ラスボス戦、BGMが流れなくて気まずすぎる
勇者は魔王城の最上階で、聖剣を抜いた。
ジャキーン!
白い刃が赤い月を裂く。黒い炎が柱の影で揺れ、床の魔法陣が巨大な心臓みたいに脈を打った。
玉座の前には魔王がいる。
黒い翼。黄金の瞳。夜そのものを編んだような外套。
左右では魔族兵が槍を構え、骸骨兵が骨の指を鳴らさずに待っている。
世界の終わりにふさわしい舞台だった。
ただ、音だけがなかった。
「……」
「……」
───気まずい。
勇者は聖剣を構えたまま、喉の奥を鳴らしかけて止めた。
魔王も玉座から立ち上がった姿勢のまま、翼の角度をほんの少し直した。
本来なら、ここで低い合唱が来る。
地の底から響く声、床を震わせる太鼓、剣を照らす光、盾を叩く金属音、祈りの高音、炎と風の効果音。
最終決戦とは、そういうものだ。
なのに、何も鳴らない。
聞こえるのは、勇者の手袋が聖剣の柄を握り直す、革の小さな音だけだった。
ぎゅ。
小さい。あまりにも小さい。
この音だけで、世界の命運を始めろというのか。
魔王が低く言った。
「勇者よ」
「分かっている」
勇者は剣先を下げずに返す。
「このままでは、始まらぬ」
「分かっている!」
ここまで来たのだ。
村を出て、仲間を得て、竜の谷を越えた。呪いを破り、毒の沼を抜け、何度も死にかけて、それでも魔王の前に立った。
この一歩目を、足音だけで踏み出せというのか!
この旅の果てを、ただの金属音で終わらせろというのか!
勇者は息を吸った。
誰も鳴らさないなら、自分が鳴らす。世界が黙るなら、自分の喉で黙らせない。
「オー……オオオー……!
オー……オオオー……!」
玉座の間に、勇者の口BGMが響きわたった。
美声ではなかった。
だが、逃げていない声だった。
無音の玉座に、最初の一音を叩き込む声だった。
魔王は、にやりと笑った。
「なるほど。そう来たか」
黄金の瞳が、勇者の剣ではなく、喉を見る。
「序曲を奪うとはな。やるではないか、勇者」
勇者は歌の余韻を残したまま、聖剣を顔の横に立てた。
「音なき玉座に、剣は鈍る」
「ならば我も応えねばなるまい」
魔王が翼を広げる。黒い羽が、赤い月を裂いた。
「我が玉座を、安い足音だけで越えさせはせぬ。闇の王として。主演として!」
魔王の右腕が上がった。
柱の影が割れて魔族兵が現れ、階段の下から骸骨兵がせり上がり、天井の穴から翼ある魔物が降りてくる。
勇者の背後では、戦士が大盾を構え、僧侶が杖を胸に寄せ、魔法使いの指先に青い火花が散った。
勇者は笑った。
魔族兵の槍は、こちらではなく天井を向いている。
骸骨兵の骨の指は、剣ではなく拍を待っている。
翼ある魔物たちは、魔王を囲むように半円を描いていた。
増援じゃない。
合唱だ。
魔王の指が下りた。
ずん ずん ちゃ!
ずん ずん ちゃ!
魔族兵が床を踏み鳴らし、骸骨兵が骨の指を打ち合わせ、翼ある魔物が羽で空気を叩く。
低い拍が、石床から足裏へ、膝へ、腹の奥へ入ってきた。
さっきまで死んでいた空気が、底から立ち上がる。
「やるな。そうこなくっちゃ」
勇者は笑った。
「最終決戦だぞ。二拍目から空にするほど、我が城は落ちぶれておらぬ」
魔王が当然のように返す。
戦士が一歩前に出た。
大盾の縁が、赤い月を受けて鈍く光る。
「三拍目は俺が持つ。盾は壁ではない。お前の足を次の朝へ押す太鼓だ」
剣の腹が、盾を叩いた。
かん かん どん!
