畑焼く、海
伊魚が言った。もうやめようと。これきりで私の祈りを最後にしようと。祈りなんかじゃない。これはあの人に会うためにただ一つ残された儀式。
◇
山と山に囲まれた静かな町で、同じ日に男女の子どもが産まれた。古蒔伊魚と私だ。
私たちはそんな偶然を特に気にすることなく普通の同級生として接してきた。
いや、正直に言うと私は伊魚のことを少しだけ避けて生きてきた。
誠実で純朴な性格。清潔感があって誰からも好かれそうな外見。ちょっと幼い笑顔。勉強も運動も難なくこなす。
そして極めつけに実家はこの町で一番の大豪農だ。
母ひとり娘ひとりで細々と書店を営んでいる私とは違いすぎて、眩しすぎるのだ。
「いやただ畑がでかいだけの農家だから」
そんな決まり文句を聞くたびに、私は伊魚のことをうらやましいと思う反面、かわいそうだなと思っていた。
だって伊魚は一生この町で生きていかなくてはならないだろうから。
どんなに性格や見た目がよくても伊魚は将来畑を継いでこの町一番の立派な大人になってお嫁さんをもらって。
私がそういう未来を幸せに思える人間だったらよかったのに。そう思ったのは中学卒業の日に伊魚に付き合ってほしいと言われた時だった。
私たちの町では少子化のため小中学校が合同校舎で、高校からは町にある分校か、山向こうの高校に通うようになる。
私はこの町の分校、伊魚は山向こうの高校へと進学が決まり、これから私と会う機会が減るのが嫌だと思ったのだそうだ。
でもそれって私のことが好きってことなのかな。
環境が変わるのがさみしいだけじゃない?
私は逡巡して、「きっと高校にはもっといい子がいるよ」と断った。
伊魚は目を丸くして分かりやすくたじろいでみせた。きっと、いや絶対に断られると思っていなかったのだろう。
伊魚は下手くそに笑いながら「気が変わったらすぐに教えて」と言った。
気が変わることがあるだろうか。私は伊魚のことが嫌いではないけれど、そんなに好きじゃない。
◇
私には夢がある。写真家になることだ。
母が営む書店には私の手作りの写真集コーナーがある。
亡くなった父から譲り受けたカメラで色々な風景を撮って、写真集を出して、個展を開くところまで夢見てしまっている。
もうこの町の景色は撮り尽くした。雲がかかる峰々、雨粒で輝く田畑。それらが嫌いではないのだけれど、違う景色も撮りたいと思うのはわがままだろうか。
幼なじみのえり子はそれを聞いてクスクスと笑った。
「なにそれ、乙女じゃん」
「どういうこと?」
「嫌いじゃないけどなんか違うんだよなあって。伊魚くんにもそう思った?」
「そんなんじゃ、」
言葉に詰まる私を見て、えり子は缶のサイダーに口をつけてから言う。
「私は伊魚くんのことが好きだった」
「えり子」
「知ってたんでしょ?」
うつむく私に向かってえり子は続ける。
「でもあんたが伊魚くんのこといらないなら私もいいやってなった」
「なにそれ」
「自分でも不思議なの、ちゃんと好きだったはずなのに。でも伊魚くんのこと好きにならない人がいるんだって思ったら、私も伊魚くんじゃなくてもいいのかもと思ったの」
おかしいでしょとえり子は自嘲していたけれど、私はなんとなくその気持が分かってしまった。
きっと古蒔伊魚という存在をみんなで偶像化していた。そのまやかしが解けようとしているのだ。
だったら本当の古蒔伊魚には何が残って誰が寄り添うのだろう。えり子はもうそこまで興味はなさそうにぬるくなったサイダーを飲み干していた。
◇
えり子とそんな話をした数日後。店番をしていた私の前に伊魚が現れた。
お付き合いを断ってからは会っていなかった。互いに進学の準備で忙しくしていたのもあるけれど、気まずさがあるのは確かだ。
ちょうど店を閉める時間を狙って来たのだからなにか話があるのだろう。私はなにを聞くでもなくシャッターを降ろし、そのまま店の締め作業に入った。
店に来ると伊魚はいつも勝手知ったるなんとやらでカウンターの内側の椅子に座って本やら雑誌やらを読む。でも今回は黙ったまま私の作業を見つめていた。
「もう少しかかるよ。どうかしたの」
用件を促すと伊魚は言いづらそうにもごもごしてから口を開いた。
「あのさ、」
「うん」
「俺……えり子に告白された」
ジリッと蛍光灯に虫が当たる音が響く。私はしばらくその言葉の理解に苦しみ、やっと口を開けたと思ったら「えり子に?」としか返せなかった。
「うん。それで、俺はお前のことが……でも、えり子はそれでもいいからって」
「えり子と付き合うってこと?」
「いや! そうじゃなくて――はは、俺なにがしたいんだろうな」
ごめん、と言い残して伊魚は去っていった。
どこか暗い伊魚の背中を見送った私は、えり子との会話を思い出していた。
『私は伊魚くんのことが好きだった』
嫌だな。友達を疑うなんて。
ああ早く、どこか遠くへ行ってしまいたい。狭くて煩わしいこの町を出て、誰も知らない場所へ。
早く、早く。もう日が暮れかけている。
◇
「嫌だよもう暗いし。次に伊魚が店にきたときでいいでしょ?」
「でも鍵束だよ? 伊魚くん困ってるに決まってるじゃない。届けてやりな」
「もー」
そう母から手渡されたのは伊魚のキーケースだ。店先に落ちていたらしい。
大人たちは伊魚のことを優等生だ完璧だともてはやすけれど、私たち同級生から見たらこういう抜けているところもあったりする。
