第二部:権力の法廷
六月のジュネーブ。
国連人権理事会の会議場――世界中の記者がフラッシュを浴びせるその壇上に、青木亮吾の姿があった。
スーツの襟元を指で整え、青木は深い呼吸を一つ。
背後には各国代表の席が並び、目の前の演壇には無数のカメラとマイクが突きつけられている。
「……ご紹介に預かりました、人権高等弁務官事務所 特命補佐官の青木です」
落ち着いた日本語が、同時通訳で幾つもの言語に翻訳され、会場に広がった。
「私たちが守ろうとしているのは、途上国の弱者だけではありません。
経済大国の陰に隠れた声なき人々を、どこまで救えるのか――
それが、私の新しい任務です」
その瞬間、彼のポケットのスマホが震えた。
表示された名前に、青木の眉がわずかに動く。
『パトリシア』
「……彼女は、まだ現場にいるのか」
青木は演壇を下りながら、電話に出た。
「ボス!暇?また面倒ごと拾った!」
背後で議場スタッフが小走りに近づいてくるのを尻目に、パトリシアの声が携帯の向こうで元気に弾んだ。
「今度はどこだ?」
「東欧の金融特区。国営企業とマフィアが組んで、亡命者を人質に保護ビザを握り潰してるってさ!」
青木は額を押さえる。
「……国連理事会が終わり次第、飛ぶ」
「オッケー!こっちは証拠探っとく!じゃあ後で!」
ぷつりと通話が切れた。
青木は深く息を吐き、目の前に並んだ各国代表を見渡した。
「――どうやら、休んでいる暇はなさそうだ」
彼は小さく自嘲気味に笑い、スタッフに新しい資料を手渡した。
「これを今日の議題に加えてくれ。
不正入国と人権侵害、及び国営銀行の裏金ルートについてだ」
スタッフの顔が引きつる。
「そんな……それは各国の首脳が黙っていません!」
「だからこそ、私がやるんだよ」
青木亮吾――
権力の法廷で言葉を武器に戦う男の、新たな戦場の幕が、いま開いた。
第二部 第一章:亡命者の街
曇り空に雪がちらついていた。
東欧の金融特区――通称「亡命者の街」。
元国営企業のオフィスビルが立ち並ぶこの街には、祖国を追われた政治難民やジャーナリスト、亡命政府の影が入り乱れている。
その一角。
使われなくなった倉庫の裏口で、パトリシア・エルナンデスは革ジャンのフードを深く被り、物陰に身を潜めていた。
「……バカみたいに監視カメラが多いくせに、隠し金庫は紙で鍵してるとか……笑わせてくれる……」
ポケットの中では、小型カメラが無音で回り続けている。
彼女の前に広がるのは、国営企業とマフィアの裏取引帳簿――
亡命者に発給すべき保護ビザの不正抹消記録、巨額の裏金ルート、秘密の人質収容施設のリスト。
「……亮吾、あんたが好きそうなネタ、満載だよ」
パトリシアは帳簿をポーチに詰め込むと、足音を殺して倉庫を抜け出した。
だが、夜の路地に出た瞬間、背後に複数の影が滑り込む。
「お嬢さん、帳簿を置いていきな」
低い声と同時に、男たちがナイフをちらつかせる。
パトリシアはポケットから飴玉を取り出し、口に放り込んだ。
「……眠いのに、なんであんたらまで付き合わなきゃいけないんだよ……」
同じ頃――
ジュネーブの国連本部。
夜の会議室に、青木亮吾は一人、巨大なガラス窓を背に立っていた。
机の上には世界各国からの抗議文と、政治家の署名付きの圧力メール。
隣には、パトリシアからリアルタイムで送られ続けてくる裏帳簿のデータ。
「亡命者のビザを抹殺し、口封じに人質を取る……
資金ルートは国営銀行と……与党幹部の個人口座……」
青木の指が、キーボードを叩く手を止めた。
次の瞬間、背後のドアが乱暴に開かれる。
「青木補佐官!」
現れたのは国連理事会のアドバイザーだった。
顔色が青い。
「あなたの暴露が国境を超えた!
東欧の政府が正式に抗議声明を出したんだ!