魔王軍の低音に、勇者側の金属音が乗る。
床から来る拍に、胸の前で鳴る拍が重なった。
僧侶が静かに息を吸う。
「傷はまだない。けれど祈りは先に立つ。声よ、切れるな。光よ、待て」
杖の先から白い粒がほどける。
「ああ ああ ああ!」
祈りが高音になって、勇者の背中を押した。
回復魔法の白い粒が、まだ傷もない肩の上で待っている。
魔法使いが指を鳴らした。
パチン!
青い火花が、赤い月の下で跳ねる。
「風よ、声を通せ。炎よ、刃に火花を。水よ、高音を澄ませろ」
ヒュオッ!
風が玉座の間を走った。
勇者の息が伸びる。魔王の低音が石壁に沈み、足踏みの拍が床から天井まで通る。
魔法使いが杖を斜めに振る。
「光よ、勇者の左頬に朝を置け!」
白い光が、天井の割れ目から一本だけ落ちた。
攻撃ではない。
聖剣の刃でも、魔王の胸でもなく、勇者の顔と肩を照らす角度で光が止まる。
「スポットライトか。悪くない」
魔王が目を細めた。
勇者は光の中で、聖剣を肩に担いだ。
「主役は照らされてなんぼだろ」
「よかろう、勇者。夜は我が歌おう」
「ならば朝は、俺が斬り開く」
勇者は剣を構え直す。
魔法使いの指先で炎が跳ねた。
バチン!
それが合図になった。
剣と爪が、同時に動く。
最終決戦の幕が上がった。
勇者が踏み込む。
ジャキン!
聖剣が白い軌跡を引き、魔王の爪が黒い火花を散らした。
ガキィン!
刃と爪が噛み合う。
火花が歌の前奏みたいに散り、魔法使いの炎がそれを赤く膨らませた。
バチバチン!
勇者は歌う。
「誰も鳴らさぬなら、俺が鳴らす♪
泥の足跡、血の夜明け!」
その語尾で、聖剣が跳ねる。
「ここまで来た名もなき旅を!」
白い刃が、魔王の翼の下へ滑り込む。
「無音のままでは終わらせない!」
ザシュッ!
黒い羽が一枚、赤い月の前で裂けた。
舞い落ちる羽根に、魔法使いの水が薄く絡む。
しゃらん!
羽根は透明な音を残して、床に落ちた。
魔王は低音で返す。
「声で来たなら、声で沈める♪
我が夜を越えるなら、喉ごと燃えよ!」
魔王の爪が、歌の語尾に乗って伸びる。
ザシュッ!
勇者は避けきれない。
肩口の布が裂け、血が跳ね、聖剣の光が一瞬だけ乱れた。
勇者の声が途切れる。
ずん ずん ちゃ!
ずん ず……ちゃ!
拍が揺れた。
「勇者よ。声が落ちたな」
魔王が目を細める。
勇者は奥歯を噛み、肩から垂れる血を見た。
痛みで腕が重い。聖剣の柄が、汗と血で滑りかける。
それでも、膝は折らない。
「まだだ。サビ前で倒れる主役があるか」
僧侶の祈りが高く伸びる。
「傷よ閉じよ。痛みよ眠れ♪
されど歌は、まだ眠るな!」
白い光が勇者の肩を包んだ。
一拍目で血が止まり、二拍目で裂けた肉が寄り、三拍目で痛みだけが奥へ沈む。
ああ ああ ああ!
僧侶の声が、勇者の途切れた旋律を一拍だけ預かる。
勇者はその声に、自分の息を戻した。
完全には戻らない。
腕は重いまま、剣も少し鈍る。
そこへ黒炎が来た。
ゴォォッ!
熱が歌の上へ覆いかぶさる。
魔法使いがすかさず風を走らせた。
ヒュオッ!
炎の唸りが広がり、黒炎の位置が音で見える。
戦士が前へ出る。
大盾を斜めに構え、床を踏み鳴らした。
ずん!
「三拍目で入れ。俺が受ける」
黒炎が盾にぶつかった。
ごおん!