ギャップにときめく子もいるかもしれないが伊魚のことを知れば知るほど本人の末っ子気質も相まって残念なのが悲しい。
小学校の体験学習で作った革のキーケースには、当時はやっていたキャラクターが刻印されている。
ちなみに私も同じキーケースを作って同じ刻印を選んだので伊魚におそろいかよなんて言われた記憶があるが、その場のほとんどの子がおそろいだったことはつっこまなかった。
でもあのとき違う刻印を選んだえり子はもしかしたらうらやましかったのかもしれない。
えり子はずっと伊魚のことを目で追っていた。
そのことには気づいていたし、なんなら同級生の女子はみんな伊魚を異性として見ていたように思う。
えり子が伊魚に告白するのだって別におかしくない。事前に私とどんな会話をしていようが、えり子の自由だし、それに応えるかどうかは伊魚の自由なのだ。
わざわざ私に知らせなくてもどうぞご自由にと思っているはずなのに、心にズシンとくるのはなぜなのだろう。
キーケースをポケットに突っ込み重い足取りで古蒔家に向かう。日はとっくに暮れていて、見知った道も少し不気味に感じる。
私はお守りのように首から下げたカメラを両手でぎゅっと包みこんだ。
おばけは強い光を嫌うと聞いてから、夜の外出にはなんとなくカメラを持ち歩くようにしている。いざという時はフラッシュを焚いて安心というわけだ。
といってもうちと古蒔家は小川を挟んですぐに位置しているのでいざという時なんて来ないのだけど。
十歩で渡りきれる橋を越えるとそこはもう古蒔の敷地になる。古蒔の持つ広大な畑はもう少し離れた場所にあって、ここには住居用のお屋敷と裏庭がある。
子どもの頃は立派なお屋敷とうちの店を比べてしょんぼりしたこともあったが、この町のどの家も古蒔家に比べたらどんぐりの背比べだ。
「すみませーん、伊魚くんにお届けものです」
声を上げて無駄に大きい門を叩く。いくらご近所さんとはいえ勝手にお屋敷に入ることは許されない。他の家なら縁側から顔を出したりもするが、ここはだめだ。
昔、伊魚を遊びに誘おうと勝手に裏庭に入って伊魚の母親にめちゃくちゃに叱られたことがあるのだ。まあ要はこの家が苦手ってことなのだけれど。
カンカンと門を叩く。カンカン、ガンガン。しかしいくら叩いても反応がない。よく見ると玄関灯も消えている。
留守かと落胆しつつ、裏庭に誰かいないかだけ確認することにする。門を経由しなくても裏庭を覗けることは子どもの私が実証している。
「伊魚くんいますかー」
呼びかけながら裏庭に顔を出すと、月明かりに照らされながら地面にうずくまる人影があった。
伊魚、じゃない。私は一瞬どきりとして体を引っ込めようとしたが時すでに遅し。その人物はゆっくりと顔を上げて私のことを視認した。
「――伊魚はいないよ」
「あ、」
その人は伊魚によく似た男性だった。
顔の造形はほぼ伊魚と同じだが、月光に映る髪や肌は色素が薄く、浴衣から覗く手足は枝のように細い。
古蒔伊魚の持つ属性を反転させたような彼の姿を見て、私は無意識にその名を口にしていた。
「伊里、くん」
古蒔伊里。伊魚の三つ年上の兄だ。
その姿を見るのがあまりにも久しくて、私はパチパチと何度もまばたきをしてしまった。対する伊里くんも、突然現れた私に首を傾げている。
「伊魚のお嫁さんだ。どうしたの?」
「え? お、お嫁さんじゃないよ。久しぶりだね伊里くん」
「伊魚に会いに来たの? こんな夜に。やらしー」
「ちがうからね! 伊魚がこれ落としていったの! 渡しておいてくれる?」
これ以上妙な誤解を生む前に伊里くんにキーケースを手渡す。伊里くんは分かったと言いながらそれを屋敷の方にぶん投げてしまった。
相変わらずというか、変な人。
でも私は伊里くんのそういうところが昔から嫌いじゃない。
♢
古蒔伊里は生まれながらに足が悪く、家に引きこもりがちだということは町の誰もが知っていて、誰も触れないことだ。
小学校には通っていて当時は私も一緒に通学していたりしていたけれど、最近はめったに姿を見なくなっていた。
外に出るのに杖が必要なのが億劫なだけだと伊魚が言っていたからあまり心配はしていなかったのだけれど。
「伊里くん……ちゃんとご飯食べてるの?」
そのあまりにも細い体につい口を出してしまった。
伊里くんはぼんやりとした目で私を見て、それからにこりと笑って見せる。
「だいじょうぶ。というか、伊魚のお嫁さんになるからって俺にまで気を使わなくてもいいよ」
伊里くんはそう言ってからかうような目線を送ってくる。
「伊魚のお嫁さんにはならないよ」
とりあえず気になる部分を訂正すると、伊里くんはなぜかキョトンとしていた。
「伊魚のこと好きじゃないの?」
「うーん。嫌いじゃないけど好きでもないかな」
「え、じゃあ伊魚と結婚しないの?」
「しないよ」
どうしてそう思ったのと訊ねると、伊里くんはキョトン顔から徐々に破顔し、しまいには手を叩いて転げ始めた。
「えー!! 伊魚ってばかわいそう! ギャハハハ」
「え? なに? 怖い」
伊里くんってこんな人だっただろうか。こんな人だったかもしれない。
伊里くんはひとしきり笑った後、杖を手に立ち上がった。
「いま時間ある?」
「まあ、多少は」
「ちょっと向こうの畑に行きたいんだ。手を貸してくれる?」