マスコミは既に報道を始めて……各国の代表が大騒ぎだ!」
青木は平然と書類をまとめると、アドバイザーに言った。
「……すべて計算済みです。
マフィアと手を組んで人権を売買するなら、権力者も同罪。
私たちは、法廷に引きずり出すだけです」
「青木補佐官!あなた一人でどうするつもりですか!」
青木はにやりと笑った。
「――私一人じゃありませんよ。
現場には、最強の補佐官がいる」
亡命者の街。
パトリシアの足元には、倒れた襲撃者たちが転がっていた。
「……ふん、ちょっとは寝かせろよ、バカども……」
彼女は壊れたスマホの画面を睨みつつ、青木への通信を開いた。
『おーいボス!証拠、全部確保した。
人質収容施設の場所も割ったから、迎えに来い!』
青木の声が笑って返ってきた。
『よくやった。すぐに国連の保護チームを向かわせる。
これで終わりだ――あとは俺が法廷で潰す』
吹雪の路地に、遠くパトカーのサイレンが響く。
亡命者の街は、今夜から少しだけ、名前を変えることになるかもしれない。
*
第二部 第一章:完
第二部 第二章:告発者の保護と裏切りの審問
東欧・金融特区の外れにある古びたレンガ倉庫。
そこが、亡命申請者を“人質”として囲い込み、裏金と政治取引の道具にしていた秘密収容施設だった。
夜明け前、倉庫の前には国連の青い旗を掲げた装甲バスが横付けされている。
パトリシア・エルナンデスは、手の甲の血をぬぐいながら、保護チームに人々を次々と誘導していた。
「大丈夫、もう誰もあんたらを買い戻したりしないから」
泣きじゃくる女性を背中で庇い、彼女は淡々と声をかける。
銃を持った国連の保護要員が建物の中を制圧し、医師が負傷者を担ぎ出す。
それを見届けたパトリシアは、煙草をくわえたが、すぐにポケットに戻した。
「……やっぱやめた。
亮吾が説教する顔が目に浮かぶ」
一方その頃――
ジュネーブ、国連法廷特別審問室。
青木亮吾は、木製の長机に両肘をつき、向かいの男を無言で睨んでいた。
男は東欧特区の与党幹部、通称“灰色の王”。
亡命者売買とマフィアの仲介役として、青木が裏帳簿を叩きつけた張本人だ。
「……君が一人でこの俺を裁けると思っているのかね」
痩せた男は冷たく笑った。
「国連はただのパフォーマンス。
証拠など無効にできる。裁判所を買うのなど、今さらだろう?」
青木は一枚の書類を無造作に机に置いた。
それは、亡命申請者たちの証言書、監禁現場の映像、そして内部関係者の供述調書。
「……残念ながら、これは国際審問案件だ。
君の国の法廷じゃない。買収も恫喝も効かない。
そして君の銀行口座も、今朝方凍結済みだ」
“灰色の王”の顔色が初めて変わった。
青木は冷たい声で続けた。
「君の資金を受け取っていた銀行は、自動的にテロ資金供与の疑いで国際監視下に入る。
逃げ道はない」
幹部の唇が震えた。
「……こんな茶番……君の権限でやれることじゃ……!」
青木は身を乗り出した。
「私は国連人権高等弁務官事務所 特命補佐官だ。
人権侵害を国家ごと告発するのが仕事だ。
――君は見誤った。
人権を、金と椅子で黙らせられると、思い込んだ」
審問室のドアが開き、パトリシアが現れた。
血と埃だらけの顔で、だが満面の笑みを浮かべている。
「ご報告!人質全員保護完了!ついでにマフィアの支部長も捕まえといた!」
青木は一瞬だけ笑みを浮かべ、幹部に視線を戻した。
「君の共犯者が一斉に裏切ってくれるそうだ。
次は法廷で会おう――全世界の報道陣の前でな」
“灰色の王”の顔から血の気が引いていく。
ジュネーブの窓の外では、朝の陽光がようやく重い雲を裂いて差し込み始めていた。
青木亮吾の戦いは、また一つ、権力の影を暴き出していく。
