト様は立ち上がると、自分の椅子を持ち上げた。
そして長いテーブルの端から端まで歩いてくると、私のすぐ隣――いつも花が置かれていた皿の横の位置に椅子を置き、腰を下ろした。
あまりの近さに息が止まりそうになる。
見上げると、至近距離にある琥珀色の瞳が、照れくさそうに私だけを映していた。
君が見ていたものを贈る。
その規則を、旦那様は今朝も破らなかったのだ。
その朝から、私の皿の横には、花の代わりに旦那様が座っている。