こんな時間から畑に? そんな疑問を飲み込んだのを察したのか、伊里くんは少しだけだからと言葉を足した。
古蒔の畑へ行くにはあぜ道を歩く。伊里くんの足ではひとりだと時間がかかるのは明白だ。
ひとりで行かせるよりはと渋々うなずくと、伊里くんはさも当たり前のように私の肩に片手を乗せてゆっくりと歩き始めた。
◇
「伊魚のお嫁さんにならないなら俺のお嫁さんになる?」
「もう、からかわないで」
畑へのあぜ道を二人で歩く。街灯なんてほとんどない農耕路を、月明かりを頼りにに進む。
「そりゃ嫌か。こんな役立たずの穀潰し」
「そんなこと言ってないよ!」
「みんな言ってる」
「そんなの、誰が」
「みんなだよ、みーんな」
長男なのに足が悪くて畑を継げない。捻くれ者の除け者。伊魚はあんなにいい子なのに。
伊里くんの口からそんな自虐的な言葉が次々と飛び出してきて、私はぐっと押し黙る。
もしかしたら本当に言われているのかもしれないと、思ってしまった自分にも腹がたった。
「でもそんな俺にもついに! 家の役に立てる時が来たのです」
「え?」
そのままカラリとした声色で伊里くんは続ける。
「俺、知らないジジイの養子になるんだって」
「……は?」
「もう決まったことなんだって。山越えてもっと向こうの金持ちジジイ。今もうちの親、そのジジイに呼ばれて話進めてる。伊魚も買い物があるとかでついて行ったよ。だから今日は俺ひとり」
「え、ええ?」
突然の話に頭がついていかない。知らない人の養子になる? じゃあ伊里くんはこの町から出ていく? そう聞くと伊里くんはそうなるねと答えた。
「でも」
不意に伊里くんの声のトーンが翳る。伊里くんは私の肩から手をどけて立ち止まった。私もそれに続いて足を止める。
月明かりがちょうど逆光になって伊里くんの表情は分からない。
「そのジジイに会った時、俺のことをすごい目で見てた」
「すごい目?」
「伊魚がお前を見る目」
その言葉にガンッと頭と胸を同時に殴られたような衝撃が走る。
頭が理解を拒み、ぐにゃりと視界が歪んで体が傾いて、杖をついている伊里くんに支えられてしまった。
「あ、い、伊魚はそんな目で私を見ない……っ!」
「でも理解できたでしょ」
そういうことだよと言われても分からない、分かりたくない。
「家のやつらは厄介払いできてよかっただろうね」
「なんでそんなこと、古蒔の家はあんなに大きくて、伊里くんひとりくらい」
「うーん。親父は妙に先見の明があるからなァ」
伊里くんに手を引かれ、よろよろと歩を進める。一瞬、この町から出られることをうらやましいと思ったのに。
「どこに連れて行かれるか知らないけど、海とか見られるかな」
「海……見に行きたいの?」
「うん。山もいいけど、俺は海が好きだよ。俺はこの町から出たことないからさ。あ、川泳いでいったら海に着くかな」
「そう、かもね」
たとえ海を見ることができても伊里くんはきっと不幸になる。私は伊里くんの目を見て、必死に言葉を絞り出した。
「伊里くん。私もこの町から出たいの。この町じゃない色々な場所の写真を撮りに行きたいの。だから大人になったらきっとこの町を出て伊里くんに海を見せてあげる」
それは私にできる最大の決意表明だった。
一瞬間を置いて返ってきたのはギャハハという笑い声と「期待せずに待ってる」のひと言だけだったけれど。
♢
畑に着くと月明かりの下に見渡す限りの緑色が広がっていた。さわさわと風に揺れる小さな葉がまるでさざめく水面のようで、まるで。
「すごい。う」「海みたいとか言うなよ」「言いません……」
伊里くんは絨毯のように生い茂る緑の葉を慣れた手つきで数枚採り、それらを月に透かした。
一体何をしているのだろうとそばに寄って伊里くんの手元に目をやると、月の光を受けた葉脈と呼ばれる部分がまるで血のように赤く浮かび上がって見えるではないか。
「月の下でこうやって品質を確認する。葉脈が赤ければ赤いほどいい」
「へえ」
そういう品種の葉っぱもあるのかと納得していると、伊里くんは畑の脇にある岩に腰掛けて、懐から何かを取り出した。
綴りになった紙束とマッチ箱に見える。伊里くんは紙を一枚取り、それでくるくると器用に葉を巻く。
そして徐にマッチを擦り、火を付ける。そして巻タバコのようにしてそれを吸い始めた。
「ちょっと伊里くん。それタバコだよね、いけないんだ」
「タバコじゃないよ。うちの畑でなに作ってるか知ってる?」
「うん。漢方の原料でしょ? そうやってタバコにもなるのは知らなかったけど」
伊里くんはゆっくりと煙を吐いて、「まあ子どもにはそう言うか」と呟く。
「え……ちがうの?」
私の問いに伊里くんは再びそれを吸っては吐く。するとしだいに伊里くんの目がとろんとしてきて、どこか落ち着いたような、あるいは虚を見るようなその瞳をこちらに向けた。
私はそれを見てぎくりとする。伊里くんの雰囲気が、まるで別人のように感じたからだ。
「ありがと」
伊里くんは笑顔の消えた表情でじっと私を見つめて言う。
「伊里く、」
「伊魚のこと好きにならないでくれて、ありがとう」
「伊里くん。ねえ、それなに?」
聞きたくないのに、聞かなければならない。だってずっと、漢方の原料だって聞かされていた。母にも、伊魚にも、町の大人たちにも。
「あいつの最大の不幸を俺に見せてくれて」
「伊里くん!!」
それを口に運ぶ手を無理やり止める。伊里くんは虚ろな目をしてされるがままだ。