*
第二部 第二章:完
第二部 第三章:権力の亡霊たち
夜のジュネーブ。
豪奢なシャンデリアが揺れるホテルの一室で、青木亮吾は一枚の封筒を開けていた。
差出人は不明。
中には一枚の古い白黒写真と、短いメモが一行。
「次はお前だ。
亡霊はまだ生きている」
写真には、東欧特区の元幹部たちと並んで笑う一人の男――
かつて東欧内戦を仲裁したと言われる影の調停者。
表の肩書は、国際機関の元理事会顧問。
「……なるほど。亡霊か」
青木は写真をじっと見つめた。
これまでのマフィアも政府幹部も、全てはこの男の“遺産”だった。
亡命者の売買ルート、国営銀行の裏金口座、そして国際政治の隙間を突いた裏取引。
すべてを操ってきた亡霊の正体に、ついに指が届きかけている。
一方――
郊外の隠れ家の地下室。
パトリシアは髪をゴムでまとめ、PC画面を睨んでいた。
「……やっぱり痕跡があったか……」
元内戦調停者の個人口座データを、青木から渡された裏帳簿と突き合わせる。
不自然な巨額送金の記録が、今も生きている。
しかも――
「……これ、国連の元幹部たちの名前まで……」
パトリシアは思わず舌打ちした。
突然、背後の扉が軋んだ。
護衛の一人が血相を変えて飛び込んでくる。
「パトリシアさん!外に武装集団が!……逃げてください!」
「はあ!?もう!?亮吾の予想より早いじゃん!」
パトリシアはPCを叩き、外付けドライブにデータを移すと、革ジャンを引っ掴んだ。
外では、雪混じりの夜気に銃声が響いた。
パトリシアは護衛と共に薄暗い裏通路を駆け抜ける。
「くそ……亡霊ってやつ、まだ生きてるどころか、全然元気じゃないか!」
背後から飛んできた銃弾が壁をえぐる。
パトリシアは振り返らずに叫んだ。
「ボス!私を使い捨てにするなよ!データだけは死守する!」
同じ頃、ホテルの青木にも護衛官が駆け込んだ。
「補佐官!パトリシアさんの隠れ家が襲撃されました!
追跡信号は断続的です!」
青木は封筒を懐にしまうと、冷たい声で言った。
「……やはり亡霊は俺を試している。
パトリシアを守れ。全員を現場に回せ。
亡霊ごと、ここで決着をつける」
彼の瞳には恐れも迷いもなかった。
夜のジュネーブに再び雪が舞う。
人権を奪う権力の亡霊たちが、最後の牙を剥き始めた。
*
第二部 第三章:完
第二部 第四章:亡霊との最終交渉
雪のジュネーブ郊外――
古い修道院を改装したとされる石造りの迎賓館。
国際調停の歴史を刻む由緒あるこの場所に、今夜は誰の立ち会いもない、極秘の交渉が開かれようとしていた。
ロビーの暖炉には静かに薪が燃え、重厚なソファに背を預けた男の前に、青木亮吾が一人立つ。
「久しいな、青木補佐官……いや、“権力を嗤う若造”と呼ばれているそうじゃないか」
男の声は低く、枯れているのに不気味な響きを宿していた。
“亡霊”。
元内戦調停者にして、東欧特区の裏を牛耳り、マフィアや政府さえ手駒にしてきた男。
青木は一歩も引かず、その目をまっすぐに見返した。
「あなたの亡霊劇場は、ここで終わりだ。
裏帳簿も資金ルートも、あなたが育てた幹部たちも――パトリシアがすべて暴いた」
亡霊は煙草に火をつけ、紫煙を吐いた。
「……全てではない。
私が積み上げたものは、君ごときの正義では崩せん」
青木はスーツの内ポケットから、一通の封筒を取り出した。
「これは、あなたが築いた裏口座の全履歴と、かつて救ったはずの難民を搾取した証拠だ。
国連本部に既に送信済みだ。
今ここで降伏を宣言すれば、命だけは助けよう」
亡霊は笑い、細い煙が天井へ昇った。
「青木……君のような人権屋は、百年経っても私の遺灰にさえ勝てんよ」
その言葉が終わるより早く――
バンッ!