盾がへこむ。
戦士の腕が震え、石床に靴底がめり込み、歯の隙間から低いうなりが漏れた。
それでも、三拍目は崩れない。
かん かん どん!
勇者はその拍に乗って横へ抜ける。
魔王の爪が、勇者の髪を数本だけさらった。
魔法使いの炎が床を走る。
ボッ!
赤い光が、魔王の翼の影を石床へ映した。
「影が伸びます。右、来ます」
勇者は影を見た。
魔王の体より先に、床の影が動く。爪が来る方向が、光の縁に浮かび上がる。
勇者は半歩だけ沈んだ。
黒い爪が頭上を裂く。
ガキィン!
かわした聖剣が、爪の側面を叩く。
魔法使いが指を弾いた。
パチン!
「灯りよ回れ、影よ答えよ♪
夜の爪先、床に描け!」
白い光が半歩ずれた。
魔王の影だけが床に残り、爪はまだ見えない。
けれど影は、勇者の右肩へ伸びていた。
勇者は歌う。
「見えぬ爪なら、影を斬る♪
夜の下にも、朝はある!」
聖剣が影の線をなぞり、魔王の爪を弾く。
ガキィン!
「ならば、夜を深くしよう」
魔王の笑みが深くなる。
黒い霧が床を這った。
魔法使いの光が飲まれ、赤い月も、白いスポットライトも、魔法陣の脈も、闇の底へ沈んでいく。
視界が消えた。
残るのは音だけ。
ずん ずん ちゃ!
ずん ずん ちゃ!
勇者は魔王を見失った。
汗が顎を伝う。聖剣を握る指に力が入りすぎて、爪が手袋の内側に食い込む。
闇の中では、剣の光さえ頼りない。
魔法使いが杖を床へ立てる。
トン。
「風よ、声だけを残せ。水よ、嘘の音を沈めろ」
ヒュオオッ!
風が霧の中を通る。
水の薄い膜が床を走り、余計な反響を吸い込んだ。
ぱしゃん。
沈黙の底で、魔王の低音だけが残る。
「我はここだ、勇者♪
闇の底で、貴様の朝を待つ」
勇者は目を閉じた。
僧侶の高音。
戦士の盾。
魔法使いの風。
魔王軍の足踏み。
そして、魔王の歌。
見えないなら、聞けばいい。
剣で探れないなら、拍で読めばいい。
そう思った瞬間、喉が止まった。
声を出せば、居場所が割れる。
歌えば、魔王の爪は一直線に来る。
ここで黙れば、少しだけ長く生きられる。
一拍だけ、勇者は黙った。
ずん ずん ……
三拍目が来ない。
僧侶の高音が揺れ、戦士の盾が迷い、魔王軍の足踏みまで床の上で止まりかけた。
黙れば、生き延びる。
だが、黙れば、この旅がまた無音に戻る。
勇者は息を吸った。
ずん ずん ちゃ!
二拍目の奥で、魔王の声が沈む。
三拍目の直前に、爪が空気を裂く。
そこだ。
勇者は一歩、踏み込んだ。
「ならば聞け、魔王。
俺の剣は、まだ一音も折れていない!」
聖剣が霧を裂く。
ジャキィン!
魔王の爪とぶつかる。
ガキィン!
霧が割れた。
白い光が戻る。魔王の黄金の瞳が、勇者を真正面から見ていた。
「やるな、勇者」
「そっちこそ、いい低音だ」
勇者も血の味を飲み込み、笑う。
魔王が玉座を爪で叩いた。ごん!
戦士が盾を返す。かん!
骸骨兵が肋骨を鳴らす。からん!
魔法使いが炎を床に落とす。ぼん!
僧侶の祈りが高く伸びる。ああ ああ ああ!
勇者は聖剣の柄で、戦士の砕けかけた盾を叩いた。
かん かん どん!