「答えて。これはなに。この畑でなにが作られているの。この葉っぱは一体」
「”螟蝨闃ア”」
伊里くんが発した聞いた事のない音に脳が追いつかない。
「な、なんて? 螟……?」
「”螟蝨、闃ア”」
「螟ゥ蝨闃ア」
「はは。上手」
止めても止めても伊里くんはそれを吸う。私は怖くなって伊里くんに縋り付いた。
「伊里くん、おかしいよ。それ吸っちゃだめなやつでしょ、やめて。やめようよ!」
「はいはい。必死になっちゃってかわいいね」
伊里くんは笑いながらまるで犬とでも遊ぶように手で適当に私のことをあしらう。
それでも諦めずに止めようとする私を見て、伊里くんは少し考える素振りを見せてから私の顎を片手で掴み、私の口に自分の口を押し当てて、煙を流し込んだ。
「う゛!?」
これってキスだなんて考える余裕はなかった。
煙が体内に流れ込んで、痺れる芳香が体に巡ったその瞬間、私の視界は暗転する。
気づくと私は意識だけがふわふわ浮いている状態で、なぜか古蒔家の座敷にいた。
『跡目の長男がまともに歩けないなんて』『治療もまるで効かないじゃないか』『なんとしても畑は守らないと』『もうあの子は諦めて伊魚に継がせましょう』『もう諦めて』『あの子はもう』『伊里はもう諦めましょう』
耳を覆いたくなる言葉に私は涙していた。あまりにも惨い伊里くんの扱いに、声が出ない。
これは夢? いや違う、これはきっと現実に起こったこと。私にはいま聞こえないはずの声が聞こえている。
ボロボロ泣いているうちに意識がすーっと畑に戻ってくる。目を開けると岩を背にした状態で伊里くんに抱きしめられていた。
「う、うぅ」
「ごめん、泣かないで。驚かせたね」
ポンポンと宥められるように頭に手が乗る。涙が止まらない。
こんなに私が泣いても伊里くんは救われない。今までも、これからも。
「伊里くん……私、平気。だから、もっと」
伊里くんの襟元をぎゅっと握ってそう言うと、伊里くんは驚いた顔をして再び私の口を塞ぐ。
痛くて、痺れて、どうしようもないほど泣きたくなる味がした。
「ごめん」
「謝らないで、私が欲しがったの」
「じゃあありがとう」
「……こんなに嫌なありがとうは初めて」
自分でやりたいと言っても伊里くんはさせてくれなかった。かわりに、私が欲しがるたびに自ら口に含んで与えてくれた。
伊里くんから流れ込んでくる芳香を呑み込むたびに、様々な声が聞こえてきた。醜い陰口、隠された本性、人間の加虐性。そういったものが顕になる。
そして私はこの葉っぱが必要とされる理由を理解した。
「この葉の使い方、伊魚に教えてやってよ。いつかこの畑はあいつのものになるんだ。知っておかないと」
「伊里くんが教えてあげれば?」
「――もう何年も喋ってない。俺は家ではいないものだから」
「そんな……」
「いいんだ。自分でそう振る舞ってる。だからあいつを責めないでやって。あいつはお前をお嫁さんにする気満々だからさ」
そんなのずるいと思った。伊魚の不幸を望むようなことを言いながら、本当は兄であることをやめられない。
「茎から出る汁に引火すると爆発するから、必ず紙に巻いて葉の方から――」
「爆……そんなことある?」
「はは、爆発はウソ。でもそれくらい燃えやすいから」
伊里くんは綴りの紙とマッチ箱を私にそっと握らせて、帰ろうかと言った。
ふわふわした気分の中で、私は伊里くんと手を繋いで歩いた。伊里くんは最初戸惑っていたけれど、私が手を離さないと分かると「かわいそうな伊魚」と呟いてそのままにしてくれた。
「海に行こうよ、伊里くん。いつかきっと」
「どうせすぐ俺のこと忘れるくせに」
「忘れないよ。あ、じゃあ伊里くんの写真撮らせて。そうしたら絶対に忘れないよ」
「えー嫌だなあ」
嫌がる伊里くんを無理やりカメラに収める。肝心なフラッシュを忘れてしまって、もう一回と言ったけれどダメだった。
屋敷に伊里くんを送ってから、私も帰宅する。私はふわふわの気持ちのまま布団に入り、そして翌朝、川から伊里くんの死体が上がったと母から聞かされたのだった。
伊里くんの葬儀は家族内でしめやかに営まれた。せめてお線香だけでもと私は伊魚に頼んで古蒔の屋敷にお邪魔した。
仏壇に手を合わせながら、私はずっと伊里くんのことを考えていた。
あの夜私がなにかしていれば、あるいはなにかをしていなければ。伊里くんは死ななかったかもしれない。もしも私があの時……。
いまさらどうしようもない後悔が私を責め立てる。きっとこのもしもは一生消えることはないだろう。それでもいい気がしていた。
「伊里のためにありがとな」
伊魚はそう言って疲れた顔で笑った。
「伊魚」
「ん?」
「伊魚は伊里くんのこと、どう思ってた?」
私のその唐突な問いに伊魚は顔を強張らせる。そして肺の中の空気を全部出し切るようにしてから口を開いた。
「そうだな、俺は伊里にとても――嫌われていたと思う。子どもの頃はそうでもなかったけど、最近は話もしてなかった。それでも俺にとってはたったひとりの兄貴で……。こんなことになってほしかったわけじゃない」
伊魚はぽつりぽつりと語り、私の肩口に顔を埋めた。
だったら伊魚は伊里くんが養子に出されることは知っていた?
そのせいで伊里くんが不幸な目に遭うことも?
伊里くんが本当は自分のことよりも伊魚を想っていたことは?
――伊里くんが海を見たがっていたことは?