部屋の扉が乱暴に開いた。
雪に濡れたパトリシアが銃を構えて飛び込んでくる。
「ボス!罠だ!後ろから狙撃班が――!」
同時に窓の外から閃光が弾け、館の壁を銃弾が抉った。
青木は躊躇なく亡霊をテーブルに叩きつけ、そのまま背後に覆いかぶさるようにパトリシアを庇った。
「……パトリシア、逃げろ!こいつは俺が……!」
「バカ言うな!死んだら許さないからな!」
二人が身を伏せたまま、外の雪原に隠れた狙撃班を確認する。
だが、その瞬間――
亡霊が、折れた指で懐から小型のリモコンを取り出し、かすかに笑った。
「……お前たちは私を追い詰めたつもりだろうが……
私はこの街ごと、人権の理想を血で洗わせて終わる!」
リモコンの赤いランプが点滅を始める。
青木の目がかすかに揺れた。
「……パトリシア!」
「わかってる!」
パトリシアは亡霊に飛びかかり、青木はカーペットを剥いで床下の配線を確認する。
薄暗い床下に無数の爆薬が並んでいた。
「……亡霊よ。
あんたの狂気は、俺が引き継がない。
ここで、終わらせる!」
青木の手が床下の導火線を一気に引きちぎった。
パトリシアが亡霊の腕を後ろ手に極め、リモコンを奪い取る。
静寂が戻った部屋。
青木とパトリシアの息遣いだけが残り、テーブルに叩きつけられた亡霊が呻いている。
「……権力も亡霊も、理想を喰い物にする寄生虫だ」
青木は吐き捨てるように言った。
パトリシアが笑った。
「さすがボス。演説も爆弾処理も一人前だな」
迎賓館の外には、国連保安局の車列が集まりつつあった。
雪は止み、遠くに夜明けが滲み始めている。
亡霊は、ついにこの雪と共に、世界の闇に埋葬されるのだ。
*
第二部 第四章:完
第二部 最終章:理想の代償
夜が明け切ったジュネーブ。
人権高等弁務官事務所の最上階会議室には、国連の高官たちと報道陣がひしめいていた。
壇上に立つ青木亮吾の顔には、疲労の影と、それを凌駕する確信の光があった。
隣には、怪我だらけのパトリシア・エルナンデス。
両腕を包帯で巻きながらも、彼女は堂々と立っている。
「これまで私たちは、権力と暴力が結託した亡霊と戦ってきました。
この亡霊は、各国の政治を揺さぶり、難民を人質にし、裏金で法を買い漁ってきた」
青木の声が、全世界に中継されるカメラ越しに響いた。
「我々が成し遂げたのは、亡霊の一掃ではありません。
“亡霊を見逃さない仕組み”を作り始めたに過ぎない――
これが、私たちの仕事です」
会場の隅で、亡霊の元部下たちが、護送官に連行されていく。
パトリシアがマイクを引き寄せ、記者たちに言い放つ。
「次に亡霊を生むのは、私たち自身かもしれない。
だからこそ、見張り続ける目を増やすんだ。
人権ってのは、誰かがずっと噛みついて守るものだからね!」
拍手とフラッシュが一斉に弾けた。
その後――
会見が終わり、事務所の屋上。
白い雲がちぎれ、遠くアルプスの稜線がくっきり見えていた。
パトリシアはフェンスに寄りかかり、頬にあたる風に目を細めた。
「……一件落着って言ったら、次の日には新しい爆弾が転がってんだろうな」
青木は横に立って、肩を並べた。
「だろうな。
でも、爆弾が転がってる限り、俺たちの仕事は終わらない」
パトリシアは振り向いて、いつになく真剣な瞳で青木を見た。
「……あんたの理想のせいで、私はいつも寝不足だぞ。
責任取れよ?」
青木はわずかに笑って、パトリシアの頭をそっと撫でた。
「理想は命がけで追うものだ。
一人で背負わない。お前がいるから、俺は戦える」
二人は無言のまま、遠くの空を見上げた。
人権の旗の下で、まだ戦いは終わらない。
だがそれでも――
今だけは、この空気を、信じていい。
*
第二部 最終章:理想の代償――完
【完結】
青木亮吾とパトリシアの「権力を嗤う経済人権小説」、ここに完結です!