魔王軍と勇者軍の音が混ざる。
敵味方が手を取り合ったわけではない。
刃はまだ向き合い、爪はまだ勇者の喉を狙い、聖剣はまだ魔王の胸を目指している。
それでも音だけは、同じサビへ向かっていた。
魔王が黒い翼を最大まで広げる。
赤い月が真っ黒に染まり、床の魔法陣が割れ、死者の声が魔王の背後に重なった。
魔王が歌う。
「我が玉座を無音で越えるな♪
我が夜を、足音だけで終わらせるな♪
声で来い、剣で来い。
この世界に、安い夜明けは要らぬ!」
黒い炎が、巨大な刃になって勇者へ落ちる。
ゴォォォォッ!
避けられない。
戦士が前に出た。
「鉄よ鳴れ。腕よ残れ。
盾の命は、ここで使う!」
黒炎が盾を噛んだ。
ごおおん!
盾が砕ける。
バキィン!
鉄の破片が散る。
戦士の膝が折れかけるのを、僧侶の祈りが背から支え、魔法使いの光が黒炎の輪郭を照らした。
魔法使いの風が、砕けた盾の音まで拾って広げる。
しゃん しゃん しゃん!
破片の音が、サビ前の鈴になる。
勇者は、その隙間を見た。
盾は砕けた。祈りは揺れた。光は細い。
それでも、道はある。
勇者の喉に、最初の口BGMが戻ってきた。
あの気まずい玉座で、無理やり鳴らした一音。美しくもなく、強くもなかった、逃げないための声。
「オー……オオオー……!」
今度は、ひとりではなかった。
僧侶が高く重ね、戦士が折れた盾で拍を打つ。
魔法使いが風で声を通し、炎で火花を足し、水で高音を澄ませる。
魔王軍の足踏みまで、同じ拍に戻ってきた。
「オー……オオオー……!」
ずん ずん ちゃ!
「オー……オオオー……!」
ずん ずん ちゃ!
最初の歌が戻ってきた。
だが、声が違う。
今度の勇者の歌には、血の味があった。砕けた盾の音があり、祈りの震えがあり、光の細い道があった。
勇者が歌う。
「誰も鳴らさぬなら、俺が鳴らす♪
泥の足跡、血の夜明け!」
一歩。ずん!
「ここまで来た名もなき旅を!」
二歩。ずん!
「無音のままでは終わらせない!」
三拍目。ちゃ!
聖剣が白く燃える。
ジャキーン!
勇者は魔王の黒炎を真正面から斬った。
熱が腕を焼き、血が喉の奥まで上がる。
それでも踏み込む。
「来い、勇者。
最後の一音で、我を越えろ!」
魔王が笑った。
全員の音が最大になる。
ずん ずん ちゃ!
ずん ずん ちゃ!
「オー……オオオー……!」
ずん ずん ちゃ!
炎が鳴る。ゴォッ!
水が澄む。ぱしゃん!
風が声を運ぶ。ヒュオッ!
勇者と魔王がぶつかる。
ガキィン!
聖剣が魔王の爪を弾く。
魔王の翼が勇者の脇腹を裂く。
ザシュッ!
勇者は血を吐きながら、さらに一歩踏み込む。
聖剣が、魔王の角の片方を斬り落とした。
ザンッ!
角が床に落ちる。
ちん。
大音量が、そこで止まった。
勇者は膝をつきかけた。
魔王は片方短くなった角に手を当てる。
床には黒い光の欠片が散り、砕けた盾の縁がまだ小さく震えていた。
誰も歌わない。
魔王軍も踏まない。
僧侶も高音を止める。
魔法使いのスポットライトだけが、勇者と魔王の間に細く落ちている。
無音だった。
だが、もう気まずくはなかった。
「よい音だ」
魔王が低く笑う。
「だろうな。命を賭けた」
勇者は息を切らしながら、血のついた歯を見せた。
魔王は翼を畳まなかった。
もう一度、玉座を爪で叩く。
ごん。
「二幕へ行くぞ、勇者」
「望むところだ、魔王。だが次は転調からだ」
勇者は血まみれで笑った。
魔王軍の足が、もう一度床を踏む。
ずん ずん ちゃ!
世界はまだ救われていない。
けれど玉座の間には、次の拍が鳴っていた。