何も言わない私を伊魚はぎゅうっと抱きしめる。いつの間にか随分大きくなった体に包まれて、身じろぎひとつかなわない。
「今だけはそばにいてくれ……頼む」
耳元で囁く声は兄弟でよく似ていた。私は伊魚に抱きしめられながら、あの日確かに伊里くんの腕の中にいたことを思い出していた。
♢
「それでもあなたを認めることはできません」
古蒔の屋敷を後にする際、伊魚の母親に呼び止められた。彼女は私の最も苦手とする人物のひとりで、ことあるごとにこうして私に釘を刺してくる。
「伊魚のことは諦めなさいと何度も言いました」
「諦めるもなにも……別にそういうのじゃないです」
「伊里がいなくなった今うちにはもう伊魚しかいないの。残念だけどあなたは古蒔の家にふさわしくないのよ」
言い方がいちいちカチンとくる。素直にうちの母親が気に入らないと言えばいいのに。伊里くんだって手放すつもりだったくせに。
「分かったらもううちには来ないでちょうだい」
彼女は一方的にそう言い捨ててパシンと戸を閉めた。
二度と来るかこんなところ。冷たい家だ。長男が亡くなったばかりなのに次男の心配ばかり。
伊魚のことは嫌いじゃないけれど、古蒔の家は大嫌い。
♢
いけないことだということは重々承知の上で、私は月の出る夜に古蒔家の畑に通うようになっていた。
伊里くんが死んでも時は流れる。高校生になった今も携えているカメラには、いつの間にか小さな傷が増えていた。
夜の散歩と言って家を出る。十歩で渡れる橋と暗いあぜ道を抜け、いつものように”螟蝨闃ア”の畑に辿り着いた。
伊里くんがあの日していたように葉を摘み、月光に透かし、赤い葉脈を確認してから岩に腰掛ける。
最近気付いて嬉しかったのが、岩の影に隠された空き缶の存在だ。伊里くんがくず入れに使っていたのだろう。折れたマッチがたくさん入っている。
私は葉を紙に巻いて、マッチを擦って火をつける。もうこの動作にもすっかり慣れてしまった。マッチを振ってから缶に捨て、私は大きくその芳香を吸い込んだ。
『誤って川に落ちてしまったのかしら』『あの足じゃあ泳げもせんだろうに』『いいところに養子に決まっていたのにねえ』『おかしくなって飛び込んだんだろう。昔から変わったやつだった』
聞こえてくるうわさ話。人の心の声。みんな分かっていない。伊里くんは海を見たかっただけなのだ。
「でも伊里くん、あの川は海に繋がってないんだよ」
町のみんなが伊里くんを理解できなかったように伊里くんも海が分からなかった。ただ、それだけ。
葉巻きを咥えて何度か息をすると、不意にうわさ話のターゲットが切り替わる。
『ホラ、あそこの家。大病院のボンボンに遊ばれて妊娠してすぐ捨てられた馬鹿な女の』『ああ、娘を産んですぐ純粋そうなカメラマン引っかけたっていう』『でもその男もすぐに死んじゃって。今度は古蒔の家に娘を嫁がせようとしてるんでしょう? 強かで恐ろしいわあ』『全くいつまでこの町に居座るつもりかしら。早く潰れればいいのに、あんな本屋』
「う、ぇ」
母と私に対するストレートな陰口に思わず吐きそうになる。
ガンガンと頭の中で警鐘が鳴った。葉の力で人の心の声が聞こえるようになる代償に、おぞましい雑言まで拾ってしまう。
こんなのただの自傷行為だ。それでも私はこれがやめられない。なぜならこれらの声に耐えて頭痛が通り過ぎる頃、あの日の伊里くんが姿を現してくれるからだ。
『帰ろうか』
ほらこうやって、ぐったりとする私に向けて手を差し出してくれる。
ふらつきながら伊里くんと手を繋いで家に帰る。このために、このためだけに私は畑に通い続ける。
コツンコツンと伊里くんが杖をつく音が心地いい。視界はずっとぼやけているけれど、伊里くんが導いてくれるから平気だ。
『親父は先見の明があるからなァ』
何度も何度も聞いた話を伊里くんはまた喋り出す。
『”螟蝨闃ア”は近々規制される。栽培も使用も、畑を持つことさえ許されなくなるかもしれない。だから要領のいい伊魚に畑を継がせて、どうにか活路を見出したいんだと思う』
「でもそれと伊里くんが養子に出されることは関係ない」
『うーんり親父は俺をこの家から逃そうとしてくれたんじゃないかな。家業がどうなるか分からないから』
「でも」
『だから伊魚を頼むよ。好きにならなくてもいいから。あいつはどこにも行けないんだ。俺の弟に生まれたばっかりに』
どこにも行けなかったのは、伊里くんも同じじゃない。
月が出る夜は伊里くんに会いに行く。話す内容が同じでも、頭痛と眩暈に苦しんでも構わない。伊里くんとの記憶を擦り切れるまで追体験する。
それでも、いつもこのあと死なないでって言えない。
言ったらもう二度と会えなくなるような気がして。
♢
月の写真が増えていく。それも似たような画角のものが何枚も。
畑からの帰り道、どうしても伊里くんの写真が撮りたくて毎回シャッターをきってしまう。
その時は上手く撮れたと思っているのに現像して月が浮くあぜ道しか写っていないのを見て虚しくなる。
もうやめようと思っているのに、毎回律儀に手を繋いでくれる伊里くんを見るとどうしてもやめられない。
雨の日や月が出ない日夜はただ一枚生きている伊里くんがいる写真を眺めてから眠る。光が足りなくて伊里くんの顔を半分は影になってしまっているけれど、私にはこれしかない。
たった一夜の出来事にすがってこれからも生きていくつもり?
私は私に問いかける。
こんなに執念じみた思いを向けられて伊里くんもあの世でさぞ困惑していることだろう。
しとしとと地を打つ雨音を聴きながら布団に潜り込む。明日は晴れますように。月が出ますように。
♢
伊里くんの一回忌が終わった。
岩に隠れてふうと煙を吐く。伊里くんから託されたマッチは底が見え始めていて、本当だったらこれは伊魚に渡さないといけないものなのにと思いながらもポケットにしまう。
「写真、撮らなきゃ」
大きく香りを吸い込みながら首から下げたカメラを撫でる。
最近どうも納得のいく写真が撮れない。月とあぜ道の写真ばかりが増えていくばかりだ。
私は焦っていた。というのも、学校の進路指導で言われたことが原因だ。
写真関係の仕事をしたいと前々から言っていた私に、写真部の顧問の先生から良い話が舞い込んだ。カメラを勉強しながら働けるアシスタント職を紹介してもらえたのだ。
先方は人手が足りておらず、卒業したらすぐにでもという話に私は歓喜した。しかしその職に就くにはいくつか条件があり、ひとつはこの町を出ることになること。
願ってもいない条件に喜んだが、問題は別の条件だった。
「ポートフォリオ……つくらなきゃいけないのに」
現状どんな写真を撮るのかをアピールするために、作品のポートフォリオを提出しなければならないのだ。それが採用試験の代わりなのだという。働きたい側としては断る理由もない。
ただここにきて大スランプに陥っている私にとっては高い壁だった。
