11.凍える爪と、八番目の草
「見てください道成さん! 長靴を吸い込むような重い泥の抵抗、そして鼻腔を突くセリの野生的な芳香……。ここには間違いなく、品種改良の波に飲まれていない『原初的な春の七草』が息づいています!」
井戸つむぎは、長靴が泥に沈むのも構わず、凍てつく湿地帯の真ん中で歓喜の声を上げた。彼女の手には、すでに寒さで指先が紫に変色しかけているにもかかわらず、いつものフィールドノートが握りしめられている。
「つむぎ……もう帰ろうよ。一月の湿地帯なんて、ただの冷凍庫だよ。それに、さっきから背後で誰かに見られているような気がして……」
九条道成は、厚手のダウンジャケットを三枚重ねたような着膨れ姿で、ガタガタと震えていた。吐き出す息は白さを通り越して霧のように視界を遮り、吸い込むたびに鼻の奥が凍りつくような痛みが走る。彼らが訪れているのは、長野県の山奥にある「七草村」
一月七日の朝に、村人総出で一斗釜の粥を食べるという、古式ゆかしい伝統を維持している集落だ。
「当たり前じゃないですか。この村において、七草の採集は『神聖な盗み』なんです。見守られているのではなく、私たちが『選ばれた採集者』として神に見極められているんですよ。これぞまさにフォークロアの極致! 共同体の秘密を共有する背徳感! ああ、脳漿が沸騰しそうなほど官能的な設定です!」
つむぎはノートに「神聖な窃盗としての植物採集」と猛烈な勢いで書き込んだ。
村の集会所へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
「……遅かったな。採集の時間はもう始まっている」
村の若き『七草守』、芹沢蓮が、タブレット端末を片手に冷たく言い放った。彼の指先は、不自然に鋭く、そして長く伸びていた。最新式のタブレットを操作する指先が、野草の汁で赤黒く染まった獣の鉤爪のようであるという、この文明のねじれ!
「芹沢さん、その爪……」
道成が引き気味に尋ねる。
「七草村の鉄則だ。春の七草は神の依代. 鉄の刃物を近づければ、その霊力は霧散する。だから、採集から下処理に至るまで、すべてこの『生身の爪』で行う。……デジタル管理はしているが、最後は肉体労働なんだよ」
芹沢の爪には、野草の汁で黒ずんだ「勝利の勲章」が刻まれている。つむぎはその指先を食い入るように見つめ、思わず自分の爪を確認した。
「素晴らしい……! デバイスによる効率化と、身体的な禁忌の同居。これこそが二十一世紀の民俗学の最前線です!」
「つむぎ、感心してる場合じゃないよ。ほら、あのお婆さんを見て……」
道成が指差す先には、村の最高権威、七草婆が鎮座していた。彼女は巨大な木製のまな板の前に座り、包丁ではなく「木製のへら」を手に、無言で何かを叩いていた。乾いた木質の打撃音が、建物全体を震わせる低音となって道成の胃を揺さぶる。それは単なる調理音ではなく、土地の霊を呼び覚ます呪文のようだった。
トントコトン、トントコトン……。
規則正しい、しかしどこか不安を煽るようなリズムが、暖房のない集会所に響き渡る。
「……いない。どこにも、いないんだ」
突如、集会所の奥から、採集責任者の老人がふらふらと姿を現した。彼の顔は紙のように白く、手には一束の、見たこともないどす黒い葉を握りしめていた。
「どうしたんですか、長老?」
芹沢が駆け寄る。
「七種の他に……数えきれないほどの『八番目の草』が紛れ込んでいる。セリでもナズナでも、ゴギョウでもハコベラでもない……。これは、神様が食べろと言っている草じゃない。死んだ者が、連れて行こうとしている草だ」
老人はその草を床にぶちまけると、そのまま闇の中に消えるように失踪してしまった。
「八番目の草……」 つむぎはその「異物」を拾い上げようとした。
「民俗学的に、七という聖なる数に一つ足された『八』は、秩序の崩壊を意味します。つまり、この村の無病息災という物語が、何者かによって書き換えられようとしている……!」
「そんなことよりつむぎ、大変だよ!」
道成が悲鳴を上げた。 彼が長老を助けようとしてよろめいた拍子に、棚に並んでいた村の全財産――「一年分の乾燥七草」の瓶をすべて床にぶちまけてしまったのだ。
「あああ! 混ざっちゃった! どれがナズナで、どれが八番目の草か、もう全然分からないよ!」
派手な音を立てて瓶が砕け散り、何十種類もの乾燥葉が、まるで悪意ある砂嵐のように舞い上がり、一瞬で床を判別不能な緑の海に変えてしまった。
床には、数千、数万という細かな葉の断片が、カオスを形成していた。
「……何ということを」
七草婆の叩くリズムが止まった。 彼女の鋭い眼光が、道成を貫く。
「あと十二時間。日の出までに、消失した最高級の『神のセリ』を見つけ出し、さらにこの混ざりきった草の中から『八番目の草』をすべて取り除かなければ……明日、粥を食べた者は全員、腹の中から根が生えて死ぬことになるだろう」
「腹から根が!? 胃薬じゃダメですか!?」
道成が絶叫する。
「芹沢、お堂の鍵を確認しろ」
「……婆様、お堂の鍵は開けられた形跡がありません。ですが、中のセリだけが、跡形もなく消えています」
鉄の禁止、無言の行、そこで叩き台の音。 幾重にも張り巡らされた禁忌の中で、密室から「セリ」が消え、正体不明の「八番目の草」が村を浸食し始めていた。
「道成さん、泣いている暇はありませんよ」
つむぎはノートに、これまでで最も不謹慎な笑顔で一文を書き添えた。
『事件発生:七草村における植物テロ、あるいは神による選別。……最高に面白いフィールドワークになりそうです!』