この町の風景しか撮れない私が一体なにを出せばいいのだろう。
違う世界を撮るために写真家になりたいのに。
ようやく頭痛が襲いかかる。吸い始めた頃はすぐに頭が痛くなっていたのに、今は少し時間がかかるようになっていた。
この頭痛を超えて伊里くんに会うための葉の量が日に日に増えていく。
目を閉じて頭痛をやり過ごす。畑には緑の絨毯がかかり、そういえばこの葉っぱずっと生えてるな。多年草なのかななんて疑問が頭をよぎった。
そんなふうに完全に油断していたから、まさか畑で吸っているところを伊魚に見つかるなんて思ってもいなかった。
「誰かいるのか!?」
「わあっ!」
パッと懐中電灯を当てられ、私は飛び上がった。
とうとう見つかってしまった。しかも相手は伊魚。慌てて葉っぱを背中に隠す。さすがに私だと思わなかったのか伊魚も目を点にしている。
「……え?お前こんな夜になんでうちの畑に?」
そんな至極当然の問いかけに、私は観念してその場に正座をした。
「ごめん……その、静かな場所でひとりで考え事をしたくて」
「だからって女子ひとりでこんなところに……」
「ごめんなさい、最近スランプで煮詰まっててつい」
伊魚は私の持つカメラに目をやって、盛大にため息をついた。
「俺だったからよかったものの。うちの親だったらどうしてたんだよ」
「そのときはもう死んだフリでもしてなんとか……」
「あほ」
「伊魚はなんでここに?」
「俺は探しもの」
こんな夜に探しものなんてと思いつつも手伝うよと声をかける。
「なに探してるの?」
「キーケース。そういえばここは探してなかったと思って」
キーケース。心当たりがありすぎるが一応確認する。
「あのー、それってもしかして革のやつ? 去年にうちの店に落として行った」
「え! それだよ! もしかして店にあるのか?」
ぱっと顔を上げる伊魚にやっぱりなという気持ちと申し訳ない気持ちが混ぜこぜになって、私は伊魚から目を逸らして頬を掻く。
「ううん。届けに行ったけど伊魚がいなかったから伊里くんに渡したの。そしたら伊里くん、庭から屋敷の方にぶん投げちゃって……。だから多分屋敷にあると思う」
「あいつ」
「ごめん言い忘れてて」
「いや俺も忘れてて、さっきうたた寝してたら夢に出てきたんだよ。畑に行ったら見つかる夢。まさかと思って来てみたらこれだ」
「そうだったんだ」
正直伊魚とはまだ気まずい。それでもどちらかが悪いというわけではないのでなんとなく会話が進むのだから不思議だ。
「ここに来るのは伊里のため?」
不意に放たれたその言葉に私は息を詰まらせる。
「なんで? そう見える?」
「いや、なんとなくだけど」
二人で会ってたなら言ってくれればいいのに。なんて軽口を叩きながら伊魚は私の横に腰を下ろした。
「もしそうだとしたら伊里くんのためになにをしていると思うの?」
「え、うーん。祈ってるとか」
畑でコソコソしているこれのどこが祈っているように見えるのか不思議だ。
「俺もよく伊里のこと祈ってたから。伊里の足が動くようになりますようにって」
「はは」
だとしたらなんて残酷な話だろう。私は痛む頭をさりげなく抑える。
「ところでさ」
「うん」
「それなに隠してる?」と葉巻ごと体の後ろに隠した手を引かれる。
しまった、伊魚は目ざといんだった。
強い力に負けて腕が引きずり出される。そして私の手の中にあるそれを見て、伊魚は眉を顰めた。
「”螟蝨闃ア”?」
伊魚の口からその単語が出て、私は思わずどきりとする。
「うん。ごめん、数枚泥棒してる。大人に言いつける?」
「別に言わないけど……ほしいなら言ってくれればいくらでもやるのに。でもそれ漢方の原料だぞ。どうするんだよ」
そのままじゃ食えないからな? と怪訝そうに見てくる伊魚を見て、ああこれの使い方を本当に知らないんだなと思った。
伊里くんが私に頼んだのはきっと、伊魚は自力では正解に辿り着けないと判断したからだ。
「自分で使うの。こうやって」
ヂ、とマッチを擦って紙に当て、軽く振って火を消す。伊魚はそんな私のなんでもない動作を食い入るように見ていた。
「顔近づけるとと危ないよ」
「なにが」
「爆発するんだよ、この草」
「そんなわけないだろ」
「するって言ったよ伊里くんが」
「はあ? なんで伊里が」
「燃えやすいんだって」
ああ爆発は冗談だったっけ。私は夜空を仰ぎ見て大きく香を吸い込む。
『好きだ』
声が聞こえる。いつもの暗く濁った声ではなく、縋るような声だ。ぐらりと視界と体が揺れる。
『好きだよ』
この声を私はよく知っている。これは伊魚の声? それとも――
『好き』『好き』『好き』『好き』「おい、大丈夫か」『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』「おい!」
『海が好きだな』
「伊、里……く」
バッと私の手から葉巻が奪われた。その衝撃で我に返った私はぱちっと目を開ける。
目の前では伊魚が見たことのない表情をしていた。
信じがたいものを見るような、怯えているような。
そのまま私から奪い取った葉巻をぐしゃりと握り潰したかと思ったら、ハアハアと浅い呼吸を繰り返している。
「もう、これはやめろ」
「でも」
「これはダメだ!」
そんなに怒らなくてもいいのに。
伊里くんが隠れて吸っていたのはこうやって怒られるのが分かっていたからかもしれない。
伊魚は私を見ずに地面を見たままずっと拳を握っていた。ごめん伊里くん。伊魚に使い方を教えてやってと言われたのに、これじゃあ無理かも。
「伊魚、これほしくない?」
「いい、俺はいらない」
「あ、そう」
伊魚はいらないんだ。そう思うとどうしてか胸がもやもやとした。私は伊里くんにねだって教えてもらったのに。伊魚はいらないんだ。自分ちの畑で作っているのに。いつでも手に入るのに。
「もうここには来るな」
「ムキにならないでよ」
「俺は本気だぞ」
その言い草にむっとした。
自分の家の畑で作っているものがどういうものかも知らないくせに。頭ごなしにダメダメ言う伊魚にふつふつと反抗心が沸き上がる。
もう一枚を紙にくるんで火をつける。「あ、こら!」と伊魚に咎められるのと同時に、私は伊魚の顎をすくった。
「ん」
だって伊里くんに言われたんだから。伊魚に教えてやってって。伊里くんにそうされたように、私は伊魚の口に直接芳香を流し込んだ。
ざあっと風が葉を撫でる音が私たちを包み込む。伊魚は私の袖口をぎゅっと握って、されるがまま私を受け入れていた。唇を離して呆然とする伊魚に問う。
「本当にいらない?」
そう言って再び葉っぱを咥えると、伊魚ははっとした表情をしてカッと顔を赤くした。
「い、いらな……いや、いるけど。ソレはいらなくて」
「どっちなのそれ」
伊魚はなんともいえない表情をしてから、私にそっと身を寄せて触れるだけの口付けをする。
「なにか聞こえた?」
「なにかって?」
「え……。人の声、とか」
「おいやめろって」
その反応に私は目を丸くした。
もしかして伊魚には聞こえないのだろうか。この葉を吸うと嫌でも聞こえてくる、耳を覆いたくなる陰口も知りたくない心の声も。
ズドンと衝撃なのか落胆なのか分からない感情に殴られる。だとしたら、この行為にはなんの意味もないじゃないか。
「……もう終わり。帰って」
「はあ?」
納得のいかない様子で私の腕を引く伊魚。私は目を合わさず夜空を見る。
「――エリ子に告白されたって、あれ嘘でしょ?」
ビクリと視界の端で伊魚の肩が跳ねた。
「エリ子の好意を利用して、私を試したの?嫌なやつ」
「ごめん」
「許すから帰って」
それでも伊魚はまだ去ろうとしない。
「なァ俺はどうすればいい? どうすれば俺を好きになってくれる? なんでもするから、」
パキ、と手の中で使い終わったマッチ棒が折れた。私の中の暗い感情がジリジリと火種に変わってゆく。
「その感情の、ほんのひとかけらだけでも。伊里くんに向けられなかったの?」
「伊里? なんで、伊里……」
「帰らないなら先帰る」
ぐらぐら揺れる視界に吐き気を抑えながら、あぜ道を歩く。躓いて、転びそうになりながら、伊魚から離れたい一心で。
「伊里くん今日はどうしてきてくれないの」
問いかけても答えはなかった。伊里くんの言うとおりにしたのに。伊魚にあれの使い方を教えたのに。
「嫌、もう。嫌なの。伊里くん、どこ。伊里くん……っ」
私は伊里くんがいないとこの道をまともに歩くことさえできない。
♢
撮りたいものが分からない。考えれば考えるほどどつぼにはまってゆく。
とにかく撮らなくてはとカメラを向けても、指がシャッターをきってくれない。
周りの友だちは次々と進路を決めて、それに向けて勉強や準備を始めている。
しだいに睡眠時間も減り、顔色の悪さを指摘されることが増えた。
焦りでどうにかなってしまいそうになるたびに私は畑に救いを求めに行く。震えながら岩に隠れて葉巻きを吸う。誰にも見つからないよう深夜に畑に入ることもあった。
「もう来るなって言っただろ」
それでも伊魚は私を見つけてしまう。
もう何枚も吸った後だから、視界はぼんやりしている。もう少しで伊里くんに会えたのにと内心舌打ちをして、私は新たな葉を咥えた。
「自分だってほしいって言ったくせに」
「揚げ足取るな」
伊魚は静かに怒っている。顔に出さなくても声で分かる。いつもそうだ。なにがあってもこんなふうに他の子を怒ったりしないのに、私にだけしつこく怒る。
「進路のことそんなに悩んでるのか」
「なんで知ってるの」
「どうしてそんなによそに行きたいんだ。こんな現実逃避までして」
現実逃避。その四文字がカチンときて、同時にグサリと刺さる。抗議のつもりで伊魚をジロリと睨みつけると、伊魚は負けじと畳み掛けてくる。
「ひとりで知らない土地で勤めるのはまだ早くないか。お前のことが心配なんだ。特に最近は明らかにおかしい。な、進路考え直せよ。ここで俺と一緒にいよう。夢を追うのもいいけど急いで出ていくことない。それに――」
「写真ならどこでも撮れるだろ」
その言葉に、とうとう私の感情が爆発した。立ち上がってガッと伊魚に掴みかかる。
本当は引きずり倒してやりたかったのに、私の力ではびくともしなかった。
「なんで!? どうして私なの!! 女選びたい放題のあんたが! 私じゃなくてもいいでしょ!! 構わないでよ!!」
分からない。伊魚がなにを考えているのか。どうしてこんなに私に構うのか。なぜ放っておいてくれないのか。
こちらはこんなに苦労して伊魚の前から消えようとしているのに!!
「そんなの……そんなの決まってる。他なんて俺にはいらないんだよ! お前以外みんな一緒だ。みんな俺を放っておいてくれない。ずっと俺を見てる。好意があると見せかけてずっと俺のことを監視してる。でも、お前だけは。昔からお前だけは俺に興味がない。そうだろ? 俺がどこでなにをしていても誰とどんな話していてもお前だけは気にしない! だからお前のそばにいたい、お前がいないと息苦しい、辛い、しんどい、俺……は」
伊魚の語気がだんだんと弱々しくなっていく。そして意を決したようにその言葉を放った。
「い、伊里の代わりでも……いい」
バチンという鈍い音とともに、手に痺れる痛みが走る。
人を殴ったのはこれが初めてだった。頬を抑えて呆然とする伊魚と、手を振り抜いたまま動けない私の間に静寂の時が流れる。
「伊魚は私をどうしたいの」
絞り出した声は情けなく震えていた。伊魚は掠れた声で応える。
「どう……?」
それすらも分からないと言いたげな表情に、私の視界はじわり滲んでゆく。
「付き合いたいとか好きだとか言うけどさ。今だってあんなにあんたの親にぐちぐち言われてるのに付き合ったりしたらどうなると思ってるの? 守ってくれるの? 嫌われ者の私を。黙らせられるの? あのクソみたいな大人たちを。それとも私が我慢すればいいって? 伊魚にはふさわしくないとか。家に入るなとか。そんなこと言われてあんたとどうなれっていうの? 伊魚と付き合って私が幸せになれると! 本気でそう思ってるの!?」
止まらない涙を拭いながら伊魚に問う。
ずっとずっとずっとずっと。伊魚に聞きたかった。
伊魚との未来が見えない私と、どうやって幸せになるつもりなのかと。
伊魚はぎゅっと唇を引き結び、まっすぐに私の目を見ながら言う。
「家のことは、すまないと思ってる。母さんの当たりが強いのも、俺が跡を継いだらもうそんな風には絶対にさせないから、」
「嘘」
私は知っている。私だけはもう伊魚の嘘には騙されない。みんな伊魚に甘いから、誰も伊魚を咎めないから、この期に及んでまた嘘をつく。
「だって――もしも私が上手くやれなくて、いらなくなって、都合が悪くなったら。いないものとして扱うんでしょ?」
「伊里くんにそうしたように!!」
ハアハアと肩で呼吸をして、伊魚が言い返してくるのを待つ。しかしどれだけ待っても伊魚は黙っていた。
「なにか言ってよ」
そう言うと伊魚は俯いたままようやくポツリと声を発した。
「……そう思われても仕方がないと思ってる」
「だったら」
「でも無理なんだよ!!」
伊魚の悲痛な叫びが、その大きな声が、ガツンと頭に響く。伊魚は自分の胸の辺りにギリギリと爪を立てて、今にも前に倒れそうになりながら続けた。
「お前が他の男を選ぶのが耐えられない……っ。この先の未来にお前がいないなら生きられない。俺は、どこにも行けない」
伊魚のこんな姿は見たことがなかった。こんな声は聞いたことがなかった。
伊魚に対する苛立ちと、伊魚にこんなことを言わせた自分への怒りが頭痛を酷くする。ズキンズキンと脈打つ痛みが視野を狭めてゆく。
伊魚はただ俯いてそこに立っていた。泣いているのかもしれない。
ずるい、ごめんなさい。ずるい、足りない、ずるい、もっと、ずるい。ずるいずるいずるい!
これじゃあ私が悪者だ。
元々私の味方は伊里くんしかいない。伊里くんだけは私と同じ夢を持っていた。この町から出るという、海を、外の景色を見ると言う夢を。
涙は止まらない。そのことに気づいたらさらにボロボロとあふれてくる。
この町に私の味方は、いない。
「う、あああああ」
私は畑の中心に飛び出して、ドサリと緑の絨毯の上に膝をつく。今日は満月だから月にかざさなくても赤い葉脈がよく見えた。
私は片手で葉をむりしとり、そのまま口に突っ込む。青みと苦味の先に欲していた芳香を見つけ、さらに葉を引きちぎっては口に入れる。
「やめてくれ! 俺が悪かった! 頼む、」
足りない、足りない、これじゃあ伊里くんに会えない。伊里くんと手を繋いで帰り道を歩けない。伊里くんと海の話ができない。伊里くんと、伊里くんと!!
伊魚が私の体を羽交締めにする。泣きながら、なにかにずっと謝り続けている。
『海』
「あ、」
『海が見たい』
聞きたかった声が頭に直接響いてきて、ぐらりと視界が揺れる。すぐそばに伊里くんがいる。もう少しで伊里くんの姿が見える。
『海が』
「い、さと……くん」
『海が見たい』
「うん」
『海』『ウミ』『うみ』「海」『海』「海!」『海が』『うみが』
『好きだ』
「私も、好き」
伊魚の体にもたれ掛かりながら、力の入らない手で最後のマッチを擦った。地面にポトリと落ちたそれは、じわじわと葉の輪郭を囲み、延焼する。
甘い煙が脳に染み渡って、くらくらぐらぐらして、世界が、全てがどうでもよくなってゆく。
「やめよう、もう。もう……伊里のために祈らないでくれ。伊里はもういないんだよ」
祈りなんかじゃない。これは、伊里くんに会うためのただひとつの儀式なのだから。
伊魚は私を後ろから抱きしめて静かに泣いていた。煙と火に巻かれているはずなのになにも感じない。
これなら、これなら伊魚とでも少しだけ幸せだと思える。
じりじりと畑が燃えてゆく。その揺らめく炎と濃厚な煙の中に、杖をついた伊里くんが立っていた。
私は幸せな気持ちのまま、震える手でカメラのシャッターをきる。
ごめん伊里くん。海に連れて行けなくて。
心の中でそう謝ると伊里くんは困ったように笑っていた。
♢
炎から救出された後、伊魚は記憶の大部分を失っていた。
焼けゆく畑で私を庇って葉の煙を吸いすぎたらしい。身体中に火傷の跡が残り、しばらくは動けそうにない。
私の火傷は伊魚よりも軽かった。
警察には私が顛末を説明するよう言われたが、あまり覚えていないと言うといつのまにか伊魚と私が火に気付いて消火しようとしたが失敗したという話になっていた。
微塵も放火だと思われなかったのはその場に畑の跡取りの伊魚がいたからだろう。あるいは大ごとになるのを避けた古蒔の力に揉み消されたか。
後から聞いたのだけれど、畑で可燃性の高い植物が育てられていることは町全体に周知されていて、これまでも何度か火事があったのそうだ。
伊魚の母親が半狂乱で病室に押しかけてきて責任を取れとかなんとか泣き喚いていたけれど、私の母親が無言で追い出していた。
体の治療をするうちに、追い詰められるような気分と慢性的な頭痛から解放され、気づけば伊里くんはもう私の前に現れなくなっていた。
♢
――あれから。轟々と燃える畑の写真が評価され、私は町を出た。
毎日を仕事に忙殺されてあの町には一度も帰っていない。
伊魚から時々手紙が届く。体はもう回復していること、記憶のほとんどをなくしてしまったが私のことは断片的に覚えているということなどが綴られていた。
返事は出していない。いつか私のことも忘れて幸せになってほしい。
ようやくとれた休日に、私はひとりで海に来た。
潮騒を聞きながら日陰に腰を下ろす。目が痛くなるほどの青空と青い海が広がっている。
火傷跡が残る手で、私は一枚の写真を取り出した。伊里くんが写る唯一の写真だ。
伊里くん、あなたに聞きたいことがあるの。
あの夜、伊里くんが畑に連れて行くのは私じゃなくてもよかった?
あの時声をかけたのが私じゃなくても同じ結末だった?
ねえ伊里くん。あの日伊里くんは私の名前を覚えていた?
「私の名前、海っていうのよ。ねえ、伊里くん」
一陣の風が私の手から写真をさらう。写りの悪い写真はそのまま遥か海の彼方へと飛んで見えなくなった。
畑焼く、海 (了)
最後までお読みいただきありがとうございました。




